車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

仁壁(にかべ)神社 in 山口県山口市三の宮

2024年01月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市三の宮に鎮座される「仁壁(にかべ)神社」。鳥居の柱は、円柱でなく角柱。他の県ではあまり見られなかったように思います。

式内社で周防国三宮。御祭神は右殿に『下照姫命(したてるひめのみこと)』・中殿に『表筒男命・中筒男命・底筒男命』・左殿に『味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)』、瑞珠殿に『神産日神(かみむすびのかみ)ほか7柱』を配祀。

由緒「創建時代は不詳。皇統第十代崇神天皇の四年(紀元前91)各地の神封戸(じんぷこ)を定めた文献により、「仁壁神社に宮野の庄を充てた」との記録がある。周防三の宮と称される謂われは、大内義興が筑紫出兵の勝利報告に廻った順番が三番目に当り「三の宮」と称されたと伝えられている。」

一の鳥居を経て神橋を渡り、二の鳥居へ

参道正面には2001年に再建された拝殿。

拝殿左右より神域を守護されるのは、先代より受け継がれた台座の上で神域を守護される狛犬さん一対。中国産機械彫りの大量生産品と違って非常に個性的で好感度抜群の顔立ち。間違いなく新しい狛犬の歴史に繋がりそうです。

拝殿向かって右、幣殿の隣りに鎮座される「稲荷神社」、更に右に延徳二年鎮座で「御神威」の神玉を置く「具明社(ぐみょうしゃ)」。御祭神は稲背脛命(いなせはぎのみこと)・辨財天』

「神玉には霊魂が宿り お願いすることにより御神威(おかげ)を戴く事が出来る。神を敬うことにより神の力をより一層に発揮される。神には威徳がある。神は人の敬いによって威増し 人は神の徳により運を添う御成敗式目より」 神前に置かれた神玉をおさすりして願う事はただ一つ、今日がつつがなく明日に続きますように。

「硫黄島の砂:第二次大戦で激戦地となりました硫黄島の砂です」全ての御霊が懐かしい故郷にお帰りになられていますように・・・🙏🙏

平成9年(1997)、放火による火災で、享保5年以来の社殿を焼失。2000年に本殿、2001年に拝殿・幣殿、2010年に神楽殿が再建されました。何処の国の人間であろうと、神の領域に火を放つ行為を畏れとも恥とも思わない愚者を、心の底から嫌悪します。

訪問日:2015年11月11日

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神社一口メモ

「神封戸(じんふこ)」、神封(じんぷ)とは神社に対して寄進された封戸の意。神封の住民は租税や課役を神社に納めたり、祝などの役職を務めることで神社に奉仕した。こうした住民を神封戸と呼ぶ。

 

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ご当地マンホール~其の三 in 山口県山口市

2024年01月10日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

マンホールカードに併せて紹介した山口市のマンホールですが、カード化され無かった種類もまだまだ有り、さらに其の三へと続きます。

山口市川西町地区に設置されている「中央に周防大橋、その周囲を稲穂で取り囲んだ」デザインマンホール。

「周防大橋」は山口市深溝と秋穂二島の間、山口市を貫流する椹野川最下流の河口部(山口湾)にかかる、延長1,080mの斜張橋。1992年3月に完成、高さ71mに及ぶ斬新な形状の主塔を持ち、山口市の新たな観光名所となっています。

「一の坂川」の遊歩道に設置されたマンホールには、中央にゲンジボタル、周りに美しい桜がデザインされています。

ゲンジボタルと堤を埋め尽くす桜の角型マンホール。

川の左側から見る堤の桜とゲンジボタルの角型マンホール。

一の坂川のゲンジボタルと桜の角型マンホール。

一の坂川のホタルと桜の電線共同溝角型マンホール。

室町時代に京を模して作られた山口の町並みの中で、一の坂川は京都の鴨川に見たてられました。 春には桜が咲き、初夏には幽玄な輝きを川面に映すゲンジボタルの乱舞を見ることができます。

中央に市章、全体に花菱の地模様がデザインされたマンホール。

2006年10月1日制定の市章は、旧・山口市制時の昭和19年(1944)11月5日に制定、新・市制施行後に継承。「市名「山口」をかたどり、太い円は広くすべてを抱擁する大和の精神と市勢発展に市民がたがいに協力する気持ちを表わしています。」公式HPより

パラボラアンテナと青で電波を表現した、仕切弁

文字が右から左書き:古いタイプの消火栓

新山口駅の敷地内で見つけたJRのマンホール

撮影日:2012年11月18日&2017年11月30日&2017年12月5日

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旧佐波郡徳地町(とくぢちょう)は山口県のほぼ中央、佐波川上流の中国山地山間部に位置した町です。北に中国山地を背負い、南は瀬戸内海沿岸方面に続く地域にあり、総面積の89%を滑(なめら)国有林をはじめとする山林が占めています。河川は本町の中央部を県内屈指の佐波川が南下し、北部の野谷地区には、昭和31年に多目的の佐波川ダム(大原湖)がつくられています。「町の木:赤松」「町の花:梅」を制定。

昭和47年6月28日制定の町章は「『と』『く』の文字を組み合わせて図案化し、町の発展・向上・融和を表徴する。」旧公式HPより

と・・下準備をしていましたが、種々の事情により旧徳地町への訪問は未遂で終わりました。綺麗なカラーの集排マンホールもあると聞いていたのに、残念(-"-)

 

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ご当地マンホールとマンホールカードA in 山口県山口市

2024年01月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

山口市(やまぐちし)は山口県のほぼ中央に位置する市です。市域は南北に長く南は瀬戸内海に面し、東は防府市、周南市、西は美祢市、宇部市、北は萩市と県を跨いで島根県津和野町、吉賀町に隣接。

北部の山地から、山口地域は椹野川が、徳地地域は佐波川が、盆地、南部の臨海平野を経て瀬戸内海に流れ込んでおり、阿東地域は阿武川が「名勝長門峡」を経て、萩市より日本海へと流れています。

南北朝時代、大内弘世が大内氏の本拠地を現在の山口市中心部に移したのが始めとされ、応仁の乱以後には京から乱を逃れてきた文化人を歓迎した事から、いわゆる「大内文化・西の京」として栄え、戦国時代には大内義興、大内義隆が市街を整備し栄華を極めました。天文21年12月9日(1552年2月24日)に山口の宣教師らが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した事から「日本のクリスマスの発祥の地」としています。「市の木:イチョウ」「市の花:菜の花」「市の花木:桜」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により吉敷郡山口町・上宇野令村・仁保村・小鯖村・大内村・宮野村・吉敷村・矢原朝田村・平川村・秋穂村・鋳銭司村・秋穂二島村・名田島村・陶村・小郡村・嘉川村・井関村が発足。

1898年、矢原朝田村が改称し、吉敷郡大歳村となる。

1899年、井関村佐山地区が分立、吉敷郡佐山村が発足。

1901年、小郡村が町制を施行、吉敷郡小郡町となる 。

1905年、 山口町、上宇野令村が合併、改めて山口町が発足。

1915年、山口町と下宇野令村が合併、改めて山口町が発足。。

1929年、山口町と吉敷村が合併、市制を施行し、山口市(初代)となる。
 秋穂村が町制を施行、吉敷郡秋穂町となる。
 井関村が町制施行・改称して吉敷郡阿知須町となる。

1941年、 宮野村が山口市に編入。

1944年、大歳村・平川村・秋穂二島村・名田島村・陶村・小郡町・嘉川村・阿知須町・佐山村が山口市と合併、改めて山口市(二代)が発足。

1947年、山口市阿知須が分立し、吉敷郡阿知須町が発足。

1949年、山口市小郡上郷・小郡下郷が分立、吉敷郡小郡町が発足。

1955年、仁保村・小鯖村・大内村が合併、吉敷郡大内町が発足。

1956年、鋳銭司村が山口市に編入。

1963年、大内町が山口市に編入。

2005年、秋穂町・小郡町・阿知須町が山口市、佐波郡徳地町と合併、改めて山口市が発足。

2010年、阿武郡阿東町を編入、現在に至ります。

マンホールには「山口七夕ちょうちん祭り」の様子が美しくデザインされています。

「山口七夕ちょうちん祭り」は、室町時代、大内氏が笹竹の高灯籠に火を灯し、先祖の冥福を祈った事に由来するもので、山口市民の盆行事として定着しています。

撮影日:2012年11月12日&2015年11月11日&2017年12月1日

種類の多い山口市のご当地マンホール、明日は其の二へ続きます

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2016年12月1日、第3弾として全国46自治体で46種類(累計109自治体120種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「山口市A」のマンホールカードは、「山口観光案内所」でいただけます。

1987年に設置開始されたマンホールには「山口七夕ちょうちんまつり」がデザインされています。

「このマンホール蓋は、毎年8月6日、7日の旧暦七夕に開催される「山口七夕ちょうちんまつり」の様子をデザインしたもので、カラー版は市内の歩道を中心に設置しています。 山口七夕ちょうちんまつりは、室町時代の守護大名大内盛見(おおうちもりはる)が先祖の供養のため、お盆の夜に笹竹に高提灯を灯したのが始まりとされています。 その歴史は現在に至るまで約600年続き、山口市の夏の風物詩となっています。 メイン会場の一つ、商店街のアーケードを飾るちょうちん笹飾りは、まるで光のトンネルのよう。 神輿や山笠などを含めると、使用されるちょうちんの数は数万個にのぼり、会場全体を幻想的に彩ります。」

訪問日:2017年11月30日

 

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ご当地マンホール in 山口県

2024年01月08日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

山口県(やまぐちけん)は本州の西端、中国地方に位置する県です。島根県、広島県、関門トンネル及び関門橋で福岡県、海を隔てて愛媛県、大分県に隣接。県庁所在地は山口市。13市・4郡・6町があり町はすべて「ちょう」と読みます。南側を瀬戸内海(広島湾・伊予灘・周防灘)、西側と北側を日本海(響灘)と、三方が海に開かれ、東西に中国山地が走り、大きくは瀬戸内海沿岸地域、内陸山間地域、日本海沿岸地域の3つに分けられます。

中国山地に水源を発する河川として、一級水系の佐波川および小瀬川、二級水系の錦川、椹野川、厚東川、木屋川、阿武川等があります。岩国市の錦川に架かる「錦帯橋」は日本三名橋・日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されています。

令制国の長門国と周防国に相当することから、防長(ぼうちょう)という別名を持ちます。両国は後に毛利氏により統治され、江戸時代には、併せて長州藩と称していたことから、長州と呼ばれ、幕末には倒幕運動の中心となり明治維新の立役者となりました。県名は廃藩置県の際、県庁が置かれた山口町(現・山口市)の町名がそのまま県名に採用。「山口」という地名は、阿武郡にある「山の入り口」に由来します。
「県の木:赤松」「県の花:」夏ミカンの花「県の鳥:ナベヅル」「県の魚:ふぐ」「県の獣:本州鹿」「県の石:石灰石・銅鉱石・美祢層群の植物化石」を制定。

キャッチフレーズは独特のイントネーションで「“おいでませ 山口へ”」が有名でしたが、新たに「YAMAGUCHI MAGIC!」に主役の座を奪われたようですが、私たちとしては「“おいでませ~」に一、もとい三票😅 。

明治4年(1871)、 旧暦6月、長州藩が徳山藩を併合、翌月の廃藩置県により山口藩・岩国藩・長府藩・清末藩を廃し、山口県・岩国県・豊浦県・清末県の4県が置かれる。 旧暦11月、4県が合併し山口県が発足。

明治22年(1889)、町村制の施行により1市4町224村が発足。

マンホールは、中央に「山口県」、上に「工業用水」下に用途が記された山口県工業用水用のマンホールのみ。

昭和37年(1962)9月3日、県政施行90周年を記念して制定された県章は「「山」と「口」の文字を図案的に組み合わせて、県民の団結と飛躍を太陽に向かって羽ばたく飛鳥に託し、雄県山口を表現したものです。」公式HPより

山口県PR本部長『ちょるる』、2011年開催の「おいでませ!山口国体」マスコットとして大活躍。その後「おいでませ山口観光宣伝部長」として活躍し、「おいでませ!山口観光交流キャンペーン」を成功に収め、2012年10月に山口県PR本部長に就任しました。頭は「山」、顔は「口」で山口を表現しています。山口県の特産・名産品を取り揃えて ~おいでませ!山口へ~

山口県警察シンボルマスコット『ふくまるくん』。山口県を代表する魚の「ふく」(ふぐ「河豚」)をモチーフとして誕生しました。

日本水難救済会の二十四番目の地方組織として発足した山口県水難救済会をアピールするのは『海のレスキュー隊:きゅうたろう君』。とにかく・・頑張って下さい!

山口県の緑化活動シンボルキャラクター『やまりん』。自然を大切にする活動を続けています。

レノファ山口FCの公式マスコットキャラクター『レノ丸』。かわいく見えるけど、力強い百獣の王ライオン!山口県の戦う獅子!維新の志士!だそうです。

撮影日:2012年11月&2015年11月&2017年11月

🌸明日からは山口県の県庁所在地:山口市の紹介です。

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高津柿本神社~其の二 in 島根県益田市高津

2024年01月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

「柿本神社」が鎮座されるのは、丸山の東に張り出した尾根筋の鴨山(高角山)山頂。境内を含めた一帯は御祭神にちなんで、昭和50年代から島根県立万葉歌碑公園として整備されています。

拝殿の正面は津和野に向いていると・・境内で出会った御婦人が教えてくださいました。境内前の小高い位置から見る益田市、見える景色がどの辺りなのか、私にはわかりません。

拝殿横の坂道の先に建てられた「宝物殿」。内には霊元上皇を始め、桜町天皇・桃園天皇・後桜町天皇・光格天皇・仁孝天皇が、「人麿影供」を催して歌道の上達を祈念した折の短冊和歌が収蔵されています。
「影供」は神仏や故人などの肖像に供え物をして祭ること、 特に『柿本人麻呂』の肖像を祭って行う歌会を「人麿影供」と言います。

人麿公の歌碑の横には『梅原猛氏』が、著書「水底の歌 柿本人麿論」で、自説を裏付ける為の調査をした事が古地図と共に紹介されています。

傍らには調査の折に鴨島跡から引き上げられたという岩(石段)が置かれていますが、実際のところ、人麿公終焉の地「鴨島」については諸説があり、いまだにその論争に終止符が打たれていません。

楼門を出て右手に朱塗りの千本鳥居

赤く染まる神域の中に鎮座される「境内社:稲荷社」。拝殿額には『稲荷大神』『北辰(ほくしん)大神』の御神名。

稲荷社拝殿の左右より神域を守護されるのは、弘化三年(1846)建立の神狐さん一対。やっぱりこの頃の稲荷の神狐さんは優しく良いお顔をしています。切れ長の狐目がチャーミングだったので、今回はお顔のアップで。巻物を咥えた神狐さん。

宝珠を咥えた神狐さん。稲穂や鍵はよく見ますが、宝珠を咥えた神狐さんは殆どお目にかかった事がありません。

更に石段を下って左手に鎮座される「八幡神社」

拝殿左右より神域を守護されるのは「弘化三年(1846)八月吉祥日」建立の狛犬さん一対。

長い年月が流れて、頭上の角も少しずつ小さくなってしまいました。阿形さんが実は立派な男子であった証も・・・って、何を言ってるんですか😣😅

参道途中に建立されていた文学碑

【石見路に 歌の神あり 月の秋】 山崎蓼村(りょうそん)

椎の実を 拾いし子ら 足早に 石段くだる 日の暮るるころ】浅井喜多治

【石見のや 高角山の木の際より わが振る袖を 妹見つらむか】(石見の高角山の木々のあたりから 私が振っている袖を妻は見ているだろうか)
赴任先の石見の国から大和へ戻る際に、石見に残す『依羅娘子(よさみのおとめ)』を思って詠んだ一首とされており、江津~益田市内の多くの場所で幾度となく目にしました。

参拝日:2012年11月10日&2019年4月19日

明日からは島根県のお隣、「山口県」のマンホール・神社仏閣・名所に旧跡&迷所の紹介。今年もよろしくお付き合いお願いいたします 🙏🙏

 

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高津柿本神社~其の一 in 島根県益田市高津

2024年01月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

益田市高津町上市に鎮座される「高津柿本神社」。御祭神は『柿本人麿命』

御由緒【飛鳥時代の歌聖・柿本人麻呂の終焉の地と伝わる鴨島に創建された人丸社を起源とする古社であり、「柿本神社縁起」によれば、全国に点在する柿本神社の本社であるとされる。 なお、鴨島は平安中期に起こった万寿地震の影響で沈没したとされることから、後に高津の松島に流れ着いた人麻呂公の尊像を祀り、江戸時代に津和野藩主・亀井氏によって現在地に遷座されたものが、現在の柿本神社とされている。】

朱の神橋を渡って鳥居を潜り136の石段の中ほど、左右に隋神を配した楼門が出迎えます。【この楼門は、初層と上層からなり、二層とも桁行3間、梁間1.5間の三間楼門で、屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け。勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。】

楼門の扁額は『正二位柿本神社』。貫には阿吽の獅子彫刻。

楼門を潜り更に石段の先、鴨山(高角山)山頂に、明るく開けた境内が見えてきました。

1998年2月に築造された、入母屋造妻入の拝殿

本殿は、方三間朱塗りの単層入母屋造妻入で、正面に唐破風の向拝を設けた春日造変態。屋根は檜皮葺で、殿内には津和野藩主亀井家の家紋、四ツ目結び紋をあしらった板扉があります。

石段上、境内入り口より神域を守護されるのは「寛政二年(1790)庚戌」建立の狛犬さん一対。吽形さんは角を持ち、阿吽ともに目には大きな玉が嵌め込まれています。

・・と書いていたら、ご亭主殿いわく、これは玉ではなく銅で作られた眼ではないかとの事。私のビックリを顔全部で表現してくれる狛犬さん・・なんか良い(笑)。

拝殿横に建立されていた「亀趺(きふ)」『柿本大明神神詞』の碑。

上部には阿吽の麒麟。

境内に建立された歌碑は、『柿本人麿』が石見国で亡くなる直前に詠んだとされる一首。

【鴨山の 岩根しまける 我れをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ】

(大意:鴨山の岩を枕として死のうとしている私を、何も知らずに妻は待ち続けているのだろう。)

もう少し続く柿本神社、明日は境内あれこれの紹介です。

参拝日:2012年11月10日&2019年4月19日

 

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柿本人麻呂と依羅娘子 in 島根県江津市依羅

2024年01月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

人麻呂さんの足跡を訪ねて・・江津市二宮町神主、二宮交流館正門の右手に「依羅娘子(よさみの おとめ)生誕伝承の里」碑が建立されています。

【今日今日とわが待つ君は石川の 貝に交じりてありといはずや  直の逢ひは逢ひかつましじ 石川の雲立ち渡れ 見つつ偲ばむ】

「意訳:今日は今日はと、わたくしが待っているあなたは、石川の貝に交っているというではありませんか。直かにお逢いすることはもはやできないでしょう。石川に雲よ立ち渡れ、その雲を見ながら、あなたをお偲びしましょう。」

江津市二宮町神主恵良の里の一画に建立された「恵良万葉故地依羅娘子(恵良媛)伝承地」

「郡庁仮国庁跡」の碑

【勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不恋有牟】(な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか あが恋ひずあらむ)巻二:一四十

「意訳:物思いをするなと貴方は言うけれど、今度逢うのを何時と知って、恋わずにいられるでしょうか。」・・・・君寺の高台から見渡す恵良の里

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江津市波子町 辛の崎、石見海浜公園の先に立つ大崎鼻灯台

石見海浜公園駐車場正面に「柿本人麻呂:万葉歌碑 巻二:一三五」

【角障経 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽 深海松生流 荒磯尓曽 玉藻者生流】(つのさはふ 石見の海の 言さへく 唐の崎なる 海石にぞ 深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる)

「意訳:石見の海の辛の崎にある海石には海松が生い茂り、荒磯にも美しい藻が生い茂っている。」・・・ここから見えるのは、はるか向こうに穏やかな日本海と、生い茂る草木だけ。

訪問日:2019年4月16日

 

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柿本人麻呂:万葉歌碑~其の四 in 島根県益田市高津町

2024年01月04日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

最後は「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首(柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首)」

【鴨山の 岩根しまける我れをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ】

(鴨山の岩を枕にして死んでゆく私のことを、妻は何も知らずに待ち続けるのだろう) 巻2-223

【直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ 】

(直に逢う事はもう出来ないけれど、せめて石川に雲となって立ち渡って下さい。それを見て貴方を偲びます。)(依羅娘子)挽歌二首:巻2-225

【今日今日と 我が待つ君は 石川の峡に交りて ありといはずやも】

(今日か今日かと私が待つ貴方は石川の貝に交じって倒れているというではありませんか)(依羅娘子) 巻2-224

【荒波に 寄り来る玉を 枕に置き我れここにありと 誰れか告げけむ】

(荒波に運ばれて来る玉を枕のそばに置いて私がここにいると誰か妻に告げてくれるだろうか。)丹比真人(たぢひのまひと)人麻呂の死後、人麻呂の意を酌みて詠める一首 巻2-226

訪問日:2019年4月19日

万葉歌人として知られた『柿本人麻呂』、彼の痕跡や伝説は石見地方に特に多く見られ、日本に現存する最古の和歌集「万葉集」にも、長歌を含めて数多くの歌が残されています。

その万葉集の中に、『柿本人麻呂』の終焉之地を伝えるとされる歌が五首あり、そこから推定される終焉の地は、奈良県に一ヶ所、島根県石見に三ヶ所。そんな中、旧邑智町(現美郷町)鴨山のこの地こそ、『柿本人麻呂』の終焉地だと断定した人物がいました。

柿本人麻呂の研究に取り組み、その終焉の地を石見の国「鴨山」であると断言した人物の名は『齋藤茂吉』。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギ派の中心人物として活躍した著名な精神科医で歌人でもあった人物です。

柿本人麻呂の終焉地として挙げられる邑智郡美郷町。湯抱温泉入口にある「斎藤茂吉鴨山記念館」。玄関前に建立されているのは茂吉の歌碑。

【 夢のごとき 鴨山を恋ひてわれは来ぬ  誰も見しらぬその鴨山を  】

【むらさきの 藤の花ちる峡かいの みち女良谷川(めらだにがわ)に そひてわがゆく】佐藤 佐太郎

【年まねく われの恋ひにし鴨山を  いめかとぞおもふ あひ対ひむかいつる】茂吉

最後の一枚は、車に乗って走り出した瞬間に見かけてシャッターを切ったもの。画像左【茂吉忌(き)の 雪ふる馬の 幻に・・・松村 明石】。画像右【夕顔の 終りし庭におりたちて われは何をか たのまむとする・・・苦木 虎雄】

最後は横道に逸れてしまいましたが、柿本人麻呂の繋がりと言う事で・・(歌碑は周辺や鴨山公園等に、合わせて11基が建立されています。興味のある方は是非!)

訪問日:2015年4月20日

 

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柿本人麻呂:万葉歌碑~其の三 in 島根県益田市高津町

2024年01月03日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

万葉歌碑公園、少し場所を移動しますが、人麻呂さん以外に『大伴宿禰家持(おおとものすくね やかもち)』の歌碑も有ります。

【我が恋は 千引の石を 七ばかり 首に懸けむも 神のまにまに】

(私の恋は、千人引きの巨岩を七つも首にかけているほど苦しく重い。それが神の思し召しとならば潔く耐えよう。)巻4-743

再び人麻呂さんに戻って・・正月にはいささか相応しくない歌ですが、古典に親しむという事でご容赦を😊

讃岐の狭岑嶋(さみねのしま)にて、石の中の死人を見て作れる歌二首

【沖つ波 来寄する荒磯を 敷栲(しきたえ)の 枕とまきて 寝せる君かも】

(沖の波が打ち寄せる荒磯(あらいそ)を枕にして眠っているあなたよ) 巻2-222

【妻もあらば 摘みて食(た)げまし沙弥の山 野の上のうはぎ 過ぎにけらずや】

(もしあなたが妻と一緒ならウハギを摘んで食べただろうに、沙弥(さみ)の野にウハギが空しく伸びている) 巻2-221 ウハギはよめなの古称

【天離る 鄙(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし】

(片田舎の荒野に行き倒れたままになっているあなたのことを思うと、悲しくて生きた心地がしない)巻2-227 作者不詳

家持さんの句碑が建立されている近くに「猿田彦大神」と刻まれた「道祖神碑」が祀られています。

道祖神の横に立つ木には注連縄が掛けられ、沢山のコブが見えるのですが・・

自然界が生み出したこの不思議を目の当たりにした時、一瞬声を失いました。額と思しき位置に延びるのは「二本の角」。小雨の下で見る「ソレ」はまるで泣いているようで、傘を叩く雨の音に混じって聞こえてくるのは切ない泣き声のようで・・・

訪問日:2019年4月19日

能登半島大震災の報に寄せて、柿本人麻呂が遣唐使を送る際に無事を祈って「言霊」を詠った歌。

【磯城島(しきしま)の 大和の国は言霊の 助くる国ぞ ま幸(さき)くありこそ】

(日本の国は言霊が幸をもたらす国です。どうか私が言葉で「ご無事でいて下さい」と申し上げることによって、どうぞ無事でいて下さい。)

どうぞ無事でいて下さい。どうぞ・・どうぞ無事でいて下さい。

 

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柿本人麻呂:万葉歌碑~其の二 in 島根県益田市高津町

2024年01月02日 08時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

「島根県立万葉公園 人麻呂展望広場」で頂いたパンフレット「柿本人麻呂の歌の世界にふれる庭」の文中に、「益田の人々は歌聖柿本朝臣人麻呂のことを『人丸さん』と呼んでいます。」と記されています。

二日目の今日は、石見の国で愛し合った依羅娘子(よさみのおとめ)との別れにちなんだ長歌一首から。

【石見の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚取り 海辺を指して 和多津(にぎたつ)の 荒磯の上に か青く生ふる 玉藻(たまも)沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄らめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波の共(むた)か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜(そうろ)の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里は離(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎えて 偲ふらむ 妹が門見む なびけこの山】

(石見の海の角の海岸を、よい浦などない、よい干潟などないと人は見るだろうが構わない。 たとえよい浦や干潟はなくても、私にはかけがえのない所、この海辺を指して、和田津(にぎたつ)の岩場のあたりに、 青々とした玉藻(たまも)や沖の藻を、朝は鳥が羽ばたくように風が吹き寄せ、夕べには鳥が羽ばたくように波が打ち寄せる。そんな波のままに揺らぐ藻のように寄り添って寝た妻を、露霜(つゆじも)が置くように角(つの)の里に置いてきた。 この道の曲がり角、曲がり角ごとに幾度も振り返って見るけれど、妻のいる里は遠く離れてしまった。高い山も越えて来てしまった。 妻は今頃夏草が日差しを受けて萎(しお)れるように悲しみ嘆いて、私を想っているだろう。妻がいる筈の家の門をもう一度見たい。この山がなびき去ってくれるなら。) 巻2-131

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【秋山に 散らふ黄葉 しましくは な散り乱ひそ 妹があたり見む】

(秋山に落ちる黄葉(もみじば)よ、今少し散らないでくれ。妻が居る辺りをもうしばらく見ていたいから) 巻2-137

【青駒が 足掻きを速み 雲居にぞ 妹があたりを 過ぎて来にける】

(妻の住んでいるという辺りをもっと見たいのに、私が乗った青馬が速すぎて、妻のいる里も遠くに過ぎてしまった。) 巻2-136

【石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか】

(石見のこの高角山の木の間から、私が袖をふる姿を、妻は今頃見ているだろうか。) 巻2-132

【石見の海 打歌の山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか】

(石見の打歌( うった) 山の木の間から、私が袖をふる姿を、妻は今頃見ているだろうか。)石見の国に妻を残して去った時に詠める 巻2-139

【小竹之葉者 三山毛清尓 乱友  吾者妹思  別来礼婆 = 小竹(ささ)の葉は み山もさやにさやげども われは妹思ふ 別れ来ぬれば】

(笹の葉が風にそよいでざわざわと鳴っていても、私は妻のことを思い続けているのだよ。妻と別れて来てしまったから。) 巻2-133

同じように別れを歌った歌ですが

【近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ】

(近江の海(琵琶湖)の夕波の上を飛ぶ千鳥よ、お前が鳴くと私の心は悲しく昔のことを思い出してしまう。) 巻3-266

【天離る 鄙(ひな)の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ】

(都から遠い田舎の長い道を恋しく思いながやって来ると、明石海峡から懐かしい大和の 山々が見える) 巻3-255

【燈火の 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず】 

(ともし火が灯りだした明石海峡は夕日を浴びてまぶしい。漕ぎ別れてきたわが家辺りは、もう見えない) 巻3-254

【あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳に 雲立ちわたる】

(あしひきの山川の瀬の音が激しくなるにつれて 弓月が嶽に雲が立ち渡るのが見える) 巻7-1088

万葉歌人『柿本人麻呂』~其の三へ

訪問日:2019年4月19日

 

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