車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

朝田神社 in 山口県山口市矢原

2024年01月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市矢原に鎮座される「朝田神社」。御祭神は『罔象女命』。配祀『誉田別命・氣長足姫命 ・大鷦鷯命・田心姫命 ・湍津姫命 ・市杵嶋姫命・表筒男命 ・中筒男命・底筒男命 ・伊邪那美命・須佐之男命』

由緒「創祀年代は不詳。「五ノ宮大明神」とも呼ばれた周防五宮。室町時代の明応六年(1497)に大内義興の五社参詣の記録が残る古社。明治三十九年に大歳周辺の七社が合祀。現社名は「旧郷社・朝田神社」から取られた。合祀後の新社地は、村の中央に当たる住吉神社が選ばれ、社殿は総ての旧社殿を移転して建設。明治42年(1909年)末には本殿・幣殿・拝殿が落成し、正遷座祭が斎行。大正2年(1913)、還座に関わる大工事が終了。」

慶応四年建立の一の鳥居、扁額には「玉祖五宮」。鳥居の内左右より神域を守護されるのは「天保十七巳亥(1847)」建立の 貫禄たっぷりな狛犬さん一対。イ~~ッと歯を剥きだした吽形さん。大きめの玉を食む阿形さん。

二の鳥居

二の鳥居左右より神域を守護されるのは「文政八年(1825)八月吉日」建立の狛犬さん一対。角ありの吽形さん「ウフェヘヘ~😆」阿形さん「何だよ~気持ち悪いなぁ~💦」

神門、扁額には「住吉大明神」

神門前左右より神域を守護されるのは「嘉永七年(1854)八月十五日建立」の狛犬さん一対。「あのさぁ~、あのさぁ~」と、おしゃべり大好きな阿形さん。ウルサイッ!」とおかんむりの吽形さん。

拝殿

拝殿前左右より神域を守護されるのは「嘉永七年(1854)九月」建立の扁平頭の狛犬さん一対。固く口を結んだ吽形さん。阿形さんは玉を食んでご機嫌。

拝殿内奉納額:波頭の龍

裏参道鳥居

裏参道鳥居の前より神域を守護されるのは、近未来映画に登場するAIロボットのような不思議な表情の吽形さん。阿形さんは玉を咥えて得意満面なドヤ顔。

個性豊かな五対の狛犬さん、実は後姿もかなり個性的。一人で楽しむには勿体ない(笑)という事で一堂に会してみました。左・一の鳥居、右・二の鳥居の狛犬さん。

左・神門、右・拝殿の狛犬さん。

裏鳥居の狛犬さん。 如何ですか?画像領域の関係で後姿迄は中々紹介できないのですが、こうして並べると実に個性的で壮観です。

神仏習合の名残なのか・・・鐘つき堂。

大歳村に鎮座していた一つの郷社・六つの村社(七社合祀)一覧。
現在地より更に西の朝田地区に鎮座していた「旧郷社・朝田神社」
現社地に鎮座していた「旧村社・住吉神社」。摂津国住吉神社からの勧請。
高井地区に鎮座していた「旧村社・八幡宮」。創祀年代は不詳。宇佐八幡宮よりの勧請。
勝井地区に鎮座していた「旧村社・熊野神社」。大内弘世が紀伊国熊野神社よりの勧請。
黒川地区に鎮座していた「旧村社・八幡宮」。石清水八幡宮よりの勧請。

今井地区に鎮座していた「旧村社・若宮八幡宮」。鎌倉時代に宇佐八幡宮よりの勧請。
上湯田地区に鎮座していた「旧村社・八幡宮」。鶴岡八幡宮よりの勧請。

参拝日:2013年4月17日

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八坂神社&築山(つきやま)神社 in 山口県山口市上堅小路

2024年01月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市上堅小路に鎮座される「八坂神社」。御祭神は『素戔嗚尊・稲田姫命・手名槌命・足名槌命』

「応安3年(1370)、大内弘世が京都より勧請。はじめ社殿は竪小路に建立されたが、さらに水の上に社地が変えられた。永正16年(1519)に大内義興が大神宮を高峰山麓に建立した際、本社もその地に移し、社殿を新築。 江戸時代末期に毛利氏によりこの地に還座。本殿は三間社流造りで、屋根は桧皮葺き。本殿の周囲に配された一三個の蟇股は珍稀な図柄とともに室町時代の特色をよくあらわす。」境内由緒書より。

国指定重要有形文化財の本殿は三間社流造りで、桁行4.67m、梁間4.69m、屋根は桧皮葺。永正17年(1520)に大内義興が山口大神宮境内に再建し、明治元年(1868)この地に移築。

毎年七月に行われる祇園祭の様子が描かれた絵馬。向かって右下には「鷺舞」も見られます。

大内教弘が築いた別邸跡地に鎮座される境内社:「築山(つきやま)神社」。御祭神は『大内義隆公』。相殿に『徳川家康公』『大内義尊公並びに大内氏諸公卿諸士28人』を配祀。

創建は不詳「大内義隆公を祀る宝現霊社と、氷上山興隆寺の境内に勧請された東照宮があり、明治3年に現在地に遷座し合祀されたとする。」

本殿は総檜造りで桁行三間、梁間二間、入母屋造、拝殿は桁行三間、梁間二間、入母屋造、向拝一間、向唐破風造で、共に市指定有形文化財。

一面の黄色、鮮やかな銀杏の絨毯の上に、散りあぐねた銀杏がハラハラと舞い落ちる・・

「筝曲組歌発祥之地碑」「天文年間(1532-1555)、大内義隆が催した詩歌管弦の席で、都の殿上人が一首ずつ歌を作り、箏で弾き歌いしたことが箏の組歌の起源と伝えられる。 昭和40年(1965)、組歌発祥450年を記念して建立された。」山口市公式HPより

境内社「祇園稲荷神社」

参拝日:2017年11月12日

 

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大村神社と大村益次郎墓所 in 山口県山口市鋳銭司

2024年01月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市鋳銭司(すぜんじ)・長沢池の北に鎮座される「大村(おおむら)神社」。御祭神は『大村益次郎公』

「鋳銭司出身で「維新の十傑」の一人にも数えられる大村益次郎を祀る。益次郎はわが国近代兵制の創始者で、幼名を村田宗太郎といい、ついで、良庵、後に蔵六と改め、さらに大村益次郎と改名。明治2年9月、京都で旧思想の武士たちに襲撃を受け、その年の11月15日大阪の病院で没しました。遺骸は瀬戸内海を船で郷里に運ばれ、この地に埋葬されました。墓の後方には明治11年に建立された神道碑があり、建碑に賛同した多くの顕官の名が刻してあります。もとはこの墓の側にありましたが、昭和16年に神社改築の話が起こり、全国から寄付金が集められ、昭和21年現在地に完成。」山口市観光情報サイトより

現在の社殿が完成したのは昭和21年。当時無格社であった大村神社を県社に格付けするように申請。県社に相応しい社殿の着工が始まったのは昭和16年からでしたが、同年に太平洋戦争が始まり、戦況の悪化に伴って建築資材は不足。神社が完成したのは、終戦後の昭和21年のことでした。

公式HPに「幕末から明治にかけて日本の近代国家に貢献した英傑は、次々と神社に祀られました。吉田松陰:東京の松陰神社が没後23年、伊藤博文:没後23年、乃木希典:東京の乃木神社が没後8年。大村神社が益次郎さんの没後3年で建てられた事を考えると、当時の鋳銭司の人々の益次郎さんに対する強い思いが想像されます。」

鋳銭司郷土資料館入口の『大村益次郎』レリーフ

神社から少し山間に入った場所に建立された『大村益次郎』・『妻:琴子』の墓。


明治十二年、大村没後十年祭に際し墓所の後方に、益次郎の事績などが記された石碑「神道碑」を建立。撰文『山田顕義』、篆額『有栖川宮熾仁親王』。裏面には三條実美や伊藤博文・井上馨・毛利元徳・伊達宗城等々・・発起人五名、寄付人六十八名と彫士、計七十四名の名が彫られています。

「史跡:大村益次郎墓」碑と案内

「大村益次郎先生百年祭記念碑」

昭和52年の某局大河ドラので放送された司馬廉太郎の長編歴史小説「花神」を記念して建立された「花神碑」。
「防長の山河の美しきは天下に比類がない。萩の海辺の島々は夢の国のようであるし、山々をめぐるたたずまいの優しさはどの土地にもない。 「防長の山河は優しいのです」 蔵六はいう。 蔵六のおかしさは、その優美ななかでも第一等の地は、「鋳銭司村です」と、おのれの生まれた在所を誇ったあたり、お琴がきいていても滑稽であった。」小説「花神」より

鋳銭司郷土資料館内で見たパンフレットの挿絵。何とも言えない優しさは、おそらく郷土の子供たちの目にも身近に感じられる事と思います。

筒袖羽織に短袴(たんこ)を着け、左手に双眼鏡を持った大村益次郎銅像」は、明治26年に靖国神社に建立された日本初の西洋式銅像。靖国の地が選ばれたのは、彼が靖国神社創建の地の選定に深く関わった事に由来します。鋳銭司郷土資料館内では、高さ12メートルを超える巨大な銅像のレプリカが訪問者を出迎えてくれます。

「鎮魂 彼我之英霊」

大村神社への途次にある、周囲約6Kmの大湖「長沢池」。由来碑には「慶安4年(1651)頃、代官東条九郎右衛門の在役中に築工。天保年間には鋳銭司村、名田島村、台道村の田畑に堤水を供給し、たとえ他村が旱魃に見舞われても、長沢堤を利用する村々は旱魃を免れたと伝えられる。」

参拝日:2015年11月12日

 

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高嶺稲荷神社(山口大神宮) in 山口県山口市滝町

2024年01月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市滝町に鎮座される「山口大神宮」末社「高嶺稲荷神社」。御祭神は特に固有名詞がない為『稲荷神』とします。

由緒「鎮座当時の「山口伊勢二所太神宮」(木版)の境内見取図によると、現在の神楽殿の近くにあったものと思われる。その後現在地に移され、大正12年に改築された。農産物の守護、商売繁昌、三難(火・盗・病)消除の神として古くから篤い信仰を受けている。」公式HPより

拝殿前左右より神域を守護されるのは、それぞれに玉と巻物を咥えた「昭和三年五月」建立の神狐さん一対。

社殿の奥上方にて神域を守護されるのは巻物を咥えた神狐さん。優しく見返る神狐さんは小さな玉を咥えている様子。

参道入り口左右より神域を守護されるのは「昭和7年(1932)2月」建立の狛犬さん一対。狛犬さんというよりも獅子に近い、興味深い顔立ちをされています。前足の小さな羽のような毛束は何を表しているんでしょうね?

鳥居の内より神域を守護される神狐さん二対。どちらも巻物と玉を口に含んでいます。参道向かって右手の神狐さん。

参道向かって左手の神狐さん・・・・巻物を咥えた神狐さんは・・・どちらも立派なおのこだという事実にちょっとばかり(´///ω///)

手水舎の左右より神域を守護される神狐さん。この稲荷社の中では一番あどけない表情で参拝者を迎えてくれます。

黒い輝きをまだ失っていない、陶器製の狛犬さん一対。どの場所にいて神域を守護されていたのか・・今はお役目を終え、大地に腰を落ち着けてゆったりと過ごされているご様子。

口中に大きな玉を含んだ阿形さん、少し困ったような顔で後ろを振り返る吽形さん。久々に素敵な焼き物の狛犬さんに出会えました。

神の社に、水辺の風景は殊の外よく似合い、鮮やかな紅葉が更に彩を添えて美しく・・。

一面に散り敷いた紅葉の上を歩く・・なんて素敵で贅沢な一時。

参拝日:2013年4月17日&2015年11月11日

 

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多賀神社(山口大神宮) in 山口県山口市滝町

2024年01月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市滝町に鎮座される「山口大神宮」摂社「多賀神社」。御祭神は『伊弉諾尊・伊弉再尊』『天照大御神・素戔嗚命・ 少名彦名命・火具土神・国常立命・応神天皇・菅原道真命・大内教弘命』を配祀。

由緒「近江:多賀大社の御分霊を勧請、創建は不明。永和年間に大内弘世が社殿を建立、永正9年(1512)に大内義興が重建。永禄12年(1569)の大内輝弘の乱で社殿を焼失、慶長15年(1610)に毛利輝元が再興。社殿はもと水の上にあったが、昭和24年、山口大神宮境内に遷座。」公式HPより

多賀神社:拝殿

拝殿内に置かれている「太鼓」。傍らに太鼓を叩いてお陰を頂いてくださいとあったので、二人で順に一叩きずつ。

拝殿脇に安置されている「安産石」。公式HPに、「古来より延命の神と称えられる多賀神社。この霊石を撫で拝し、延命長寿を祈り、病気平癒、安産延寿を祈願する習わしがある。」

拝殿斜め向かい、石段右手から感じる優しい視線は、有形文化財指定の木彫りの神馬像。

文政八年(1820)、山口の工匠『安永貞右衛門』により、近郷の名馬をモデルに3年がかりで完成したといわれています。

明日は山口大神宮内に鎮座される末社「高嶺稲荷神社」の紹介です。

参拝日:2013年4月17日&2015年11月11日

 

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山口大神宮 in 山口県山口市滝町

2024年01月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市滝町に鎮座される「山口大神宮」

御祭神は内宮に『天照大御神』『天手力男命・萬幡豊秋津姫命』を配祀 。
内宮別宮 荒祭宮に『天照大御神荒魂・瀬織津姫命』。内宮摂社 恵美須社に『事代主命』
外宮 に『豊受大御神』『天津彦彦火瓊々芸命・天児屋根命・天太玉命・建御名方神・八坂刀自命』を配祀。
内宮別宮 多賀宮 に『豊受大御神荒魂・伊吹戸主神』

由緒「大内義興の時代、前将軍足利義植が京都を追われ、山口に来て大内氏にたよったが、義興は、永正5年(1508)にこれを奉じて上洛し、以後11年間、管領代として将軍に代わって幕政を執行。、永正11年に伊勢の皇太神宮に参拝。永正15年、山口に帰った義興は、太神宮を勧請する用意にとりかかり、自らその社地を視察。高嶺の東麓を境内地と決め、社殿建立の御作事始めを行い、永正16年に外宮、17年に内宮が落成。天皇に太神宮勧請を奏聞し、勅許を得て17年6月29日に神霊を遷宮。当初は「高嶺神明」と称したが、後柏原天皇から「高嶺太神宮」、後陽成天皇から「伊勢」の勅額を賜わり、「高嶺太神宮」「今伊勢」と称せられるようになった。昭和3年に県社となり「高嶺神社」と称する事となったが、昭和22年「山口大神宮」と改称。」公式HPより

鳥居から真っ直ぐに続く石段参道、

その左右より神域を守護されるのは有形文化財指定の狛犬さん一対。「寛政三年(1791) 秋穂石工市宝一族」。物静かな吽形さんには頭上に小さな角、不思議な迫力で参拝者を見守る阿形さん。お目にかかれて嬉しい一対です。

大切に、大切に神域を護ってこられた神獣さん。元の顔立ちがどんなだったか朧になっても、いつまでもこの大切な神域を護り続けて下さいね。

桧皮葺の手水舎で改めて身を清め、石段参道を登って御本殿へ。

石段参道を登って左手に『天照大御神』他:二柱が鎮まられる「内宮」

伊勢に倣い、2000年に式年遷宮を挙行。内宮・外宮の敷地の横には式年遷宮の際の「古殿地」があります。

石段参道を登って右手に『豊受大御神』他:五柱が鎮まられる「外宮」。中央:古殿地後方に見えるのは「別宮」

外宮の社前左側に「籾置岩(もみおきいわ)」「楕円型の苔むした巨岩が置かれている。石の周囲は7.7メートル、畳2枚くらいの広さである。種子にする稲籾や麦などをこの岩において、農作物の厄除け、豊作を祈願したことからこの名がある。」公式HPより

手水舎の近くに置かれた「鷺岩」「江戸時代祇園社は大神宮境内にあった。その神事に鷺舞があるが、鷺舞が終わるとこの岩の上に鷺の頭や羽根を置くことになっていた。それでこの岩を鷺岩という。」公式HPより

奥社:岩戸社が鎮座される「鴻の嶺:登山道」案内。かなりの石段参道を登らなければならないとお聞きしていたので、この場にて遥拝させて頂きました。

明日は山口大神宮内に鎮座される「多賀神社」の紹介です。

参拝日:2013年4月17日&2015年11月11日

 

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今(いま)八幡宮 in 山口県山口市八幡馬場

2024年01月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市八幡馬場に鎮座される「今(いま)八幡宮」。御祭神は『応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・玉依姫命・宇治皇子』

「創建年代は不明であるが、鎌倉時代に大内氏一九代弘成の娘に今八幡殿と呼ばれた人名があり、山口に大内氏が移る以前からあったことがわかる。文亀三年(一五〇三)大内氏三〇代義興が下宇野令の朝倉八幡宮を今八幡宮の地に移し、二社を合併して造建したのが現在の社殿であると伝えられている。」境内由緒より。

参道石段左右より神域を守護されるのは昭和8年(1933)8月建立の狛犬さん一対。顎下の毛の流れ、阿形さんの一見してガチャ歯に見える口元。山口市の狛犬さんは本当に狛犬好きの「ツボ」に嵌ります😄

一の鳥居右手に「明治天皇御膳水の井:明治18年(1886)7月、明治天皇山口行幸の際、近くの毛利家別邸が行在所となったが、天皇ご滞在中のご飲食一切に使用される水は特別な計らいを要すため、当時このあたりでも格段に名水の誉れが高かった井戸から清水が運ばれて御膳に用いられた。公式HPより

井戸に向かい合うように「木馬舎」

二の鳥居額は銅板製、非常に凝った装飾が施されています。

山口市の神社では二例目。左右に切妻造りの翼楼を付し、正面に一間の向拝を持つ「楼拝殿」

拝殿前左右より神域を守護されるのは昭和43年(1968)10月吉日建立の狛犬さん一対。ビックリしたようなドングリ眼の吽形さん。それを見てアングリと口を開けたままの阿形さん、絶妙のコンビ😄

拝殿向かって右手にブロンズ製の御神馬

御本殿

御本殿:後方から

「八柱神社:今八幡宮氏子八カ町内に鎮座の摂・末社八神社を明治40年に氏神社に合祀する事となり、旧社殿を今の地に移建合祀。」現地案内より

「八柱神社」鳥居の左右より神域を守護されるのは、文政六年(1823)正月吉日建立の狛犬さん一対。阿吽ともに中々の強面。

境内入り口近くに建立されていた「山口国学院記念碑」

鎮守の杜を背景に

面白情報・・・今八幡宮の鳥居の柱も、仁壁神社と同じく、円柱でなくて丸みを帯びた角柱。もしかして山口市では鳥居の柱は角柱だった??・・って、ない!ない!😅

参拝日:2015年11月11日

 

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豊栄(とよさか)神社&野田(のだ)神社 in 山口県山口市天花

2024年01月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市天花、七尾山(ななおやま)の麓に鎮座される「豊栄(とよさか)神社」。御祭神は『毛利元就公』

創祀「慶長5年(1600年)、長門国に移封された毛利輝元が、萩江向村の春日神社境内に祖父元就の霊(元就公)を祀ったのが前身。同12年に萩城の三の丸に遷座されたが、宝暦12年(1762)、長州藩主重就が萩城二の丸に鎮座していた土地神社を改造して春日神社から元就公を遷座し、毛利家の祖神とされる天穂日命と合祀して神性霊社と号す。明和7年(1770)、元就公を「仰徳大明神」と称し、神社名も仰徳社と称した。明治2年(1869)、元就には朝廷を崇敬する事跡があったことから、明治天皇は元就公に「豊栄」の神号を与え、山口市の多賀神社境内に仮殿を構えて仰徳社を移祠し豊榮神社と改称。明治4年、岩倉具視が勅使として差遣され、現在地に現社殿が造営されて遷座、明治6年に県社に列した後、明治15年(1882)に別格官幣社に列格。」Wikipediaより

「百万一心」の碑「百の字は特に一画を省いて一日とし、万の字は略字によって一力とし、一日一力一心とも解され「日を一にし力を一にし心を一にす」衆人協同の意であるとされる」現地案内より

「征清役戦死者招魂碑」

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山口市天花に鎮座される「野田(のだ)神社」。御祭神は『毛利敬親(よしちか)公』・『毛利元徳(もとのり)公』を配祀。

創始「明治6年(1873)、有志が謀って「敬親公」を祀る社を豊榮神社の境内に建て、神社名を諡号である「忠正」から取って忠正神社と称したのに創まる。翌7年、鎮座地名からとった現在の野田神社に改称して同9年に県社に列格、同19年に現在地に遷座し、大正4年(1915)に別格官幣社に列格した。元徳は死の2年後の明治31年(1898)、野田神社境内に摂社として芳宜園神社を創祀して毛利元徳公として祀られたが、昭和11年(1936)に本殿に合祀された。」Wikipediaより

石段先に幣殿

幣殿の隙間から見る「本殿」

石段参道の下、左右より神域を守護されるのは明治二十四年(1891)四月吉祥日建立の、少しメタボですがとても育ちの良さそうな狛犬さん一対。吽形さんの長くて大きな角と、まるでラッフル(襞襟)のような首周りの毛並みが結構「ツボ」に嵌ります。

豊栄神社石段下、右手にある「絵馬堂」

豊栄神社・野田神社の「社号標」と後方に「能楽堂」

参拝日:2015年11月11日

 

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古熊(ふるくま)神社 in 山口県山口市古熊

2024年01月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市古熊に鎮座される「古熊(ふるくま)神社」。御祭神は『菅原道真公』、道真公の23番目のお子様であられる『菅原福部童子』を配祀。古来より「山口の天神様」と呼び親しまれています。

由緒「今から620余年前(応安六年(1373))に、大内弘世(ひろよ)が京都の北野天神を勧請し、北野小路に祀っていたものを、元和四年(1618)に毛利秀就がこの地に遷宮した。祭神は菅原道真で福部童子を配神としている。本社殿は室町時代に建立したものをここに移築した。」現地案内より

石段の上、左右より神域を守護されるのは、文政六年(1823)十月吉日建立の扁平頭の狛犬さん一対。固く口を引き結ぶ吽形さん、垂れた耳がおかっぱ頭のように愛嬌のある阿形さん。御年190歳越とは思えない、良い表情をされています。

石段参道を登った先で私たちを出迎えてくれるのは、思わず見上げて感嘆の溜息をつきそうな美しい銅板葺の楼拝殿。

元々は江戸時代中期(1661~1672)頃に楼門として建築されたもので、後の時代に床を張り拝殿として活用。これを「楼拝造」と言い、山口地方の神社には多く見られる形式です。入母屋造・向拝付きで左右に翼廊。昭和24年(1949)2月に国宝に指定され、同年8月に改めて重要文化財に指定されました。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、1990年11月吉日建立のブロンズ製の狛犬さん一対。一般的にブロンズ製の狛犬さんは「怖い顔」が定番で、こんなにフレンドリーなのは珍しいかも。

拝殿の奥に鎮まられる入母屋造・檜皮葺の御本殿は、江戸時代前期(1618)の建立。大正6年(1917)に国宝に指定され、昭和25年(1950)8月、改めて重要文化財に指定されました。

御本殿の縁の内より神域を守護される随身様。何時の時代に造られたものか不明ですが、お顔立ちがあまりにも写実的で、私がそうしたように、見知った誰かの顔を探すのでは😊

拝殿向かって左手、お日様の柔らかな日差しを受けて寝そべる神牛さん。

奥に進むとかすかに感じる水の気配、幾つもの石橋は実際に人が通れるように配置されています。石橋の奥にわずかに見えるのは「三森神社」の鳥居。

木々の合間から差し込む光は穏やかで、そうして空の青を映しこんで染まる「放生池」

放生池の中、亀趺に護られるように建立された道真公の歌碑。

【海ならず たたへる水の底までに きよき心は月ぞてらさむ】

(月はどんなに深く湛えた水の底まで照らすけれど、海よりも深く一点の濁りもない私の心は月が照らし出し、天が照覧して下さるだろう)

背中を苔に覆われた古い神牛さん・・いつからここで余生を過ごされているのでしょうか。

放生池の右手、「三森神社」鳥居の前に芭蕉さんの句碑を見つけて、思わず(小さく)ガッツポーズ。

【鴻の巣に 嵐の外の 桜かな】

境内に引き返し、幣殿の後方、右手に「神楽殿」

神楽殿の前に、梅鉢紋の腹掛けを掛けたブロンズ製の御神馬。

そのまま右手を奥に進むと「金刀比羅神社」の鳥居。

鳥居の左右より神域を守護されるのは、コンクリート製の狛犬さん一対。材質の如何に関わらず、中々に魅力的な表情で、参拝者を出迎えてくれます。

双体道祖神かと思ったのですが、男神様は髭を蓄えておられ、何となく見知った道祖神様とは別のイメージ・・、場所的には狛犬さんたちが守護される一画に建立されていたのですが、仔細は不明。

最後は、大内文化まちづくりプロジェクト実行委員会によって設置された「山口十境詩碑」。大内弘世の治世、応安6年(1373)頃に山口に滞在した「明使:趙秩(ちょうちつ)」が10か所の景勝地を詠んだ漢詩「山口十境詩」を碑に刻み、ゆかりの地に整備。古熊の地は「猿林暁月(えんりんのぎょうげつ)」

曙色初分 天雨霜(しょしょくはじめてあきらかなり てんのしもをしてあめふらしむると)
凄々残月 伴琳琅(せいせいたるざんげつ 、りんろうをともなふ)
山人一去 無消息(さんじん一たびさって、しょうそくなし)
驚起 哀猿空腸断(きょうきすれば、あいえんむなしくはらわたをたつ)

参拝日:2015年11月11日

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山口県護国神社 in 山口県山口市

2024年01月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口市平野に鎮座される「山口県護国神社」

御祭神は『嘉永6年(1853)以降の国事・事変・戦争で、一身を国に捧げた山口県出身者52,128柱 の御霊。その90%は、満州事変・日華事変、大東亜戦争で戦没された兵士・兵員・軍属・従軍看護婦、国内軍需工場で爆撃の犠牲となった学徒動員生徒』公式HPより

由緒「昭和14年、護国神社制度が整備され、県内一円を崇敬者区域とする護国神社を創建することとなり、社殿の造営に着手、昭和16年8月に現社殿が竣工しました。」公式HPより

拝殿向かって右手に「権殿」。社殿を修理する時に一時的に御神体をお移しするための社で仮殿とも呼ばれます。

「拓魂碑」碑文 「我らは若き義勇軍 我らは若き義勇軍 祖国のためぞ鋤とりて 万里涯なき野に立たむ いま開拓の意気高し いま開拓の意気高し」

「国旗掲揚塔」

「あゝ 特攻」

「歩兵第42連隊史刊行記念碑」

「郷土部隊慰霊碑」

「永遠不滅」

参集殿の横に建立されていた「母と子の像」

「戦争裁判殉国烈士の碑」「~連合国は戦争の責任を問うという名のもとに、戦争史上にかつて例を見ない軍事裁判を強行。この為多くの人々が無実、または誤認のまま罪なき罪を負わされ、家郷を遥かな異国の地で、祖国日本の再建を信じ愛する肉親の幸せを念じながら刑場の露と消えられました。碑は本県出身三十三柱の御霊の永遠に鎮まる事を記念して~」戦争裁判殉国烈士之碑由来記より

大東亜戦争における東京裁判とは、日本人の持つ忠誠心に恐れをなした連合国軍の恐怖が作り上げた、近代稀に見るリンチ(私刑)であったと思います。

11月の空は青く、母の壊の如き白い雲はどこまでも柔らかく・・

拝殿柱に昭和天皇御製「国のため たふれし人の魂(たま)をしも つねなぐさめよ 明るく生きて」

2015年の参拝から二年後の2017年。同行した🐣jさん、たっての希望で二度目の参拝。画像織り交ぜての紹介です。

参拝日:2015年11月11日&2017年11月30日

 

コメント (2)
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