車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

旧梓川村の道祖神 in 長野県松本市梓川

2022年08月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市梓川倭北大妻に「酒器:祝言双体道祖神」一基。「天保四年(1833)正月吉日」の刻。

道祖神の前に添えられたお線香立て・・多分地元の方に大切に祀られているのでしょう。そんな何気ない風景こそがなによりも美しいものだと、最近、しみじみと思うようになりました。

その道祖神の近くにあった紙垂と注連縄で結界が貼られた祠。きっと軽々しく触れてはいけない「何か」なのだと思います。

松本市梓川倭、梓川カルチャーパークの看板上で来館者を出迎えてくれる「握手双体道祖神」一基。

仲良く座った二人の姿が、何故か親より大きく育ち過ぎた子供を抱く母親に見えて😆 石に刻まれた表情は、見る時々の気持ちによってどんな風にも変わっていきます。

梓川リバーサイドラインと県道315号線のT字路の一画に「肩抱握手双体道祖神」一基。

寄り添いあう二人が見つめる先にある何かを・・私も一緒に見てみたい。

松本市梓川下立田の「念仏碑」「庚申塔」等々

「青面金剛佛塔」

松本市梓川下立田、「酒器祝言双体道祖神」。「双体道祖神」各一基。 

「弘化三丙午(1846)八月 中荒井中」の刻。たなびく雲の上で誓いの杯を交わす男女神。

男神の傍らには三つ重ねの盃が置かれています。

後方に、下半分が削り取られてしまった「双体道祖神」。お顔の判別もつき難くなっていますが、仲良く並ぶ二人の姿だけはちゃんと見えています。

梓川サービスエリア上りの敷地内:見晴らし台に双体道祖神のモニュメントが有ります。住所的には下り線は松本市、上り線は安曇野市・・どの地域に入れるか悩んだのですが、ここはSAの名称にこじつけて😅

「握手抱擁双体道祖神」「酒器祝言双体道祖神」。別々の道祖神ではなく、一つの石のそれぞれの面に彫られています。

撮影日:2010年10月16日&2016年4月22日

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩岡(いわおか)神社 in 長野県松本市梓川

2022年08月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市梓川倭に鎮座される「岩岡神社」。御祭神は『瀬織津姫(せおりつひめ)神・建御名方神』。

『瀬織津姫神』は早瀬の穢れを清める祓神や水神等の性格を持つ、治水の神とされています。かってこの付近は、度々梓川の氾濫に見舞われ甚大な被害を受けていたと云い、そうした被害を免れる事を願って創建されたと云われます。

一の鳥居の先、左右より神域を守護されるのは、昭和11年(1936)3月建立の松本型狛犬さん一対。阿吽ともに子狛を抱いており、全てにおいて田近氏の狛犬と非常によく似ています。が、台座に名前が無く、作者は不詳とします。

吽形さんの仔狛は尾を高く上げて、毬の紐に噛り付いてやんちゃぶりを発揮。

阿形さんの仔狛は前足の間にすっぽりと収まって、大好きな親狛の顔を見上げています。

この仔たちが生み出された年は、歴史的な大事件「二・二六事件」の勃発した年であり、また一方では、ベルリン五輪で『前畑秀子』が日本人女性として五輪史上初の金メダルを獲得した年。そんな時代にこれだけの狛犬を生み出した作者・・気になります。

細目に編まれた注連縄が美しい二の鳥居

幣殿を兼ねた右片拝殿の付いた平入の拝殿

褄下彫刻は「飛鶴に松」。一杯に広げた羽と松葉の対比が美しい。

拝殿屋根の御神紋は御祭神に因んだ「明神梶の葉」

留め蓋の上で境内を見下ろす飾り瓦の獅子一対。流れるたてがみ、突き出した顎が力強く秀逸。

境内社

境内に鎮座する「磐座」は梓川の河床の下を通って「岩岡の火打岩」に繋がっていると云われています。

参拝日:2010年10月17日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大妻(おおづま)神社 in 長野県松本市梓川

2022年08月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市梓川倭に鎮座される「大妻(おおづま)神社」。御祭神は『大妻太郎兼澄、建御名方命』。

祭神である大妻太郎兼澄は、鎌倉時代に大妻の地に居館を構えていた武士。承久2年(1221)の乱の際、大妻の地を所有していた後鳥羽上皇側に付き、敗走後に山に入り果てたとされています。「大妻氏」は平安時代からこの地に存在し、その血脈は今も途切れることなく「大妻女子大学創設者 大妻コタカ氏」はその末裔だそうです。

境内入り口近くより神域を守護されるのは、明治29年7月建立の狛犬さん一対。この仔たちと対面したご亭主殿の第一声は「おお~~~っ!!」😲

いや、確かに気持ちはよ~~っく分かります。この巨大な宝珠と言い、ぬっと突き出した首と言い、はるばる信州まで来た甲斐があったというもの。

とは言え、何故に阿形さんにまで、しかもどう見ても頭上の宝珠はどこかの借り物に見える・・😓

拝殿奥左右より御本殿を守護されるのは、珍しい石像の随身様。

「境内社:八幡宮」

祠ではなく八幡神の石像が鎮座されています。

「境内社:厳島社」

境内の境界近くに建立されていた「廿三夜塔」「青面金剛像」

杉木立の境内

参拝日:2010年10月17日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大宮熱田神社 in 長野県松本市梓川

2022年08月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市梓川梓に鎮座される「大宮熱田神社」。御祭神は『梓水大神・熱田大神・天照大神・八幡大神』。鳥居額には「大宮大明神」

「梓水大神は約1100年前の歴史書である三代実録に、清和天皇の貞観9年に神徳の高きにより、従五位下が贈られたと記載されている霊験あらたかな神で広く崇敬されてきました。後世に到り、祭事や参詣者の便のために清浄な地を選び神殿を造営して鎮座し、更に熱田大神、天照大神、八幡大神が合祀されたのが現在の神社であります。今日神鎮りますご本殿は室町時代(約450年前)の建築であり国宝に指定され現在は国の重要文化財として保護されています。本神山麓一帯は「神道原」「宮ノ上」「大門」「宮ノ前」「朱引門」などと神社につながる地名が現存して居り、昔の神域の広大さを偲ぶことができます。旧幕時代には二町四方の広き境内を有し、古来地方のまれに見る大社として「大宮」「大宮大明神」と尊称されてきました。」境内由緒より

御本殿は旧国宝、現在は国重要文化財。室町時代建立の一間社流造で、各所に珍しい手法を用いた地方色豊かな優美な建築物との事。残念ですが私たちからではこの位置が精一杯。

参道の正面に立派な注連縄が掛けられた拝殿。棟木には鰹木が並び、正面の下屋には千木が建てられています。拝殿上部の額は大正四年の奉納、金文字で「萬歳」と書かれています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大正11年4月建立の狛犬さん一対。珍しく阿吽ともに装飾された毬を手にしています。

阿形さんの平らな頭が妙に可愛らしく、耳まで裂けた口元も逆に愛嬌に見えるから不思議 😊

さらに拝殿内より神域を守護される神殿狛犬ですが、これが又ユニークと言うか独創的と言うか・・・もしかして、例祭で奉納される獅子舞のモデルかしら??

神楽殿の舞台上に積まれた大量の藁。新しい注連縄の材料にする為に保存されているのでしょうか?

広い絵馬殿には、表に百人一首の絵馬がずらりと並び、内には極彩色の絵馬が奉納されています。御祭神に因んでか日本神話を題材としたものが多く、興味深い内容でした。

「長野県天然記念物:梓川のモミ この巨木は、樹姿端正、樹勢旺盛な点はこれをしのぐものは見られない。目通り周囲6.3m・高さ43m・御神木であり樹齢700年と伝える。」境内案内より

「ねづこ」の古木は神社で最も古く、目通り4,5m・高さ40m 樹齢推定1000年以上と云われています。画像右は「松杉相生の木」。松と杉、異種である二つの木が根元で一つになっている姿は、縁結びの象徴とされています。

「蠶玉神社」「御嶽蔵王大権現」「有明山神社」

手水舎

手水鉢は「堀金村 田多井の銘石」

参拝日:2010年10月17日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 長野県旧梓川村(松本市)

2022年08月17日 10時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・長野県

旧南安曇郡梓川村(あずさがわむら)は長野県のほぼ中央西寄り、安曇野の南西部分に位置した村です。松本市、波田町、安曇村、豊科町、三郷村に隣接。西は黒沢山、天狗岩、大明神山を結ぶ尾根で安曇村と境界を接し、北は黒沢山、金比良山を結ぶ尾根、北黒沢の山地および室町、野沢、七日市場の集落地境で三郷村と接し、東端の一部は、豊科町と接しています。「村の木:アズサ」「村の花:コマチソウ」「村の鳥:セキレイ」を制定。

旧村役場の敷地には、1993年に「年中ミカンのとれる御浜」と「梓川村のリンゴ」を通して交流が始まった「友好親善町村」碑が設置されています。

旧キャッチフレーズは「自然あふれるふるさとの村梓川」

明治22年(1889)、町村制の施行により、南安曇郡梓村・倭(やまと)村が発足。

1955年、梓村と倭村が合併、南安曇郡梓川村が発足。

2005年、松本市に編入、松本市梓川となりました。

マンホールには「金松寺山」を背景に、特産の「リンゴの花」と梓川を泳ぐ「カジカ」が描かれています。(県道48号線「倭北交差点」付近の歩道に設置)


 

アクアピア安曇野:展示マンホール

昭和32年(1957)11月1日制定の村章は「梓弓と梓川をかたちとったものです。」旧公式HPより

松本市梓川梓南北条の碑

一面のリンゴ畑

梓川村と波多町を結ぶ県道315号線:下島橋の親柱。梓川村は「りんごのふるさと梓川村」のわい化りんごです😊

撮影日:2010年10月17日&2016年4月22日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふらり寄り道 in 長野県松本市

2022年08月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本駅前から鋭峰を見つめる「幡隆(ばんりゅう)上人像」。前人未踏の3,180メートルの高峰:槍ヶ岳の初登頂を果たし祠を建立。後に続く者の為に鉄鎖の懸垂に心血を注いだ偉大なるアルピニストである事を知る人は少ない。

------------------------00----------------------

松本市女鳥羽にある「安原山・大安楽寺」。行基菩薩により延長2年(924)創建と伝えられる古刹。

鎌倉時代の作と伝えられる「金剛力士像(仁王)」は、御本尊と寺を守る護法神とされます。ちなみに金剛力士の阿形と吽形ですが、阿は出発点を、吽は終着点を現すとされています。阿吽の呼吸と言うのは、この形からきたというのは有名な話。

同じく鎌倉時時代作の「馬頭観音」。「六観音」の一尊とされ、転輪聖王の宝馬に乗り、衆生の無明の悩みを馬の如く食らい尽くすとされています。

------------------------00----------------------

松本市蟻ケ崎にある「松本深志高等学校」。遠目からの撮影なので画像としては今ひとつです😅 

昭和8年(1933)竣工の第一棟。鉄筋コンクリート造3階建。「スクラッチタイル張で正面中央玄関ポーチの緩やかな尖頭アーチ。2階3階通しの先を尖らせた柱型などゴシック風意匠に特徴。東京帝大安田講堂(東京大学大講堂)が手本と伝える。県営繕の設計。」文化遺産オンラインより

昭和9年(1934)竣工の講堂。「鉄筋コンクリート造平屋建。壁体は鉄筋コンクリート造とし,山形の鉄骨トラスで桟瓦葺の切妻屋根を支持する。南妻面には先を尖らせた柱型を表し,5連の尖頭アーチによるアーケード風正面玄関を設けスクラッチタイルを張るなど管理普通教室棟に呼応した意匠とする。」文化遺産オンラインより

------------------------00----------------------

牛臥寺近くに「唐沢俊樹先生頌徳碑 」・・・東筑摩郡山形村に生まれ、大正4年(1915)東京帝大を首席で卒業し銀時計を賜る。郷里山形村は、唐沢の卒業を祝して提灯行列を催し、恩賜の銀時計は小学校に飾られた。昭和期の日本の内務官僚、政治家として幾多の功績を遺した人物です。

------------------------00----------------------

松本市内田の「六道辻の道標」 (右)このかたしほじり(表)このかたまつもと(裏)このかたうしふし寺」。牛臥寺参拝の為の道標

訪問日:2016年4月21日~24日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本市内の道祖神:石仏 in 長野県松本市

2022年08月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市蟻ケ崎の「塩竈神社」境内入り口に、「握手双体道祖神」「歌碑」各一基。

「文政六年癸未五月十□」の刻。更に「天保十二 辛丑年(1823)正月吉日 蟻崎邑 白板村」の刻。この二つの刻は、 道祖神盗みで白板村から運んだものと言う意味。松本市の道祖神に見る歴史的風致の一文に「江戸時代には、ムラが繁栄するとそのムラの道祖神が盗まれるということがあり、これを「道祖神の嫁入り」といいます。横行する道祖神盗みを拒むため、この道祖神を盗むと十両の結納金をいただくという意味の「帯代十両」と刻まれている道祖神もあります。このことは、道祖神がムラの繁栄と大きく関わる神であると認識されていたことを示しています。」の記載が有ります。

道祖神の右横の歌碑、作者は大正~昭和時代前期の歌人『川崎杜外(とがい)』書は『窪田空穂』【  野の草の いろつき枯るゝさまみれは   土に朽つる物は みな静なり 】

大名町大手門井戸の一区画にある「握手抱擁双体道祖神」「女鳥羽 名匠宮下近太郎刻 昭和 五十八年(1983)癸亥年 贈:七月吉日  松本拓本研究会」の刻。寄り添う二人の間には何物も踏み込むことのできない世界が広がっています。

深志神社境内に「酒器:祝言双体道祖神」。南参道鳥居近くに「文字碑道祖神」。詳細不明。

松本市島内に鎮座される小宮神社境内には御嶽山大権現碑や文字道祖神碑、庚申塔などが一か所に仲良く祀られています。一見して道祖神と読める物もあれば、すでに風化し始めて何が書かれているのか判読できない文字碑等々、種類も様々。

その中で向かって左端、絵香炉を持った幼い少年の像。この姿に心当たりがあるとすれば「聖徳太子・孝養像」のようですが、もしもそうであるなら。何故ここに聖徳太子が??疑問のまま次へ 😅 

松本市島内小宮中手、「文字碑道祖神」二基。左、「小宮村中手中 文久二壬戌(1862)二月吉日」の刻。右、「小宮邑 上手中 安政四丁巳(1857)正月 」の刻。 

更に境内に「仏塔」「文字碑」各一基。

「有明開山有明教祖 木喰天明霊神」碑。明治6年(1873)、有明山の麓に住んでいた木喰天明行者は黒井沢からの修験道を開設しますが、この時、強大な力を持った化け物を退治するようにと、天からお告げを受けます。この化け物、何とあの『八面大王』の化身!・・・まぁ・・なにはともあれ、化け物は退治され有明山の修験道は無事開設されました。

松本市島立に鎮座される「沙田(いさごだ)神社」境内の「文字碑道祖神」

松本市里山辺に鎮座される「須々岐水神社」一の鳥居横に「文字碑道祖神」「仏塔」各一基。

松本市出川町に鎮座される「多賀神社」社務所の前に「文字碑・道祖神」二基。左には「木澤七郎書 文政二年己卯(1819)十二月 吉日 出川」の刻。右には「文政二年己卯(1819)十一月吉日 出川町 村上之丁」の刻。

薄川に架かる歩行者&自転車専用の「見晴橋」。その親柱に1991年12月生まれの「握手肩抱き双体道祖神」二基。

一見同じもの?と早とちりしてしまいそうですが、実は男女神のお顔が全く別なのです。念のために確認して良かった😊 

松本市大手、信濃毎日新聞松本専売所前に仲良く新聞を読む「双体道祖神一基」。石工は松本型狛犬ですっかりお馴染みの「田近石材さん」

男女神とも、ちょっと難しいお顔なのは、書かれている記事の内容の所為でしょうか?世界は決して美しいお花畑ではないのです。

松本市内田、馬場家住宅近くの交差点角に「文字碑道祖神」一基

常楽寺近く「恵比寿・大黒天像」「繭玉大王碑」、他五基。

「恵比寿・大黒天像」

松本市寿小池に「跪坐酒器祝言双体道祖神」一基

「小池講中 昭和五拾参年(1978)四月吉日 世話人田中親人 」の刻。想像以上に新しい時代の道祖神であったことに驚きました。男神の顔はふっくらとしたいわゆる福相。女神は緊張しながらもしっかりと男神の顔を見上げています。

近くにあった道標 「南 ←片丘村北内田邑御ヲ経テ〇湯ニ至ル →牛臥寺道」「西 ←松本市に至る →塩尻に至る」

撮影日:2010年10月17日&2016年4月22日~24日

------------------------00----------------------

『道祖神(さえのかみ)=道俣神(ちまたのかみ)=岐の神』、伊邪那美命の死後の姿に恐れ、黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命が禊祓をした折、脱いだ袴から生まれた。道の分岐点を守り邪霊の侵入を阻止する神。旅人の安全を守護する神。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常楽寺(じょうらくじ) in 長野県松本市内田

2022年08月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市内田に有る真言宗寺院「清水山:常楽寺(じょうらくじ)」『平和聖観世音菩薩』を本尊とします。

 

寺伝に「信州筑摩三十三カ所観音霊場第十三番札所。「金峯山:牛臥寺」の末寺として延宝三年(1675)に創建と伝えられる。」

境内には沢山の巨木

松本城主:小笠原秀政手植えの伝承がある、樹齢300年の高野槇(目通り直径1.3m  高さ25m)。画像右は、樹齢350年以上と云われる「仁科しだれ桜」

ご住職様が記念にと写して下さった一枚

「かやの木」

「成田山不動堂」

「南無〇〇〇〇」「如意輪観音像」「三界万霊塔」

【槇の大樹に月傾きて 踊り賑わう常楽寺】 右【内田良いとこ一度はおいで 〇参りや湯遊びに】 〇の部分不明

山門横に建立されていた碑 五輪塔の線刻にも見えますが実際の所は不明です。

参拝日:2016年4月24日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛臥寺(ごふくじ)~Ⅱ~ in 長野県松本市内田

2022年08月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

牛臥寺~Ⅰ~で境内のあらかたの紹介は終わりました。~Ⅱ~では観音堂の彫刻や、奉納されていた絵馬などを中心に紹介します。

向拝彫刻は、花を散らし楽を奏する「飛天」

「波に鶴」安政六年巳未五月吉日 松本藩:林久親 奉納。奉納額のタイトルは勝手につけました(笑)

「神功皇后と武内宿祢」

「信玄と謙信・川中島の戦い」

「黒馬繋馬図

「百万遍念仏」

「舟」の文字は読み取れますが、題材が全く分かりません😓

「おびんずる様」

観音堂から見る楼門

楼門石段下のお牛様

「如意輪堂」

【 安曇野と 筑摩野分けて 夜の明を しろく遥けく 梓川みゆ 】窪田章一朗

【 山静かにして太古に似たり 日長くして少年の如し 】安倍能成先生

参拝日:2016年4月24日

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牛臥寺(ごふくじ)~Ⅰ~ in 長野県松本市内田

2022年08月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

松本市内田、鉢伏山(1,929メートル)の西側中腹に位置する真言宗智山派寺院。「金峯山:牛臥寺(ごふくじ)」『十一面観世音菩薩』を本尊とします。

「信濃三十三観音霊場二十七番札所」「信州筑摩三十三カ所観音霊場九番札所」

「寺伝によると、天平勝宝七年(756)唐の玄宗皇帝が善光寺へ大般若経六百巻を納経の途中、経巻を積んだ赤・黒二頭の牛が、この地で同時に斃れ、その使者たちが本尊十一面観世音菩薩の霊力を知り、その経巻を当山に納め、二頭の霊を祀って帰京しました。この不思議な因縁により寺号を牛伏寺と改め、参道途中の牛堂に阿弥陀仏を中心に、赤黒二頭の牛像をまつっています。」公式HPより

大正12年(1923)再建の「山門」。左右に長屋が付く、規模の大きな四脚門で、表側は柱を後退させ頭貫を出梁のように見せるという新しい形式。

山門をくぐって左手に「本坊(旧庫裡)」。江戸中期 寛政9年(1797)の建築で、間口8間、奥行16間半。本棟造では最大の規模で、正面に雄大な妻梁。

本坊の隣に「如意輪堂」。江戸中期 寛政10年(1798)の建築で、間口54尺、奥行54尺、寄棟造、茅葺。 方丈形式の内陣両脇には10畳の客座敷があり、客殿の趣を思わせます。

 

石段上から見る「如意輪堂」

二頭の奉納牛に守護される石段の先には楼門形式の朱塗りの「仁王門」。江戸中期 享保11年(1726)の建築で、三間一戸、入母屋造、銅板葺。

門内より仏域を守護される阿吽の仁王像。

仁王門潜って左手に、入母屋造銅板葺で江戸中期 正徳3年(1713)の建築とされる「観音堂」。間口五間、奥行四間のいわゆる五間堂で、現存する長野県内の五間堂としては3番目に古いもの。

仁王門右手には江戸・幕末の築とされる「鐘楼」。方10尺の入母屋造りで、柱を四方転びとします。天井に松本出身の赤羽雪邦が大正時代に描いた龍の絵がありますが、下からでは見る事はできません。

境内後方、石段の先に江戸後期 嘉永7年(1854)再建の「聖徳太子殿」。正面に軒唐破風の向拝を付けた柱間方9尺の宝形造。左手に「弁天堂」

弘法大師修行像

参道入り口、黒門の手前に建つ間口10尺、奥行2間半の「牛堂」。江戸後期の建築で 昭和49年(1974)に改築。 内部に阿弥陀如来、その両脇に赤黒2頭の牛の像を安置。

地蔵菩薩立像

参道

境内の建物は「山門」を除くすべての建造物が、松本市指定重要文化財となっています。細かく紹介すれば際限なくなるのが私の悪い癖なのですが・・でももう少し、お付き合い頂けると嬉しいです😊 

参拝日:2016年4月24日

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする