銚子市馬場町にある「飯沼山 円福寺」。銚子の繁華街や商店街は、飯沼観音を中心に形成され、門前町として繁栄してきました。地元では親しみを込め「銚子観音」とも呼ばれます。
かっては10間4方の観音堂をはじめ、仁王門・鐘楼・多宝塔などの諸堂を擁した飯沼観音・円福寺。しかし昭和20年(1945)の空襲で、多宝塔以下観音堂、仁王門など全ての諸堂を焼失。境内の一段高み、石段の先に建つ朱塗りの観音堂は、昭和四十六年に再建されたものです。
「縁起絵巻」によると【神亀五年(728)の春、銚子の浦が荒れて漁ができなくなり、五月には皷が淵の沖の海上が光り輝いた。ある夜、漁師の清六が、「輝いているところで牛堀の漁師長蔵とともに漁をせよ」との霊夢を見た。翌朝、沖に出ると、同じ霊夢を見た長蔵が対岸から来たので、二人で網をおろしたところ、左の脇に瑪瑙をはさんだ十一面観音が出現した。二人は出家して草庵を結び、尊像を安置。加持して諸人の病を癒したので、瘧除(ぎゃくよけ)法師と呼ばれたと伝えられる。】
【また後に、弘法大師が東国を巡錫した大同年間(806~810)、この尊像を拝したが、海中出現のままの姿だったので、台座や光背を作り、開眼供養をおこなった事をもって創建とされる。】 本尊は秘仏で厨子に安置されていますが、御前立の「十一面観音菩薩立像」は藤原時代の作と云われています。
内陣の左右を飾る天井絵には、西国、坂東、秩父、四国八十八カ所すべての本尊が描かれています。 霊場巡りを経験した事がないので今一つピンと来ませんが、その景色は圧巻。
提灯から下がる五色綱は観音様の手と結ばれており、綱を握る事で観音様と縁を結ぶ事ができるとされます。 信心深くない二人が観音様に縁を結んで頂けるかは疑問ですが😊、一応、互いの健やかである事と、旅の無事を祈りました。
観音堂の右には、正徳元年(1711)に造立された一丈七尺の「阿弥陀如来座像」がおられます。阿弥陀如来の膝と背中にある痛ましい傷跡は、大東亜戦争時に受けた機銃掃射の跡だそうです。
遠目からでも一際目立つ朱塗りの塔は総高 33.55m、円福寺の象徴とも言える五重塔で2009年に建立。塔内には「薬師如来像」が安置されています。
五重塔の近くには【しハらくは 花のうへなる 月夜哉】と刻まれた芭蕉句碑。碑には他に7名の句も添えられ、裏には「天保二年辛卯 如月再建」と刻まれています。
厳重そうな囲いの中に埋められているのは、何の変哲もない四角い石ですが、実はこれ「飯沼水準原標石」。明治五年(1872)に、政府より招聘されたオランダ人技師・リンドにより設置。利根川や江戸川の河川整備に必要となる水位表記は、これを基点にして定められました。
観音堂エリアには、他にも多くの建造物やそれらにまつわる彫刻がありますが、それはまた明日。
参拝日:2014年5月18日&2019年3月12日
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