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高杉晋作を訪ねて~東光墓 in 山口県下関市吉田

2024年03月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

慶応3年(1867)4月14日、27年8ヶ月の生涯を閉じた『高杉晋作』。その遺骸は彼の遺言により奇兵隊の本陣が置かれた吉田清水山に葬られました。奇兵隊の本営は庄屋の末富寅次郎家に置かれていた為、墓地の選定には彼が尽力。葬儀は4月16日数千人が吉田に会葬し、白石正一郎などが神式で一切を取り計らって執行。晋作没後、愛妾『おうの』は出家し東行庵の庵主『梅処尼』となり、生涯、晋作の墓を守って暮らしました。

激動の時代を疾風の如く生きて駆け抜けた高杉晋作。切ない程の深紅の紅葉に迎えられて進む参道、この先に幼い頃に憧れた彼の人が眠っている。

「史跡 高杉晋作墓」

着流しに羽織姿、剣をつかんで彼方を見る晋作の姿は、子供の頃に歴史本で見た姿とちっとも変っていない。石でも銅でもない、陶器ゆえの温もりがある。

「山形有朋:像」

「東行墓」と刻まれた高杉晋作の墓。墓前には木戸孝允、井上馨、伊藤博文により寄進された石灯籠。晋作は元治元年(1864)12月の功山寺決起直前に、大庭伝七あて書状に遺言として墓誌を記していましたが、それが判明したのは葬儀の後であった為、墓碑銘は晋作の号より『東光』と刻まれました。

2016年4月14日:高杉晋作没後150年記念事業として、作家の故・古川薫氏らが中心となり、晋作が遺言で記した墓誌の墓碑銘が建立されました。

【故奇兵隊開闢総督高杉晋作則 西海一狂生東行墓 遊撃将軍谷梅之助也】
   裏面には【毛利家恩古臣高杉某嫡子也】

明治44年(1911)5月20日、井上馨によって「高杉晋作顕彰碑」が除幕。撰文は伊藤博文、揮毫は杉孫七郎。頭書きの「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し~」はあまりにも有名で、高杉晋作の人となりと行動をよく表しています。

「高杉晋作顕彰碑・除幕式記念碑」

高杉晋作:東光墓と並ぶ「福田公明(侠平)の墓」高杉晋作に最も信頼され奇兵隊参謀として活躍。北越に従軍しましたが、病気で下関に帰り、明治元年(1868)に死去。

高杉晋作顕著碑と並ぶ「福田公明顕彰碑」。

東光墓の一段下には、42年間晋作を弔い続け明治42年(1909)に亡くなった『梅処尼』が晋作を守るように眠っています。

維新戦争で亡くなった長州諸隊士の多くは十代~二十代の青年で子孫もなく、無縁仏となり荒れ果てるケースが多かったといいます。東行庵三世・谷玉仙尼は昭和46年に墓地を開き、全国各地から隊士の墓を集め供養顕彰をしました。

ここには奇兵隊に支援を続けた白石正一郎、奇兵隊三代総督を務めた赤根武人の墓など140基が建立されています。

「今井万太郎の墓」年齢を偽り小倉戦争に従軍、14歳で戦死。

姓名・出身・来歴の判明した墓には、詳細を記した駒札がそれぞれに添えられています。

太田里灯句碑【 蟻の列 奇兵隊小者 喜作の墓 】(喜作の墓の前を蟻の列が続いている。それをじっと見ていると、明治維新に奇兵隊の隊士として活躍、名もなく消えていった草莽の人たちのことが思われる)

勝者となった討幕軍側の兵士達は、当たり前に「人」として葬られ、個々の墓も作られていました。後年、無縁仏となる事を憂えた人物の手によって、新たな墓所も与えられました。墓碑に手を合わせつつも・・・その反対側には、せめて埋葬だけでもと懇願し続けた寄る辺の眼前に、これみよがしに野ざらしにし、言葉にするのもおぞましい陵辱を加え、鳥獣の餌食とさせ、腐乱するまで打ち捨てさせた多くの会津藩士達への惨い仕打ちがあった事を考えずにはいられません。

高杉晋作さん・・・私はあなたが会津藩討伐隊に関わることなく冥府に旅立って逝った事に、情けなくも安堵しています。  それとも・・歴史に“if”などないと知りつつ・・あなたがいても・・薩長連合のあの鬼畜の所業を許したのでしょうか🙏 会津訪問から二年の歳月を経て・・今なおその思いは消えません。

参拝日:2017年12月2日


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7 コメント

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まっちさん (tibineko)
2024-03-15 12:16:53
高杉晋作の都都逸の下り
絶対に有りそうだと、その様子まで想像できました😅

結局あれだけの人物が跋扈しながら
要領の良い物はうまく維新のなかで地位も名誉も手にし
要領の悪い物はふるいにかけられた
高杉晋作さんの早すぎる死も、考え方によれば、
だからこそ後世に名を残したと言えます。
私の感傷でしかないIFに真摯なお返事
有難うございました🙏
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上の訂正 (まっち)
2024-03-14 23:41:08
長州でみれば伊藤と木戸は大久保につき木戸は孤立。⇒
長州でみれば伊藤と井上は大久保につき木戸は孤立。
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歴史にIFはないけれど (まっち)
2024-03-14 23:39:48
仮に高杉や坂本がもっと長寿を全うしていたらどうなっていたか?
うーん
よく明治は藩閥政治といわれるけど長州や薩摩がそれぞれ一枚岩でなかったことは大久保と西郷の対立でも明らか。
薩長土肥の中でも維新に貢献した中堅士族の多くはそれぞれ萩の乱、佐賀の乱、西南戦争で反旗を翻しふるいに掛けられたたし、土佐は自由民権運動という形で反発。
長州でみれば伊藤と木戸は大久保につき木戸は孤立。
山縣は陸軍閥という自分の砦にこもった。
仮に高杉がそこにいたとしても大久保・伊藤とうまくやってゆくとは思えない。
政治やーーめたといって萩に帰って都都逸でも読んでるか、西郷みたいに不平士族に祭り上げられてたかも?
もしくはアメリカにでも渡ったか?
坂本についてはまあ歴史が高く評価してるけど、個人的にそんな大したやつじゃあなかったって思ってます。
その後も実業の道を選んだとしてもたぶん岩崎弥太郎には勝てなかったろうし。
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だんちょうさん (tibineko)
2024-03-13 21:56:40
雪が降ったら、子供たちは犬のように駆けまわって喜びますよ。
大人たちは溜息をつきながら
猫のように部屋の中で丸くなります
いや、もしかして丸くなるのは私だけかも💦
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まっちさん (tibineko)
2024-03-13 21:52:36
白石正一郎氏の事、初めて知りました。
そのような経緯があったんですね
ふと思う事があるのです
維新回天の英雄であった高杉晋作の存在は
最終的に勝者として君臨することになった長州の志士たちには、どのような存在だったのかと。
歴史にイフは無いけれど、もしも生きながらえて維新を迎えていたら・・
戦いの為には間違いなく使える人物だった
けれど圧倒的勝者となった後では
どうだったんだろう?
彼の若さゆえの正義感は、会津における政府軍の、あのおぞましい行為を笑って見過ごせただろうか・・・と
うまく言葉に出来ませんが・・
黒い澱のようなものが心に残っています
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Unknown (だんちょう)
2024-03-13 21:50:20
こんばんは。
7年くらい前の事なのですねエ。

そちらは12月でも雪が無いのが羨ましいですね。
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白石正一郎 (まっち)
2024-03-13 18:27:55
西郷との縁をきっかけに薩摩藩御用達となるなどした豪商。
高杉に心酔し奇兵隊結成に際してもその資金の大半を拠出するなど自らの資産を枯渇させるまでして経済的に志士を支援。
ところが当の高杉の早逝で拠出したお金はとりっぱぐれ。
清廉潔白な性格だったようだけど、明治新政府成立後に薩長の英傑たちが三井・三菱・鴻池などと癒着しているさまを見て白石の胸中やいかに?
経済に疎い政治家は宜しからず、多少お金に汚い方が良しとは言ったものの、恩を受けた人物に見返りもしないのはいかがなものか?
そのあたり個人的に長州系の志士たちを今一つ好きになれない一因です。
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