「道の駅:匹見峡」の道路向かいに、一際眼を引く茅葺の大屋根は「美濃地屋敷」。
かって「たたら業」で栄え、江戸時代後期には周辺の村々を管理してきた「割元庄屋・美濃地家」。 入母屋づくりの母屋と白漆喰の米倉は、1855年に改築された当時のままの姿で残されています。
出自は秦氏といわれ、戦国期には雲州富田城主の尼子氏に仕え、その後美濃地村に移住。七尾城主『益田兼堯』に仕えるにあたり、その任地の地名をもって姓としたと伝えられています。
現在の美濃地屋敷は、旧匹見町時代に所有者から寄託を受けて町が管理。屋敷内の見学も可能で、また屋敷を丸ごと利用した活動も展開され、地元のグループによる様々な試みがなされています。
床の間のしつらえが格式を感じさせます。
多人数が共にくつろげる大きな囲炉裏
外光を上手に取り入れた明るい竈場
白漆喰の米倉に施された鳳凰の鏝絵は、屋敷が建てられた当時のものだそうです。もちろん、時代による劣化の為の修復はなされたのでしょうが、それにしても美しい。
倉の展示スペースには、美濃地家に代々伝えられた漆器や酒気などの家財、奥向きの女性たちが用いたであろう装身具の数々が。
また、季節ごとに飾られた節句人形が、当時の華やかさをそのままに観覧者を迎えてくれます。ガラスケース越しですが、この武者人形、ステキでしょう(*_*)
母屋の隣に新たに建設された民俗資料館、2階には数多くの農具や民具が展示されています。でも私たちの目を引いたのは1階に展示されていた「道川神楽社中」の石見神楽資料の数々。
金糸・銀糸を使用した刺繍は、今にも袖や背中から飛び出し雄叫びを上げそうに鮮やかな龍。数十キロの衣装をまとい、いかにも軽やかに立ち回る舞子の所作は、実に惚れ惚れとします。
旧割元庄屋の繁栄を今に伝える「旧美濃地家住宅母屋」は、2018年3月27日国登録有形文化財に指定されました。
訪問日:2012年11月9日
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旧美濃郡匹見町(ひきみちょう)は益田市西部に位置した町です。町域の殆どが森林に囲まれており、広島県、山口県と境を接しています。豪雪地帯対策特別措置法に基づく豪雪地帯としては日本最西端に位置し、1963年の三八豪雪以降より過疎が進行。「過疎発祥の地」としても知られています。「町の木:匹見杉」「町の花:岸ツツジ」を制定。
明治22年(1889)、町村制の施行により美濃郡道川村・匹見上村・匹見下村が発足。
1955年、美濃郡道川村・匹見上村・匹見下村が合併、美濃郡匹見村が発足。
1956年、匹見村が町制を施行、美濃郡匹見町となります。
2004年、益田市に編入、益田市匹見町となりました。
昭和30年(1955)7月1日制定の町章は「匹を図案化したものです。」
今回訪れた旧匹見町域では、残念ながらマンホール類は発見できませんでした。
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