車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

桶狭間古戦場公園 in 愛知県名古屋市緑区

2016年08月05日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

有松の町歩きの後に立ち寄ったのは、名古屋市緑区桶狭間北3丁目にある「桶狭間古戦場公園」。

あれ、そういえば確か豊明市には「桶狭間古戦場伝説地」がある事で知られており、ご当地マンホールのデザインにもなっています。どちらにもその事を示す根拠となるものが有り、どちらの言い分にも頷けるものが有るのですが、その議論は本格的な歴史愛好家にお任せしましょう(〃∇〃)

永禄3年5月19日(1560年6月12日)、尾張国知多郡桶狭間において織田信長軍と今川義元軍が激突。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、僅か4千人の兵を率いた織田信長が本陣を奇襲。今川義元は討ち取られ、合戦は織田軍の勝利に終わりました。

有松にあるこの地は、桶狭間の戦いで『今川義元』が討ち取られた最後の場所とも言われています。むろんこれにも豊明の桶狭間古戦場説があり、未だに解けない謎として残されています。

それはさておき、桶狭間古戦場公園の入口に立つのは槍の『織田信長』と、弓の『今川義元』

十七歳で家督を継ぎ、8年の歳月をかけて尾張統一を果たした『織田信長』この時二十七歳。迎えるのは「海道一の弓取り」の異名を持つ『今川義元』四十一歳。

桶狭間の戦い解説ジオラマ板

誰が手向けたものか「今川義元公」と刻まれた墓前には静かに香がくゆり、水が供えられています。もう一基には「駿公墓碣」の文字。いずれかが勝ち、いずれかが負けて滅びるのが戦国の世の習い。しかし、いずれの軍に属そうとも死者に対する悼みを大切にするこの国の民の心根が私には美しいものと思えます。

1本の枯れた「ねずの木」。傍らの説明には「ここにある枯れたねずの木は、今川義元が水を飲むために馬をつないだと言い伝えられ、ねず塚として残されてきたこと。またこの木に触れると熱病になると言い伝えられている。」

左の碑に刻まれた文字は不明。右は東海道と鎌倉街道追分の碑。

緑が一杯の桶狭間古戦場公園。ただしここへは徒歩で来ることをお勧めします。車で来てしまった私たち・・付近に駐車場も見当たらず、ご亭主殿は公園横に停車。折角の景色でしたが私一人での駈足散策となりました。

訪問日:2011年9月23日

 


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