江戸時代より「有松絞り」で繁栄した有松宿。町並みには今も商家が軒を連ね、絞りの街として賑わっていた往時を忍ばせます。
『安藤広重』による東海道五十三次「鳴海の宿」。旅の土産物として「有松絞り」を求める人、またその様子を眺めながら行き過ぎる旅人たちの様子が生き生きと描かれています。
有松絞りで全国に知られる有松の町は、慶長13年(1806)に尾張藩の奨励により誕生。もともとこの一帯は辺鄙な場所で、尾張藩は治安維持の為に、有松への入植者を公募。その入植者の中に、名古屋城の築城にも関わった有松絞りの創始者『竹田庄九郎』がいました。
彼は、名古屋城の築城の為に九州から参加した人々の藍染絞りの着物に感動し、木綿で豆絞りの手拭を作り始めます。それが有松絞りの誕生の由来と伝えられるもので、『竹田庄九郎の碑』の手前にその仔細が記されています。
町歩きのスタートは、有松絞りの歴史や資料等が展示されている「有松・鳴海絞会館」。館内に一歩足を踏み入れると、「鹿の子絞り」や「唐松縫い絞り」のお洋服?をたすき掛けに羽織った、有松絞りまつりのマスコットキャラクター『しぼりーちゃん』がお出迎えしてくれます。
さて、それでは『しぼりーちゃん』に見送られて有松の街歩きに繰り出す事に。まずは絞り会館正面で一際目立つ白漆喰塗籠造の「服部家住宅倉」。
「服部幸平家は、服部孫兵衛家(井桁屋)の分家にあたり、住宅も服部孫兵衛家の東隣を占める。 倉は、服部孫兵衛家の屋敷の一部を構成していたものであるが、分家に際し、元の位置のまま、服部幸平家に譲られたものである。白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とする外観は、東海道沿いの景観要素として貴重である」として、県文化財に指定されています。
服部家住宅倉の向かって左は「服部豊家住宅」。「寛政2年(1790)向かいにある大井桁屋から分家し、創業した絞問屋で、屋号を井桁屋といいます。屋敷地は、有松東海道に面し広い間口を有し、中央部に2階建の主屋を配し、井戸屋形、土蔵、門など併せて11棟が県指定文化財となっています。」現地案内より
黒漆喰の塗籠造り、屋根両妻に上げられた左右の卯建。これだけの卯建は美濃市で見た時以来かも。
多分・・井桁屋さんのウインドウに飾られていたと思う「桶染め絞り」に用いられた「桶」。
向かって右隣の土蔵は「県指定文化財:服部良也家:土蔵」。「服部家(井桁屋)から明治時代に東隣に分家した家柄。西側に建つ土蔵は、分家に際して服部家(井桁屋)から服部家(井桁一)に譲られたもので、二階建、切妻造、桟瓦葺で、建造は江戸末期と見られています。」
東海道沿いに面して軒を並べる、井桁屋、服部良也家母屋。
もう少し先に進んで見上げる高さの建物は、「有松山車会館」。有松には「布袋車」「唐子車」「神功皇后車」の3輌の山車があり、そのうち1台が定期的にこちらで展示されています。
そのおとなりは「橋爪合資会社」。有松商工会のHPによれば、大正10年(1921)創業の老舗で、時代に合った絞り製品の企画・製造・販売をしているそうです。
私たちが歩いているこの道は「東海道」。ほら、足元に「弥次さん喜多さん」のイラストタイル。東海道を歩いているんだなって思うだけで気持ちが昂るような気になるから人の心理って不思議(笑)
ああ、また卯建が素敵な建物が見えて来ました。名古屋市指定文化財の「小塚家」。主屋の外観は白漆喰の塗籠造、卯建、連子格子、海鼠壁、虫籠窓等々見応え一杯。
ご亭主殿は道々の屋根の上で睨みをきかせる「鍾馗様」を二体も見つけて、こちらもまたご機嫌(*^^*)
あっ!ねぇねぇ、屋根の上じゃないけど私も鍾馗様を見つけた(^▽^)/。でもなんで屋根から降ろされちゃったんだろう?
一足ごとに出会う家々の佇まい。何気なく入り込んだ路地の先に現れる由緒有り気な家屋。そのまま待っていると、粋な豆絞りの若い衆がひょいと顔を出して笑いかけてきそうな気さえします。
観光ルートに従って・・有松の街歩き~Ⅱ~に続きます(^▽^)/
訪問日:2011年9月23日
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