車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

法性(ほっしょう)神社 in 長野県辰野町平出

2022年09月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町平出に鎮座される「法性(ほっしょう)神社」。御祭神は『健御名方命 御産子命(みしゃごのみこと) 天照大御神 誉田別命』。

「法性神社の由来碑」

「延暦二十一年(802)坂上田村麿が東征の際武運長久を祈って伊那に五社を造営したが、その一つであるという伝承がある。元暦二年(1185)に信濃権守大祝盛高が再建。後、弘治二年(1556)に武田晴信(信玄)が再建。寛政八年(1796)吉田家へ願い、諏訪法性大明神の社号をうけた。明治四十一年、平出北原にあった八幡社と、境内にあった御社宮司社と伊雑皇社を合祠し「法性社」を「法性神社」と改めた。」

石段参道の先に拝殿

石段参道下より神域を守護されるのは、信州ではあまりお目にかからない出雲丹後系の狛犬さん一対。吽形さんの口には朱が塗られ、阿形さんは仔狛を足の間で遊ばせています。

と・・機嫌よく写真を写していたら、真榊を手にした神主さんと揃いの法被を着た方達が・・・何かお祭りでもあるのでしょうか?

祭事が終わったらしく、社務所に引き上げてゆきます。

そう言えば拝殿には沢山の御神灯が下げられていたけれど・・

もしかして御柱の祭祀があったのかもしれない。だってほら、まだ真新しい紙垂が巻かれた柱が境内に立てられているもの。という事は・・これから祭りがあるのではなく、祭りがあった・・つまり「祭りの後😔…」

この綱・・・多分御柱を運ぶために使われた「曳き綱」だと思う。でも仕方ないよね。祭りの予定を調べて日程を組んでいないし、そもそも祭りが有る事さえ知らなかったんだし。

と・・ヒソヒソ声で話していると、神主さんを先頭に先ほどの方達が拝殿に向かう様子。せめてお邪魔にならないように神事だけでも拝見させて頂ければ・・

拝殿内では神主さんの祝詞のあと、先ほど見かけた法被を着た方々が順に拝礼されている様子。静かに・・静かに、柏手の音も立てず・・出来るだけお邪魔にならないように参拝を済ませ、再び境内に戻ります。

奥の方に見える石祠群は、多分境内社かもしれない。でも拝殿内で神事が行われていると思うと、本殿に近寄るのも何となく躊躇われる・・かといって、ずっと終わるのを待てるほど時間に余裕もないし・・

拝殿近くの神庫に「波頭を翔る龍」の鏝絵。

境内には「平和祈念之碑」「旅順陥落記念碑」が建立されているとのことですが、この碑がどれに該当するのか、もしくは関係ないのかも不明。

法性神社入り口に建立されていた「有賀幸作君記念碑」。上に瀬戸団治による「戦艦大和最後の日」のレリーフ。中央に「海軍中将有賀幸作」像。左下に「川紀元」の書による「有賀喜左衛門」の撰文。

碑文「国に捧げた君たちの尊いいのちよとこしえに 世界平和のいしづえたれと祈る」

「昭和20年4月 日本海軍は戦艦大和を旗艦として残存僅か十隻を以って海上特別攻撃隊を編成し沖縄に突入しようとしたが進撃の途上敵機の猛烈な攻撃に逢い種子島西方海上において遂に敗滅した。その時巨艦大和に艦長として坐乗していたのは平出出身の有賀幸作君であった。君は艦の沈没に先立ち総員退去を命じ艦橋のコンパスに身を縛り艦と運命をともにした。私達は君と共に祖国のために壮烈な戦死を遂げた多くの将兵の心情を偲び日本海軍の最後の日を目に浮かべる。」 昭和42年5月 有賀幸作君記念碑建設委員会

参拝日:2016年4月25日

 

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ご当地マンホール in 長野県辰野町

2022年09月19日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・長野県

上伊那郡辰野町(たつのまち)は長野県の中央、伊那谷の北端に位置する町です。岡谷市、諏訪市、塩尻市、箕輪町、南箕輪村に隣接。本州中心部の長野県の県央に位置する事から、「日本国の中心」を称する自治体の一つで、古くから県央部を結ぶ交通の要衝として発展してきました。東日本随一といわれるホタルの名所松尾峡が有名で、観光の目玉となっている他、横川川などから産出される「黒雲母粘土板の龍渓(りゅうけい)石で作られた「龍渓硯」は県の伝統的工芸品に指定されています。この龍渓石の石齢は2億年以上ともいわれています。「町の木:シダレ栗」「町の花:福寿草」「町の特別シンボル:ゲンジボタル」を制定。

キャッチフレーズは「辰野町は日本の真ん中 ひともまちも自然も輝く 光と緑とほたるの町 」

明治22年(1889)、町村制の施行により、上伊那郡伊那富村、朝日村、川島村、小野村が発足。

1947年、伊那富村が町制を施行、改称して上伊那郡辰野町となる。

1955年、上伊那郡朝日村と新設合併、新たな上伊那郡辰野町が発足。

1956年、上伊那郡川島村を編入合併。

1961年、上伊那郡小野村を編入合併、現在に至ります。

マンホールには「町の木:シダレクリ」、「町の花:福寿草」、特別シンボル「ゲンジボタル」がデザインされています。(辰野駅近くの大通りに設置)

「アズマイチゲ」の群生地に咲いていた「フクジュソウ」

制定の町章は「漢字の「辰」にひらがなの「の」をもって辰野を表し「の」を描く輪は平和伸展と大同団結を象徴としています。」公式HPより

イメージキャラクター『ぴっかりちゃん』は町の特別シンボル「げんじ蛍」がモチーフ。明るく健やかに伸びる辰野町の象徴としてデザインされました。

橋の欄干、街灯のモチーフにも「げんじ蛍」が使われています。


撮影日:2010年10月3日&2014年6月22日&2016年4月26日

 

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塩尻市内あちこちウォッチ~Ⅱ~ in 長野県塩尻市

2022年09月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

長野県塩尻市洗馬にある、カフェとお蕎麦・地場産ワインの「きららランド」。お蕎麦がとっても美味しい。お漬物も美味しい(笑)。車泊の食事のお供に、特別にお漬物を分けて頂きました😀。

建物の裏はサラダ広場。ワインの塩尻らしい巨大な葡萄のモニュメント。

この狐は・・もしかして桔梗ヶ原に棲む「狐の玄蕃之丞」さん?!

塩尻市大門、塩尻庁舎の庭園に静態保存されている「D51 155号機」。昭和14年2月に日本車両株式会社で製造され、昭和48年2月までの34年間、塩尻の街を走り続けました。

男の人って何故か機関車を見るとワクワクするらしく、我がご亭主殿も例外ではありません😊

市役所庭園内の「東筑摩農学校跡の碑 明治43年創立昭和24年塩尻高等女学校を統合し桔梗原高等学校と改称。昭和37年高出に移転。昭和40年塩尻高等学校と改名す」

「短歌のまち 塩尻」の碑。塩尻市は、太田水穂や若山喜志子など近代歌壇に名を残す歌人たちを輩出した町なのです。

塩尻市宗賀、中山道の「平出一里塚」。現地案内に「江戸時代、塩尻市内には三つの街道にそって、八ヶ所に一里塚が築かれていたが、両塚を残すのはこの平出のみとなってしまった。この一里塚は日本橋の基点より五十九番目のもので、また、宝暦六(1756)年頃には、この付近に茶屋二軒のあったことが分かっている。」

塚の上の松は「平出の乳松:勘助子育ての松」と呼ばれ、それにまつわる伝承も残されています。興味のある方はググって見てください😊

塩尻市宗賀平出に、縄文時代から平安時代にかけての集落遺跡「平出遺跡」があり、現在までに290軒をこえる竪穴住居址、建物跡、それに伴う多くの土器、石器、鉄器類が発掘されています。

遺跡内には縄文時代や古墳時代の住居七軒が復元されており、中には宗賀小学校の六年生が卒業記念に残した復元住居もあります。

塩尻市片丘にある「南内田公民館」。戦後建築された公民館建築で、現存するものとしては県内最古と言われ、国の登録有形文化財に指定されています。

木造、入母屋の一部二階建、南北に張り出す平谷部分も入母屋造り。各々東西に玄関を構え、風格ある外観となっており、文化財に指定された今も地域住民の生活拠点として活用されています。

玄関上の屋根には「公」の文字が刻まれた鬼瓦。ちなみに鬼が居なくても鬼瓦と呼びます😀

訪問日:2016年4月23日~24日

 

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塩尻市内あちこちウォッチ~Ⅰ~ in 長野県塩尻市

2022年09月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市片丘「島崎家住宅」。島崎家は北熊井村の名主を勤めた家柄で、建物が建てられたのは江戸中期(1716~1735)といわれています。

建築様式は、切妻造、妻入。屋根の勾配がゆるやかで、表の中2階がない古式の本棟造。屋根は板葺でしたが、今は鉄板葺になっています。客座敷は右手前に突き出るように造られていますが、これは本棟造で座敷を拡大するためによく用いられた方式であり、民家としては高い水準のものとして昭和48年(1973)6月2日に重要文化財に指定されました。

「日あたりの庭で 島崎光正」

【夏のあいだ咲き続けた草花の種子をてのひらにすると その小さなひと粒ひと粒に 羽のように綿がついていた 遠く旅立つ日のために  こんな工夫がしてあるのだから だまっておいて】

塩尻市片丘字松葉、常光寺の境内に隣接する、国指定重要文化財「小松家住宅」

「建築様式は寄棟平入りで、屋根は茅葺き。柱は栗などの雑木で、手斧で仕上げられている。土台はなく、礎石の上に直接すえられている。当初は片側に厩を含む広い土間をもち、部屋は表裏2室のみの間取りで、裏側の部屋は土座で、極めて単純なものであった。」公式HPより

建築年代は17世紀後半から18世紀初頭とされており、東日本に現存する民家の中でも際立って古いものになります。茅葺寄棟造の主屋が残る近世民家の祖型の一つにあたり、間取りや構造など類例を見ないことから、大変貴重な民家建築として昭和48年(1973)6月2日に国の重要文化財に指定されました。

塩尻市堀ノ内にある「堀内家」は旧堀の内村の名主を代々勤めた豪農で、建物が建てられたのは江戸中期(1701~1800)と云われています。建物は本棟造りの中で大型上質の家であり、この系統民家の一頂点を示しており、昭和48年(1973)6月2日に国の重要文化財に指定されました。生憎の改修中・・

中仙道 塩尻宿の碑 

塩尻市塩尻町にある「小野家住宅」。小野家は中山道塩尻宿の旅籠「屋号:いちょう屋」を代々営み、宿場の中心付近に屋敷を構えた宿場内の有力者であったと云います。

建築は江戸末期(1850)、二階建、切妻造段違、南面庇付、桟瓦葺。北面突出部は切妻造、北面庇付、鉄板葺。昭和48年(1973)6月2日に国の重要文化財に指定されました。

「高札場跡」

「塩尻宿:下問屋跡 高札場跡」碑・「塩尻宿:飛脚問屋跡」

「明治天皇御駐輦所碑」

訪問日:2016年4月24日

 

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塩尻市内の道祖神:石仏 in 長野県塩尻市

2022年09月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市洗馬上組下平、琵琶橋の袂に「不動明王碑」「握手抱擁双体道祖神」「庚申」「名号碑」など、寛政期や天保期の石仏十一基。

「安政五戊午(1858)三月日 下平村中」の刻。

重ね合う手も慎ましやかに、未来を見つめて歩みだす二人。その顔に浮かぶものは互いを思いあう真心・・・。2010年の偶然の出会いから六年を経ての再会は、思った以上に感動的でした。

塩尻市元町中町、元町公民館近くに「握手肩抱き双体道祖神」一基。「石祠」一基。

「嘉永四年辛亥(1851)二月吉日 」の刻。

女神は角隠しのような冠を付け、真一文字に唇を結び男神の手を握っています。男神は女神の信頼に応えるべく、しっかりとその肩を抱き寄せています。

塩尻市元町十王堂の「握手双体道祖神」

摩耗が進んでいますが、多分この二人はまだ年若い男女神ではないかと思われます。恥じらいながらつないだ手が可愛らしく、俯く女神の顔はきっと赤く染まっている事でしょう。

【幾年を 経てなお固き相愛の 姿に越し方 かさね見ん】tibineko

撮影日:2016年4月23日

 

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雨寶山:常光寺(じょうこうじ) in 長野県塩尻市片丘 

2022年09月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市片丘北熊井にある真言宗智山派寺院「雨寶山:常光寺(じょうこうじ)」『木造如意輪観音坐像』を本尊とします。

「創建時期は平安時代であり、寛永二年(1625)に牛伏寺の僧憲養により中興された。江戸時代には諏訪藩東五千石領に属し、北アルプスを一望する山門は高島城の御殿門が移設されたものである。本堂には、本尊の如意輪観音(鎌倉時代中期、塩尻市指定文化財)があり、寄木造りで漆箔が施されている。薬師堂には薬師如来、庚申堂には青面金剛が安置されている。」Wikipediaより

山門は、明治維新での城破却の際に当寺に移建された「諏訪高島城御殿藥井門」

「信州筑摩三十三カ所観音霊場:第十五番札所」

本堂前の「弘法大師修行像」、参道の「弘法大師修行像」【ありがたや 雨宝の山に大師は常におわします】

初めて拝見した「稚児大師像」

「庚申堂」

庚申堂扁額の三猿

境内の三猿像

小さな赤い括り三猿

鐘楼

境内でくつろがれるお坊様?

蛇に鶴・・何かの謎かけみたいです(^^;)

水芭蕉のお池と地蔵菩薩

安曇野市の「吉祥山:東光寺」でもお見掛けした「子育て道祖神」ですが、こちらの境内ではさらにお子神が成長されています。

まだ年若い夫婦神の真ん中に立つ幼いお子神。三方はいずれも正装のようで、拝見した瞬間「七五三道祖神」と・・頭の中で変換されました(笑)

境内には詩碑などが建立されており、興味深く拝見させて頂きましたが、今となっては正確に読み取れない文字も多く、紹介も中途半端になりました。

【いろは教えた大師様・・・・南無大師】 

【〇〇懺悔  若しもこの世に父母がいますなら 泣いて謝りたき事ばかり ・・・・ 涙かくして南無観世音 涙かくして南無観世音 許してのちに涼風あり 教えてくれた父さん母さん】読み取れない文字がありますが、どなたかの詩碑のようです。

太田水穂(貞一)の歌碑。広丘村生まれ長野師範に進学、島崎藤村に傾倒。卒業後、革新和歌団体「この花会」を和田の地に結成し、松本平を支配する保守的桂園歌人に対抗して信州文壇に大きな刺激を投じた人物です。

御詠歌【  むらさきの 雲のこなたに常光寺  導きたまへ 花のうてなに  】

参拝日:2016年4月24日

 

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塩尻短歌館・短歌公園 in 長野県塩尻市広丘

2022年09月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

塩尻市広丘原新田、近代短歌の潮流の源ともなった広丘の地に、明治元年(1868)に建築されたこの地方独特の本棟造り民家「塩尻短歌館」があります。公式HPには、建物は柳沢家のご厚意により塩尻市に寄贈されたもので、2009年に国登録有形文化財に登録された旨が記載されています。

その塩尻短歌館の後方、赤松林の中に、塩尻ゆかりの歌人達の碑が建立された「歌碑公園」があり、思わず一首詠みたくなるような(笑)独特の雰囲気を醸し出しています。

【  命ひとつ 露にまみれて野をそゆく  はてなきものを 追ふことくにも  】

太田水穂(貞一)広丘村(現塩尻市広丘原新田)に生まれる。

【  あき空の 日に照るみとり にほひ出で 見まはす四方に 阿ふれなむとす 】

窪田空穂(通治)和田村(現松本市和田)。一時、片丘村の村上家の養子となる。

【  いさゝ加の 水にうつろふ夕映に 菜洗ふ手もと明るみにけ里   柿の村人

島木赤彦(久保田俊彦)上諏訪町(現諏訪市)。明治42年に広丘尋常高等小学校長として赴任。在職中に広丘歌会を開き、中原静子らを育成する。

【  鉢伏の 山を大きく野にすゑて 秋年々の つゆくさの花  】 

四賀光子(みつ)長野市。後に水穂と結婚する。

【  春鳥の いかるがの聲うらかなし 芽ぶきけぶらふ 木立の中に  】

若山喜志子(喜志)広丘村(現塩尻市広丘吉田)。

【  いく重やま みやまの奥の山ざくら 松にまじりて 咲きいでにけり  】

潮みどり(きり)広丘村。姉喜志子の影響を受け、歌を詠むようになる。

【  うす紅に 葉はいち早く萌えいでゝ 咲かむとすなり 山ざくら  】

若山牧水(繁)宮崎県。太田喜志と出会い結ばれる。

歌人の散歩道に建立されていた若山喜志子の歌碑

【  水車小屋 へだてて見ゆる苗代の 小田に群れなく 夕蛙かな  】

「広丘国民学校碑」「広丘小学校の前身である広丘国民学校。校歌は、長野県出身の著名な歌人・国文学者である太田水穂によって作詞されたもの。校歌を記録するために、2010年に卒業生によって建立されたのがこの碑。デザインは穂高連峰、鉢伏連峰を表現したものである。」現地案内より

【  隣より また隣よりつぎつぎに 牛啼き出でて 村は明けゆく  】

太田青丘(兵三郎)広丘村(現塩尻市広丘原新田)。太田水穂の兄、嘉曾次の三男として生まれ、水穂の養嗣子となる。

公園内に建立されていた「牛馬観世音」「馬頭観音佛」他険しい峠が連なる塩尻や木曽のような山国における物資の輸送において、牛馬の存在は格別に大きなものでした。馬頭観音の碑や石仏が街道筋に多く見られるのは、そうした牛馬への感謝と無事を祈る気持ちの表れだったのかもしれません。

  「牛馬観世音史跡地」碑  「軍馬之碑」

【 刻まれし 文字をたどるわが指に 重なる指の面映ゆし】tibineko

訪問日:2016年4月24日

 

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本洗馬歴史の里資料館・釜井庵 in 長野県塩尻市洗馬

2022年09月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

本洗馬歴史の里で存在感を示す「釜井庵(かまいあん)」「戦国時代、妙義山城主としてこの地方を支配していた三村氏が、山麓に設けた居館跡に建つ庵で、建築年代は十八世紀の中頃と推定されています。江戸時代の文人・紀行家の菅江真澄が天明三年(1783)この地を訪れ、一年余を釜井庵を拠点として過ごしたことでも知られています。また、寺子屋として、丹波花逕・大脇正蔵・小林源吾等の手習い師匠がこの庵で村童を教え、この地方を指導した多くの人材を育てました。」公式ホームページより

寺子屋時代のこの場所には、きっと沢山の子供たちの賑やかな声で溢れていたのでしょう。目を閉じれば墨のにおい、そろばんの珠をはじく音・・・

市の史跡に指定された「釜井庵」の庭には「洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更にすすり泣く」という「夜泣石」があります。

天文二十四年(1555)、塩尻峠の戦いによって功を上げた『三村駿河守長親』は、『武田信玄』に戦功を与えると云われ甲府の一蓮寺に出向きます。しかし信玄は、主を裏切る者はまた裏切るという理由を付けて兵をさし向け、寺を焼き、三村氏の一族郎党を皆殺しに・・・戦国の世の習いとは言え・・無念であったと思います。

夜泣き石の近くに「九月一三夜の碑」 天明三年(1783) 菅江真澄は本洗馬の文人と名月を眺めて歌を詠み合いました。【 待ちわびし 木々の紅葉の梢より もりてさやけき 長月のかげ 直堅】【 雲晴れて 後の月こそさし出れ しなとの風の 神のめぐみに 永通】【 しらぎくの しらぬくまさへあらはるゝ  世に長月の けふのこよひは 秀雄(真澄)】

「熊谷祐碩の狂歌」【 いざゝ良ば筆をの故して 古の石にものいは寿るも月下の事 末廣】熊谷祐碩は末廣、または夕夕と号し狂歌を詠みました。本洗馬で代々医者を営み、先代は菅江真澄を世話した可児永通であり、5代後が長野県初の文化勲章受章者である熊谷岱蔵博士です。

「丹羽花径先生の碑」江戸で山形藩に士官していた丹羽花径は長興寺洞月上人の元に身を寄せたのち、釜井庵寺子屋師匠を40年近く勤め、文政三年、この地で没しました。碑文は同じ文政期に2度に渡り洗馬郷小曽部に逗留した江戸の漢学者・兵学者、加藤環斎によるものです

「釜井庵」の庭には、県特別指定希少野生植物の「クマガイソウ」が慎ましやかな蕾を付けて私たちを出迎えてくれました。

ラン科アツモリソウ属に分類される「クマガイソウ」。こんなにひっそりと優しい姿ですが、花言葉は「みかけだおし」「気まぐれな美人」「闘志」

下の画像は資料館の表にあった写真をお借りしましたが、どうやら花が開いたときの状態が、大きな葉を開かせて周囲の植物を威嚇しているように見える・・という事らしいです(^^;) 

本洗馬歴史の里資料館には、菅江真澄や、医学者で当時蔓延していた結核の治療・予防に貢献した文化勲章受章者熊谷岱蔵博士、釜井庵・洗馬の歴史文化の資料、また「洗馬焼」をはじめとした塩尻の焼き物等が展示されています。

訪問日:2016年4月23日

 

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ご当地マンホール in 長野県塩尻市

2022年09月12日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・長野県

塩尻市(しおじりし)は長野県のほぼ中央、松本盆地の南端に位置する市です。松本市、岡谷市、伊那市、辰野町、南箕輪村、木曽町、木祖村、朝日村に隣接。市内には信濃川水系の奈良井川と田川、天竜川水系の小野川が流下し、塩尻峠と善知鳥峠、鳥居峠は、太平洋と日本海への分水嶺となっています。太平洋側と日本海側の交通が交差する交通の要衝で主要幹線道路の分岐点ともなっています。塩尻の地名には幾つかの説があり、市の公式見解は「「シオ」とも呼ぶ赤いローム層に覆われた台地の終末点なので、塩尻と名づけられた。」。また一説には信州には海がないため塩を生産することができず、日本海側と太平洋側からそれぞれ塩が運ばれてくると、この辺りで両者が合流することから塩の道の終点=塩尻となった・・等々、他にも幾つかの面白説があるようです。「市の木:イチイ」「市の花:キキョウ」を制定。

キャッチフレーズは「いきいき満彩 信州しおじり ともに築く 自立と創造の田園都市」

明治22年(1889)、町村制の施行により、東筑摩郡塩尻村・片丘村・広丘村・宗賀(そうが)村・筑摩地(ちくまじ)村・洗馬(せば)村が発足。

1927年、塩尻村が町制を施行、東筑摩郡塩尻町となる。

1959年、東筑摩郡塩尻町・片丘村・広丘村・宗賀村・筑摩地村が合併、塩尻市が発足。

1960年、塩尻市北内田が松本市に編入。

1961年、塩尻市南内田崖の湯が松本市に編入。

1961年、洗馬村を編入。

1982年、境界線変更により洗馬空港東が松本市に編入、松本市笹賀の一部を塩尻市に編入。

2005年、木曽郡楢川村を編入、現在に至ります。

マンホールには、北アルプスと野菜生産高の約70%を占める広大なレタス畑が描かれています。

一面のレタス畑

本洗馬(ほんせば)地区の集排マンホールには、天保年間に和兵衛窯で始まったとされる「洗馬焼の壷」と周囲に奈良井川を泳ぐ鮎が描かれています。

勝弦(かっつる)地区の集排マンホールには、勝弦北小野にある「チロルの森」と、周囲に「市の花:桔梗」が描かれています。

宗賀(そうが)南部地区の集排マンホールには、中央に一面のそば畑と、周囲に「カタクリの花」が描かれています。

宗賀南部地区は「蕎麦切り発祥の地」とも言われ、畑一面に蕎麦の花が咲く光景が見られます。

小曽部(こそぶ)地区の集排マンホールには、「市の花:桔梗」の花の中に小曽部川の上流部にある落差約13mの「白滝」が描かれています。

小曽部川下流域、良好な農耕地が広がる小曽部集落では、刈り取られた稲の「はぜ掛け」がそこかしこで見られます。

東山地区の集排マンホールには、市の東部、標高1665メートルの「高ボッチ山」のなだらかな傾斜に広がる「高ボッチ高原」で開催される「観光草競馬」の様子が描かれています。

昭和34年5月10日制定の市章は「カタカナの「ホ」を4つ繋げた形をしています。塩尻は「シホジリ」とよみがながつけられた昔の、シホジリの「シホ」と4つのホ「シ(4)ホ」をかけたものです。また、「ホ」という字には、稲穂(いなほ)のホなど、実りが多いという意味が込められています。」公式HPより

防火貯水槽マンホール

仕切弁

排泥仕切弁

減圧弁

塩尻に伝わる伝説の狐の妖怪、玄蕃乃丞の娘『玄蕃サラ』。名前の由来は玄蕃祭りとサラダ街道の「サラ」から。「塩尻市まちづくり応援部長」として塩尻市のPRの為に頑張っています。

塩尻市社会福祉協議会のイメージキャラクター『しおりん』。特産のワインをモチーフとし、ゆっくり寝かせたワインのように福祉のあれこれを頑張っています。

撮影日:2010年10月3日&2014年6月21日&2016年4月24日

 

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朝日村内あちこちウォッチ in 長野県朝日村

2022年09月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

「むかし、朝日村と山形村の村境にある横手ヶ崎には「お夏」という美しい女狐がいて、鉢盛山一帯を自由自在に駆け回っていた。お夏は、塩尻の桔梗ヶ原一帯を支配していた玄蕃之丞(げんばのじょう)狐と嫁入り行列に化け、婚礼が行われる名主(なぬし)の屋敷に先回りすると用意されていたご馳走をすっかり平らげてしまったそうだ。見事な化かしで村人たちを驚かせたお夏に親しみをこめ、横手ヶ崎にはお夏の碑が建てられている。」公式HPより

「横手ヶ崎お夏之遺蹟」 「狐火や お夏はかなむ 夢の跡」

訪問日:2010年10月17日

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朝日村針尾に鎮座される「熱田神社」。鳥居額は「熱田皇大神宮」。道祖神目当ての為、鳥居前よりの参拝です。

境内の一画に聳える村天然記念物「熱田神社のケヤキ 樹高:23.5m 幹の周囲:5.36m 枝下幹長:6.5m 枝張り:東西18.0m 南北:17.9m 昭和50年7月10日指定」境内案内より

「陸軍歩兵軍曹 勲七等功七級 清澤 左京之碑」

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朝日村古見にある「朝日村歴史民俗資料館」。外観は「熊久保(くまくぼ)遺跡:竪穴式住居」をイメージしたもので、古くから村民の生活と経済を支えてきた養蚕業、林業、農業に使用された道具や什器・衣類などが展示されています。

園内右手「縄文むら公園」内には復元された「竪穴式住居」がどっしりと、その存在感を示しています。

竪穴式住居と向かい合うように建立されていた、有明山開山の祖とされる『天明行者・像』。台座以外は松本市駅で拝見したものと同じですね。

一枚の絵のような風景・・・と、使い古された言葉を改めて感じさせる写真。私たちは実際にこんな風景を見て来たのだと、いま改めて思う。

訪問日:2016年4月23日

 

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