東京大学運動会ヨット部

東大ヨット部の現役部員によるブログです。練習の様子、レース結果、部員の主張から日記まで。

見かけの風をもっと前に。←意味深ですが何も意味はないです。かっこよさげだったのでそれにしました。最初に言っておきますが、ヨットは好きでしたよっと。あ、あと短いです。タイトル長いので許してください。

2024年11月23日 00時00分00秒 | 引退ブログ

平素より大変お世話になっております。成相悠喬です。

昨年度お世話になった方々に厚く御礼申し上げます。LBの皆さまには多大なるご寄付と現役の活動に対する深い理解を賜りました。コーチの皆さまには自分たちを長い目で見てくださったことに感謝しています。また、保護者の皆さまにおかれましても日々のご声援にとどまらず差し入れもたくさんいただきました。たくさんの方々のもとでヨットができていたことを実感しております。誠にありがとうございました。

たくさんの方々に支えられて活動できていたからこそ、結果で恩返しをしたかった。

しかし、結果は総合12位で目標の総合入賞に少しも届きませんでした。

学業も就活も交友関係にも誠実ではなかった大学生活でしたが、ヨットだけにはヨット部だけには誠実であったと思っていました。

主将として、また1レースメンバーとして何が間違っていたのか反省しています。

もっと誠実に愚直にヨットにヨット部に向き合っていればよかったと思います。

よい先輩、後輩、同期に支えていただいたのに、尊敬できる主将にはなれなかったです。申し訳ございません。特に、凡事徹底・コミュニケーション・チーム力を意識してチームを運営していたつもりでしたが、それもできたわけではなく、自分の不甲斐なさを感じています。

私のヨット部生活は終わってしまいましたが、ヨット部は続いていきます。バトンを繋いだ後輩たちがまた新たな東大ヨット部を作っていくことを祈念しております。


情熱

2024年11月20日 01時41分00秒 | 引退ブログ

お世話になっております。前スナイプチームリーダーの中静勇輝です。

 

先日江ノ島で開催された全日本インカレをもちまして、ヨット部を引退いたしました。

 

「ヨット競技はそんなに好きじゃなかったけど、みんながいたから頑張ってこれた」

下級生の時、このような言葉を残していく先輩方が例年多くいるのを見てきて自分もいつかヨットが嫌になるのかと不安でした。

確かに、上級生になってみて勝負の世界のシビアさ、チームを背負うことのプレッシャーは想像以上でした。

 

それでも、様々な人に支えられて最後までのびのび活動させてもらえて、ヨットを嫌いになることは一度もありませんでした。

間違いなくヨットは最高にワクワクする乗り物で、セーリングは自然と人を相手にする最高にアツいスポーツで、東大ヨット部はシンプルに最高なチームです。

むしろ愛がどんどん深まっていっていた中で引退となってしまい、ヨットしたい欲が抑えきれず困っています。

 

そんな、ただのヨット大好き人間の4年間を軽く振り返ります。

 

1年目。毎週末ヨットに乗ることが本当に楽しみだった。関東秋インカレで引退となってしまった先輩たちの姿を見て、インカレがどういうものか知った。

 

2年目。24時間365日ヨットのことを考えた。負けず嫌いなので、生意気にも本気でレギュラーを狙っていた。ブログや記事で知識を集めて実践することに無我夢中だった。理想とのギャップに苦しんだ。先輩クルーと乗っているにも関わらず、多分この時が一番こわくてわがままなスキッパーだった。大吾さん千田さんごめんなさい。琵琶湖インカレはコロナにかかってしまい京都駅のAPAホテルで唇を噛み締めながら観戦した。

 

3年目。この年も、24時間365日ヨットのことを考えた。たくさん機会を与えてもらって、少しずつ走れるようになってきた。「負けたくない」に「未経験者の可能性を示したい」というモチベーションが加わった。自分が上手くなることがチームのためになると信じて、ろくにチーム運営にも関わらずにがむしゃらにヨットに乗った。関東秋インカレでスナイプが準優勝、個人成績6位を取りまだまだ上がいるというのに天狗になってしまった。そして、小戸インカレで忘れられない大敗を喫した。

 

4年目。濃すぎる1年間で、ここで自分の人生における価値観もかなり変わった。最上級生、チームリーダーになり自分のことだけを考えてはいられなくなった。前回のブログに詳しく書いたように、紆余曲折あって「学生ヨット界のシーンを変える」というモチベーションに変わった。厨二病っぽい言葉だけど、大変な時この言葉に僕自身が何度も救われた。

全日本インカレを終え、結果はスナイプ9位、総合12位だった。新たなシーンを切り開くことはできなかった。

それでも、最終レースが終わりハーバーバックしている時、清々しい気持ちだった。重圧から解放されたのもあるかもしれないが、来年再来年で東大ヨット部がシーンを変える日が来ると確信したからである。1年前からの後輩たちの伸びと、全日本中にも成長する姿を見てそう思った。

 

これからはLBとして、非力ながら後輩たちの挑戦の応援とサポートをしたいと思います。

 

最後に、この4年間、特に最後の1年はスナイプのバウくらいには堅いはずだった僕の涙腺が何度も崩壊するくらいには、色々な場面で心を動かされる経験をしました。

部員のみんなと、熱くて楽しくて苦しくて充実した日々を過ごすことができて幸せでした。ありがとうございました。

 

 

 

謝辞

 

小松コーチ

4年間お世話になりました。1年生の時から、輝かしいご経歴を持ちながら僕にも謙虚に、真剣に向き合っていただきありがとうございました。小松さんに褒めていただけることが嬉しくて、ヨットがどんどん好きになりました。「昨日よりも今日。今日よりも明日上手くなる」「どれだけ細かいところに気を配れるか」「笑顔が足りないんじゃないのか」小松さんのお言葉に何度も救われました。シーマンとして、人として心から尊敬しています。また海に遊びに行きます。

 

宮川コーチ

宮川さんと出会えたことが去年一番の幸運でした。いつかおっしゃっていた「目標を達成する人を育てるじゃなく、目標を達成することを目指す事ができる人を育てる」の意味が、宮川さんを見ていてよくわかりました。チームの理想像がはっきりしているところ、なんやかんや優しくて学生思いなところにいつも助けられていました。話すたびに新しい気づきや学びがあって僕が一番宮川さんに成長させていただいたなと感じています。来年も東大ヨット部をぜひよろしくお願いします。

 

 

西尾コーチ

僕が悩んだ時、いつでも相談に乗ってくださり、本当にありがとうございました。チームのメンバーのことを、そして何より僕のことを1番よくわかっている先輩で、本当にアドバイスが的確でした。西尾さんには感謝してもしきれません。これからも末長くよろしくお願いします。今度スナイプ乗りましょう。

 

 

これまでお世話になった全ての先輩方

皆さんが築いてきた東大ヨット部という空間のおかげで、四年間弱という⻑い期間ヨット部の一員でいることができました。上級生になるにつれ「東大ヨット部」のつながりを実感しました。また、日頃のご支援や大会の日のご声援は本当に力になりました。ありがとうございました。

 

同期と後輩たち

ありがとうございました。個別にFullHike(仮)に書きます。

 

両親

たくさん心配かけてごめん。いつも気にかけてくれて、遠くまで応援にも駆けつけてくれてありがとう。どんなに大変でも、絶対に自分を応援してくれる2人の存在が心の支えになっていました。これから少しずつだけど沢山恩返ししていきます。

 

 

 

 

この四年間に関わってくださったすべての方々に感謝申し上げます。

 

 

 

 

東京大学運動会ヨット部 前スナイプチームリーダー

 

中静勇輝


引退した今、思うこと

2024年11月18日 00時10分00秒 | 引退ブログ
引退ブログ

後輩たちへ

自分は、総合入賞を達成するには4年という時間はあまりにも短いのだと最後のmtgで言いました。時間が足りなかったと言うと目標を達成できなかった言い訳みたいに聞こえるので、そういう言い方はあまりしたくありません。ただ、後輩には厳しい時間制限があるということを伝えたいです。

過去の自分の動画を見ていると、4年の最後になってようやく勝負の土台が見えた気がします。

2年生 まともに走れない
3年生 走れてるようで細かい所がいい加減
4年生 一応走れる、けど負ける

やはりヨットはレースに出て場数を踏まないと上達しませんが、まともに走れない状態でレースに出ても得られるものが少ないです。早くある程度のセーリングをできるようになって、その状態でレース経験を積んでヨット力をつけていくのが理想だと思います。

そして、4年間のヨット部生活において何がともあれ一番重要なのは、ヨット部が楽しかった、充実していたと思って終えられることだと思います。引退した時に心からそう思えるように、残りの現役生活を頑張ってほしいです。



振り返り

まず、自分は純粋にヨットが乗り物として面白かったです。だから、負け続きでもヨットを走らせる一瞬一場面においてうまくいけば、それが楽しかったです。

そして、ヨットはスポーツとして面白かったです。最後のインカレでも痛感しましたが、これほどに知力、体力、精神力を等しく問われるスポーツは他にありましょうか。競技としての面白さは群を抜いていると思います。

それに、海上、陸上でのスマートな立ち振る舞いや気遣いといった、シーマンとしての理想像を小松コーチから教わった気がしていて、それもヨットを好きになる理由の一つでした。


4年間を振り返ると、ヨット自体も新鮮でしたが、高校まで個人スポーツをやってきた自分にとって、団体スポーツとしてのヨットはとても刺激的でした。

高い目標をおいてそれに向かってただがむしゃらに頑張る。自分1人のスポーツならそれでもいいかもしれません。

しかし大学ヨットにおいてはただ自分1人が頑張ればいい訳ではありません。どうすれば集団として強くなれるのかを考えなければなりません。これは多くの人にとって高校の部活と違い、直面し得る新たな壁です。

チームの雰囲気は成績に直結するから、目標は現実味のあるものに設定して皆で共有すること。
ベストパフォーマンスが出せる配艇を組むこと。
限られた範囲の中で予算を組むこと。
合宿生活における規律や制度を作ること。

全てが新鮮でしたし、どれもはっきりとした正解が見える訳ではありませんでした。だから最低限、皆が意見を出し合って、納得する形で決定をし、後で結果を受けてフィードバック、修正するというのが良いやり方なのではないか、と誰かから聞いて確かにそうだと思いました。

この辺は自分の人生において大きい学びとなりました。



自分はなぜヨット部で活動を続けられたのか

ヨット部で活動していくには膨大な時間とお金、労力を犠牲にしなければなりません。それはヨット部に入った時の想像をはるかに超えるものでした。

入部した当初は、ヨットの目新しさ、自然の爽快さに惹かれ、新しいコミュニティを求めていただけなので、そんな大きなものを犠牲にする覚悟なんてもちろんありませんでした。
無論、全日本インカレで総合入賞したくてヨット部に入った訳ではありません。

でも徐々にヨットを知り、レースで好成績を収めるためにヨットと真摯に向き合うようになりました。気づけばみんなそうなっていきます。

自分がヨット部を続けられたのは、周りの部員の真剣な思いがあったからに違いありません。

ヨット部は、動機として明確なものは持っていませんが、何か内にあるエネルギーみたいなものを消化せずにはいられない者たちの集まりなのです。一人一人、己の炎を盛んに燃やしています。それらはお互いに刺激しあっています。

自分もその一員として、大学4年間をひたすらエネルギーを消費して終えることができましたし、ヨット部は4年間を捧げる価値のある部活だったと改めて思います。



お金の話

入部する時は全く知りませんでしたが、ヨット部は少なくとも年間50万くらいはかかります。ほぼ学費と同じ。なんでそんな金がかかるのかと思いましたが、素人の自分が200万以上するものを操って競争していると考えれば何も不思議ではありません。不思議ではないですが、そんなの学生がやるスポーツとしてふさわしいだろうかと考えた時もありました。というか今でも思っています。

しかし、東大ヨット部の予算が私立強豪校と比べて圧倒的に少ないというのが現実で、それを嘆いていてもどうにもならないので、資金の調達もヨットというスポーツの一部だと考える他なさそうです。

自分は一時期、仕送りとバイト代だけでは首が回らなくなって巨額の部費を滞納していました。もうどうしようもなくなって親に電話したところ、「馬鹿野郎、ヨットやめろ」と一蹴されました。懇願して何とか払ってもらいましたが、親には多大な心配をかけてしまいました。早めに相談するべきでした。

東大生のコミュニティ、ヨットのコミュニティでは裕福な人が多いですが、世の中には自分で学費も生活費も稼がないといけない苦学生が沢山います。そんな人たちからすればヨットなんて夢のような贅沢でしょう。

この時なお一層、自分は贅沢なことをしているという自覚を持ち、ヨットに励むことができました。



辛い時期の話

周りからどういう風に見えていたか分かりませんが、最後の1年間は結果が出ず、ずっと悔しさを感じていました。

なかなか走ることが出来ない時、同期に勝てない時、同期どころか後輩にも負けてしまう時、スランプはヨット部において辛い時期です。劣等感を抱えて心が折れそうになった時、どういうマインドでいるべきでしょうか。

気を長く、視座を高くが自分なりの対処の仕方でした。2回、3回、4回ダメだったとしても根気強くいろいろな方法を試して芽を出せる機会を伺う。逆に、何回か上手くいったとしてもそれが本当に実力なのか懐疑深く考える。そして、同期が頭ひとつ抜けていたとしても、トップ選手と比べたらドングリの背比べでしかない、と余裕の心構えを持つ。

これらのことは自分の性格的に得意だったので、ヨットがうまくいかない時も楽しさを忘れずに続けることができました。

このマインドは自分なりのものだと思っていたら、そう言えばどちらも小松コーチがおっしゃっていたことでした。本当に、小松さんから学んだことは多いです。



学業との両立の話

部活動をしている学生は全員、両立が大きな課題だと思います。

4年間を振り返ってみると、学年が上がるにつれて部内でのプレッシャーも増えるし、必要な勉強の量も増えて大変になっていきました。体力的より精神的な負担が大きく、勉強中にヨットのことを考えてしまうなど頭の切り替えが大変でした。

きちんと両立できていたかというと全くそうではなく、どちらも妥協してしまったところはありました。

そもそも自分は完璧に何でもこなそうとするタイプではなくて、重要でないところをバサバサと切っていくタイプなので何とかなったのかもしれません。勉強と部活のどちらも上を目指そうと思ったら死ぬほど大変ですが、自分の場合、勉強は最低限で、残りのリソースを部活に注ぐ感じでやっていたので、一応乗り越えられました。

高校でも大学でも一応両立をやってみて思ったことは、いい意味でも悪い意味でも逃げ道があるということです。

どちらかが上手くいかなかった時、もう片方があれば、心は完全に折られなくて済みます。自己肯定感を保つのに役立つということです。

一方、部活が忙しいから勉強はやらなくていいなどと言い訳に使ってしまい、どちらも中途半端になるのは悪い面ですね。どちらもやると決めたのは自分自身なので、言い訳をしないように気を付けていたつもりではありますが。

どちらかがなくなればどれほど楽だろうかと思ったことは何回もありますが、実はどちらかだけをひたすら続ける方が大変なのではないでしょうか。両立が大変だと思うかどうかは捉え方次第だと思いました。



感謝

最後に、一緒にヨットに乗り苦楽を共にしてくれた同期、後輩の皆さん、ヨットを教えてくださった先輩方、温かいサポートをしてくれたマネージャーの方々、皆さんのおかげで大学4年間をこんなにも充実したものにすることができました。一生の思い出をありがとうございました。

そして、ヨット部でお世話になりましたコーチ、監督、LB、保護者等、全ての方々に感謝申し上げます。コーチの方々にはヨットの技術のみならず精神面、人間性の部分も学ばせていただきました。監督、LBの方々のご支援、特にLBSCHの恩恵は非常に大きかったです。ありがとうございました。

ヨットはスポーツの中でも特に多くのサポートを必要とする競技です。非力ですが自分もここからLBの1人として後輩たちの活動を支援していきたいと考えています。


澤田健太

リレーは続く、どこまでも。

2024年11月15日 00時00分00秒 | 引退ブログ

先日の全日本インカレをもちまして引退となりました、スナイプクルーの神田陸人です。

 

LBの皆さま、監督、コーチ、家族、保護者の皆さま、そして、同期、後輩たち… たくさんの方々との日々の関わりの積み重ねのおかげで、無事に4年間のヨット部での活動を終えることができました。本当にありがとうございました。

 

東大ヨット部という部活動の中でヨットに乗らせてもらい、試合に出させてもらうということ、それは自分にとって、このようなたくさんの人々の思いを背負って戦うということでした。だから、負けていいレースなんてないし、達成しなくていい目標なんてないと思っていたし、最後の1年間はヨットが楽しいということよりもみんなの期待に応えることが自分の原動力になっていたのかもしれません。

 

そのような中迎えた全日本インカレは、470級17位、スナイプ級9位、総合12位と目標としていた総合入賞には遠く及ばない不甲斐ない結果でした。

レースが終わり、これまで支えてくれたみんなに申し訳ない気持ちと、自分は4年間で何を残せたのか、その答えを模索する自分がいました。

それでも、最後の円陣ミーティングの後、たくさんの後輩たちが駆け寄ってきて涙ながらに直接かけてくれた温かい言葉やアルバムの一人一人のメッセージの数々に本当に励まされ、自分がやってきたことは間違いじゃなかったと初めて4年間が報われた気がしました。

成績ももちろん大切だけど、部活として後輩たちに想いを託すことができ、この先もずっと続いていくチームだからこそ、これまでの日常の中で残すことができるものがある、そんなことを気づかせてくれて4年間に意味を与えてくれたみんなには本当に感謝しています。

普段から合宿をして、先輩後輩関わらず仲の良い東大ヨット部だからこそ、大会のような特別な時間だけでなく、何気ない日常にも花があり、ヨット部で過ごした全てがかけがえのない時間でした。

かなり長くなりますが、そんな4年間を振り返らせていただきます。

 

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2021年4月。

受験期もずっと筋トレを続けていたので、大学に入学してからも体を動かしたいと色々な部活の新歓に行っていました。高校の時にやっていたボート部の新歓は3月から行っていたし、レスリングとかまでも参加していました。それはそれで楽しかったけど、4年間を捧げる決断はなかなかできずにいました。

そんな中、4月の後半に出会ったのがヨット部でした。ヨットに乗れるのは一生に一度だという単純な興味で参加した試乗会。酔いやすかった自分にはヨットに乗ることはあまり楽しめなかったけど、どこまでも広がる葉山の海、そこで迎えてくれた海の似合うかっこいい先輩方、そして、なにより部のあたたかすぎる雰囲気に圧倒されました。家に帰ってから色々考えて、本気で4年間をヨット部で過ごしたいと思えました。ピンと来たら迷わず突き進むタイプなので、そこから入部まではスムーズだったと思います。

これが僕のヨット部人生の始まりです。

 

最初に同期が揃ったのは春インカレでした。まだ春インカレがどんな大会かもよく分かっていませんでしたが、新港のみん部屋でたまやをやりつつ、合間にはみんなで自己紹介とかをしていました。たまやの改造が少しずつ始まったのもこの時だったかな…

 

そして、いよいよ始まった練習。

八景島でホッパー練、たまに小網代でクルーザーにも乗りました。

この頃はなんといっても船酔いとの戦いでした。人一倍酔いやすかったので、ヨットでもレスキューでもすぐ酔って、その顔をみんなに笑われ、ハーバーバックを繰り返す日々でした。

特にクルーザーは、毎回10分くらい乗っただけでギブアップになってしまい先輩方には大変ご迷惑をおかけしました。

 

そんなこんなでクルーザー班からは声がかからなかった僕はディンギー班でスナイプクルーとなるわけです。

スナイプを選んだ理由は、ブームが高かったからです。スキッパーとクルーはそんなに深く考えていませんでしたが、ずっとみんなにスナイプクルーの体型だと言われていたり、新歓の時の担当が当時主将でエーススナイプクルーだった長岡さんだったりとそうなる運命だったのかもしれません。

 

初めての夏合宿。

といっても、まだこの頃はコロナが流行しており、合宿所には泊まることができませんでした。

一年生はシフト制だったので、週2~3日行って、ホッパーに乗ったり、スナイプに乗ったりしていました。

八景島から埼玉の家まで夜遅くに帰ってきて、また次の日の朝早くに家を出る、今考えたらハードすぎる日々です。

この時はコロナ禍でホテルが1泊3000円とかだったので、たまに近くのホテルに泊まることもありました。

それでも、毎日新しいことを吸収しながら、だんだんとヨットが上達していく日々は単純に楽しかったし、八景島の夜まで陸シミができる環境はクルーワーク上達にはとても役立ちました。

 

合宿半ばには、今は無き八景島→葉山の引っ越しがありました。

引っ越しは何回か経験しましたが、八景島シーパラダイスの中を洗濯機とか鍋を乗っけた台車とともに歩いたり、クラブハウスの土地の大量の草をむしったり、お菓子をたくさん食べながら城ヶ島を通って葉山までレスキューを回航したり…ヨット部に入っていなかったら経験できない思い出もたくさんできました。

そして、だいたい引っ越しの時には居眠りクラッシュとか蜂の巣詐欺とか(どっちも同じ人!?)いろんなハプニングが起きてバタバタしていたのも懐かしいです。

引っ越しは丸々2日間かかってその間練習ができなかったので、クラブハウスができて葉山でずっと練習ができることがどれだけ幸せか、改めて実感します。

 

葉山に移動したら、基本はレスキューでのサポートでした。

 

そして、あっという間に秋インカレ。

スナイプチームは苦しい展開が続き、4年生は引退してしまいました。

1年生の自分達が入り込める空気でもなく、先輩方の悔しい思いを横目で見ながら、インカレという舞台の大きさを初めて肌で感じました。

 

470チームは全日本に進んだので、最後の2日間は蒲郡に応援に行きました。

でも、行った2日間とも風が吹かずノーレース。

陸上で出艇と着艇を見守るくらいしかできませんでしたが、全国からたくさんの大学のたくさんの艇が集まり、あのインカレにしかない空気感を生で味わえたのは良い刺激だったし、そんな中出艇していく先輩方は単純にかっこよく、自分も将来この舞台で戦いたい、そんな憧れを抱きました。

 

 

代替わり後はとにかく動作練習をしていました。

八景島で午前中は丸々タックとジャイブ練習。自分は落水にビビって慎重派だったので、なかなか強風の飛びタックとかはできなかったけど、先輩たちは何回も丁寧に基礎練習に付き合ってくれました。

 

この頃は結構大吾さんと乗る機会が多かったです。

2個学年が離れたペアでしたが、なんかたまに小さな言い合いとかしつつも、走る時は走って個人的には結構いいペアだったと思います。

ところが、大吾さんがサポートに回るということで解散になりました…

 

年が明けて春合宿。

気づけば同期は5人くらい減っていました。そして、この代のスナイプクルーは自分一人に。

負けず嫌いな僕にとって、ライバルの存在は良い刺激でした。それがいなくなってしまい、自分との戦い。なかなか成長を感じることができず、苦しいことも多かったです。それでも、スナイプクルー不足だったので、1年生の中で自分だけ週5日、6日の合宿にフル参加、レスキューに乗る機会もなかったので、悩んでいる暇もなくとにかく海に出て練習をしていました。今考えるとこの時期にたくさん海に出させてもらえたのは幸せだったし、確実にスナイプクルーとしての土台を築くことができました。でもやっぱり、1日早く帰る同期を見送って、自分だけ寒い中もう1日練習があると考えるのはしんどかったなぁ笑。

 

春合宿の後半からはペアが固定になり、ほとんど千田さんと一緒に乗っていました。

この頃は今振り返ると結構反省していて、お互い自分のことに精一杯で、2人で上手くなる、艇を走らせるということにあまり向き合えていなかった気がします。

上3艇がどんどん成長していく中、自分達はそれについていけずどんどん離されていく感じがしました。それに、他のペアは4年生が就活などで抜けて配艇が変わっていることも多い中、僕と千田さんは全く休むことがなかったので、常に固定。課題は解決されないまま新しい課題が積み重なる日々でした。

迷惑をかけてばかりでも文句ひとつ言わずに未熟な僕と一緒に乗り続けてくれた千田さんには本当に感謝しているし、毎日違ったお菓子を持ち寄って気持ちの切り替えに食べたり、いろんな話で盛り上がったり、苦しい中に楽しいこともたくさんありました。

 

春合宿も終わり、新歓がスタート。

テント列に行き、試乗会をして、その合間を縫って練習をしていました。

 

そして、六大戦。

この日は僕は新歓をする予定でしたが、Qちゃんが体調不良になって、前日に大野さんから電話が入りました。

明日出ることになりそうだから覚悟しておけ、みたいな内容だったと思います。

結局1日目のレースに出ることになり、大野さんと初めてのレースです。

なんやかんやそこそこ前は走っていたと思います。あとはみんな知っている通りです…

この時は自分が弱かったと反省しています。自分と大野さんが思っていたより事は大きくなり、たくさんの皆さんに迷惑をかけてしまいました。

真摯に向き合ってくださった当時の4年生はじめ、大野さんごめんなさい。

ただ、それまで存在すら知らなかったバーバーホーラー(もう今は東大にはないです…)の使い方が分からず爆発したのだけはまだ納得いってません笑。

 

そんなこんなで迎えた春インカレ。スナイプチームは予選からの参加です。

3番艇スキッパーの不在により、千田さんと出場することになりました。

予選はまずまずの結果で、そのまま決勝1日目も出場することに。

初めて東大のビブスを着て臨む公式戦、かなり緊張しました。

セールのシバーする音が響き渡るD旗掲揚までの時間は本当に落ち着かなかったですが、同期がずっとそばにいてくれて、先輩方も優しい言葉をかけてくれました。

3レースやってどれも20~30番台。関東インカレとはいえ、まだまだ高い壁でした。

そんな状況を見て、次の日の朝大野さんが颯爽とやってきて復活しました。

悔しい思いを託し、2日目はサポートに回りましたが、みんな最終的には得点をまとめてくれて助かりました。

春インでレースに出ないと分からなかったこともたくさんあったし、2年生のうちから海でレースの緊張感を味わうことができたのは本当に恵まれていました。

 

春インが終わるとフリートや関個があり、あっという間に時間が過ぎていきました。

 

初めて後輩を持ち、八景島での新入生練習を見にいくこともありました。

僕が新入生練習に行った時は、レスキューが僕一人と1年生、そこには新しく入ったマネージャーも何人か乗っていました。

そんな中で激しい雷雨に。近くで雷が落ちまくり、風が入ってきて、雨で視界が悪くなる…レスキューの1年生には大丈夫とか言いつつも、これまで経験したことのない状況に内心はかなり焦っていました。いろいろ騒ぎながらホッパーを曳航して無事に着艇。

 

2年生入部したひろなりがスナイプクルーになり、そして新入生も加わりスナイプチームも賑やかになりました。

そして、中静とかいまぽとかの同期スキッパーと乗る機会もたまにありました。

 

いまぽと乗った回数はあまり多くなかったけど、コース練で一上をいい順位で回った記憶があります。

この頃でもレースになると熱くなっちゃう僕はその日もいろいろうるさくていまぽと配艇NGになりかけました…

でも同期と試行錯誤しながら一緒にヨットに乗れるのは楽しかったです。ありがとう。

 

初めての七大戦。

東北大学の主管だったので、仙台に行きました。

海には出られなかったけど、陸でいろんな交流ができました。

 

七大戦の後はしばらくのオフを挟み、今は当たり前となったマネ感とファミリーデーのイベントがありました。

この時、ファミリーデーはコロナ明け久しぶりの開催で、部員が誰も経験したことがなく一から作り上げる必要がありました。

なぜか2年生が主導することになり、僕と成相、中静、友成で必死に考えたのを覚えています。

八景島での開催でしたが、たくさんの家族が実際に足を運んでくれて、改めて家族のサポートを実感しました。

そして、ここで築いたファミリーデーが年々受け継がれ、たくさんの人が参加してくれる恒例行事となったのも嬉しい限りです。

 

2年目の夏合宿。

最初は育成期間ということで、西尾さんとか普段あまり乗ってこなかった人と乗らせてもらいました。

でも、山中寮事件により、その機会も一瞬にして奪われることになります。

 

山中寮事件については、くだらな過ぎてあまり真相を話してきませんでしたが戒めとしてこのブログに残すことにします。

 

ヨット部員は毎年1年生が東大の山中寮のスタッフとして派遣されます。

コロナ禍で前年の派遣がなかったので、2年生の僕たちもこの年に順番に行くことになりました。

山中寮には手漕ぎのボートやヨットがあり、山中湖で遊ぶことができます。

そこで、高校時代ボート部だった僕は調子に乗り、その場に一緒にいたゆうた、市毛、五熊に手漕ぎボートでの勝負を挑みます。

一人ずつボートに乗って、スタートからゴールまでのタイムを競うタイムアタック形式。

絶対に負けられない戦いだったので、自分は立ち漕ぎで思いっきり漕いでスタートをしました。

ところが、スタートをして割と早い段階でコケて、手を変な風についたのか右手中指に違和感を抱え、ゴールすることなく途中棄権となりました。

その時は捻挫したくらいに思っていたのですが、次の日の朝に痛みが増していたので、部屋の掃除の仕事をサボって、自転車で50分くらいのところにある病院に行きました。結果、剥離骨折。早くて全治1ヶ月くらいと言われ、右手の中指はガチガチに固定されてしまいました。

 

当時は金髪で、右手の中指が包帯ぐるぐるで固定されている様子はかなり異様だったので、会うたびにみんなにどうしたのか聞かれましたが、こんなことを言えるはずがないので、部活で怪我をしたということにしていました。本当にバカでした。ごめんなさい。

 

そこからは、基本的にレスキューで練習のサポートをしていました。

サポートに回った大吾さんと一緒に乗っていましたが、ここでも小さな言い合いをしていた気がします。

マークの打ち方とか、どっちが運転をするかとか…笑。でもやっぱりなんやかんやいいペアでした。

 

ヨットに乗ることなく夏合宿が終わり、秋イン。レースには出られなかったけど久しぶりの両クラス全日本が決まり、一安心しました。この時は記念パンフレットの作成を依頼され、レースメンバーの紹介とかが載ったパンフとクリアファイルを作りました。この経験は後のこだわり詰まった新歓パンフレットにだいぶ生きました。

 

怪我もほぼ治ってようやくヨットに乗れるようになり、すぐに迎えた全日本インカレ。大会の1週間前くらいから前入りしました。

基本レスキューでサポート。プレレースのフリートには1レースだけ出た気がします。これが初めての他水域でのセーリングでした。

 

全日本インカレはレースに出ることなく終了。ただ、みんなが前を走る姿をレスキューの上で見させていただきました。スナイプは5位入賞。シンプルにかっこよかったです。

 

 

4年生が引退され、代替わり。

1週間後には琵琶湖に再び戻って、スナイプチームはミックスジュニアに出ました。

3日間あってまさかの1レース。その1レースもかなりの微風の中、大野さんと久しぶりに乗りました。

レースはほとんどできなかったけど、みんなでエアビに泊まって楽しい思い出です。

 

その後は八景島で練習。

この期間から天野と遠藤と乗ることが多かったような気がします。

天野と出た懐かしの八景レースもこのとき。レイラインでもずっとマークを見るな、テルテールを見ろって言っていた気がします笑。そのおかげか10番くらいでフィニッシュできました。

その次の日かなんかには北風爆風で天野と10回近く沈しながら帰ってきました。4年間で海がいちばん怖かったのはこの時かもしれません。

 

春合宿になり、ペア固定が始まったら中静とひたすら乗っていました。

この時は中静は常に戦友という感じで、いい意味でお互い干渉しすぎず、2人で探り探りながらものびのび成長させてもらいました。

 

京大留学にも一緒に行きました。

終わったあと1日大阪に延泊してお花見しながら昼飲みをしていたのはここだけの話。

 

そして、新歓、春インが終わり関個。

この時の関個はかなりの思いがありました。代の始まりの大野さんとの面談でも中静と同期未経験ペアで全個に行くと話していた気がします。4年生同士になったら一緒に乗れないというのはある程度分かっていたし、3年のこの時がラストチャンスのつもりで挑みました。

2日目のレースは正直微妙でした。

自分たちは全個にいけないと思っていたので、もう1レースなんとかやって挽回したいと思っていましたが、始まったレースはノーレースに。

2人で落ち込んでいました。

ところが、バーバーバックをしているとレスキューが近寄ってきてニヤニヤしながら全個に行けるといわれ、2人で喜びました。もっと早く言ってくれれば…

 

7月には東大主管の七大学戦がありました。僕と中静はレースに出ることなく、東大と京大スナイプの優勝争いを観戦していました。最終的には見事に勝利しましたが、同じレスキューに京大がいたせいであまり喜べませんでした。

 

ファミリーデー、マネ感が終わり、3度目の夏合宿。

ここでも基本中静と乗っていました。

 

途中に新クラブハウスへの引越しとかもしつつ、あっという間に全個へ。

3艇で行けたので、みんないて賑やかで楽しかったです。

そして何より、最終的には色々あって3位にはなったものの、中静と1上2上1位という最高の景色を見れたことは鮮明に記憶に残っています。

 

その後はとにかく練習の記憶しかないけど、秋インカレでスナイプは準優勝。

燃えました。ただ、両クラスで全日本に行けなかった。総合で戦うことの難しさを実感しました。

 

全日本インカレは福岡の小戸。

11月とは思えないほどとにかく暑く、風がありませんでした。

3艇ともなかなかスタートが出れず、パッとしない展開が続き、最終的に14位。

もっともっといい結果で4年生を送り出したかった、それに尽きます。

全日本に向けて1年間挑んできてもこんなにあっけなく終わってしまうものなんだ、当たり前だけどそんな現実を突きつけられた気がします。でもここでの悔しさは今年秋インが終わり全日本を迎えるにあたって、確実に意味のあるものになりました。

 

 

前半飛ばしすぎたのか、段々と内容が薄くなってきてしまったような気もします…

ここから最後の1年間。気合い入れていきます。

 

 

代替わり後は例のごとくミーティングが続く日々。話せば話すほど、考えれば考えるほど方向が定まらなくなり、やっぱり4年生は大変でした。

そして、技術的にもスナイプは中静以外のスキッパーがレースにほとんど出たことがないのはもちろん、まともにセーリングができない状態。とにかくボトムアップが必要でした。

 

そんな状況で、もちろん中静神田は解散し、それぞれ別々に下級生と乗り続ける日々が始まりました。

 

4年生クルーとして後輩スキッパーと乗って練習すること、自分の想像していたほど簡単なことではありませんでした。

思うように艇が走らず、コース練でも後ろばかり走る日々。悔しさと4年生としてなんとしても走らせなければいけないというプレッシャーを強く感じる時もありました。

 

ヨットに乗ったらとにかく自分の感じていること、気づいたこと、船のパワー感、セールシェイプ、風…どんなことでも常にスキッパーに伝え続けることを意識していました。なかなか前を走れない焦りととにかくスキッパーに上手くなってもらいたい、その強い思いから細かいことを言いすぎて頭をパンクさせてしまったり、厳しいことを言いすぎてしまったりすることもありました。

その度に小松さんの「何度でも優しく丁寧に」という言葉が胸を突き刺さり、反省。

当たり前だけど、4年間で怒って船が早くなることはありませんでした。

 

課題が多ければ多いほど時間が経つのはあっという間で、春合宿も一番短く感じました。

 

春合宿の間には葉山で東北大戦がありました。

北風のそこそこ強い風で天野と出場。

良いところを走っていると思ったら最後の下マーク前で沈をしたり、上マーク回航後のベアで沈をしたり…

それまで少しずつ練習で実力がついてきたと思っていましたが、まだまだだと現実を突きつけられました。

 

その後も天野と練習を続け、春合宿があっという間に終わると、最後の新歓に。

でも、部員が増えたおかげでありがたいことに裏でほとんど練習をさせてもらいました。

下級生が積極的に新歓を進めてくれて、たくさんの部員を入部させてくれると同時に、自分たちは春の一番大事な時期を練習に集中できる、こんな恵まれた環境を作ってくれたみんなには本当に感謝しています。

でもたまに新歓に行くと、新入生の初めてヨットに乗った表情を見て、ヨットを楽しむということを忘れていた自分に気づき、何か大切なことを少し取り戻せたような気がして…それはそれでいい刺激でした。

 

迎えた春インカレ。

2日間とも爆風予報でした。

あの東北大戦が蘇り、天野とのスターティングは正直不安でした。

でも、1日目海に出てみると思っていたよりも風がなく、これならいけると思いました。

走りは天野に任せ、自分は天野の走りやすいコース展開を意識。

そして、いまスピードいいよーと褒める時は褒めて伸ばす笑。

1レース目は10位でした。そのまま天野と2レース目も出て12位。3番艇としては十分すぎる結果でした。

 

ここで宮川さん采配により、天野は一旦休憩で遠藤と乗ることに。

風が少し上がっていたので、体重が重くなり安心感がありました。

1上は15番くらいだったけど、レイラインで慶應2艇に挟まれ、プロテストされました。

2回転して、フィニッシュは30番くらい。レースで前を走ることは絶対スキッパー1人1人の今後にとって重要な経験になると思っていたし、ケースで順位を落としてしまって遠藤を走らせられなかったことに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

3レース目が終わるころにはかなり風も吹き上がっていて、これはもう一度遠藤とリベンジするチャンスだと思っていたところ、まさかの天野と交代。

心の中では、おーまじかと思っていました。でも、もうレースはすぐ始まるのでやるしかない。

 

スタートしてみれば、天野はメイントリムを頑張ってくれて、自分はハイクアウトとコースに集中して、意外とスピードも悪くない。

強風の中でも、いつも通り、そして何より2人で楽しくヨットレースができました。

ランニングではとにかく沈をしないように、めちゃくちゃ後ろに乗っていました。最後のリーチングでもラフコースで1艇抜いて、結果は13位。

今までだったら沈ばかりでまともに走れていなかったであろうコンディションでしっかりと走れたこと、天野にとっても自分にとっても大きな自信になりました。

出艇の時には地獄のような顔をしていた天野もハーバーバックの時には緊張から解放されたのか、すごく嬉しそうに喜んでくれて僕も嬉しかったです。

 

レース2日目は遠藤と組むことに。

少々攻めのスターティングだったと思うし、今後のチームのためにも遠藤を走らせてほしいという雰囲気をコーチ陣からも感じていました。

そして何より落ち込んでいた遠藤のためにも必ず走らせないといけない、そんな使命感でレースに挑みました。

 

重量級の僕らにはありがたいことになかなかの強風の中、フィニッシュ8位。それまで関東の舞台でシングルすらほとんど取ったことがなかったのに、この春インで遠藤と8位でフィニッシュ出来たのは本当に嬉しかったです。

次のレースはさらに風が上がり、スナイプは限界の風。クローズではみんなメインシバーしているし、ランニングでは前の船がどんどん沈をしていなくなる…自分たちはとにかく安全に落ち着いてレースをして、19位でフィニッシュでした。

 

2日間強風の中6レース、スナイプチームで自分だけフル出場しました。正直しんどくてレスキューが来る度にやっと交代かと思っていましたが、変わるのはスキッパーだけでした。それでも、そのしんどさが報われるくらいみんなが頑張ってくれました。天野と遠藤は初めての大舞台での緊張、4年生を乗せるプレッシャー…いろんな思いがあったと思うけど全力を出し切ってくれて本当にありがとう。

ゼロからみんなで積上げてきたからこそ、6位入賞は大きな宝物です。

 

春インが終わると個人戦。

最後の全個を目指して、ここでも天野と組むことに。

ビッグフリートでの戦い方は難しかった。

スタートで埋もれてしまいなかなか前に出てこられない苦しい展開が続き、真ん中の同じような順位を取り続けて、ボーダーには遠く届かず終わりました。

天野と2人で江ノ島からの帰り道いろんな話をしました。自分としてはこの時の2人の実力は出し切ったと思います。単純に全個はまだまだ遠かった。だから、そんな責任を背負わないで、来年この悔しさを爆発させてね。

 

そして、蒲郡での七大学戦。

ここでも天野と出ましたが、インカレとはまた違ったタクティクス重視の戦いに翻弄され、チーム全体的にそんなはずじゃない苦しい展開に。スナイプチームは最下位の7位になることもあり、1レグだけで1位から7位がごちゃ混ぜになるような稀に見る接戦。

そんな中2日目は陸上でのサポートでスタート。ハイエースの中で応援していたところ急に電話がかかってきて、突如レースに出る流れになりました。

どっかに遊びに行きそうになっていた天野を引き戻して海に出てレースに参加。

470チームの安定感におんぶ抱っこでしたがとにかく迷惑をかけないようストラテジーを大切に1艇ずつ着実に上げることを意識しました。

結果、長年達成出来ていなかった総合優勝。本当に470のみんなに救われました。同時に、総合で戦うことの素晴らしさ、喜びを心から感じることができました。1年生の時の全日本で早稲田が優勝した時に写真を撮っていた覇者の階段でみんなで写真が撮れたのもいい思い出。

 

最後のマネ感、ファミリーデー、そして、今年は初めての応援部試乗会がありました。

前日に相川と土壇場で準備した結果、良問の並ぶクイズ大会が完成し盛り上がりました。

遠藤とはレスキューに乗って、ひたすらジャングルクルーズごっこをしていました。

応援部のみんなに感謝を伝えることができ、楽しんでもらえた様子だったので良かったです。

 

夏合宿も天野、遠藤を中心にひたすら後輩たちと練習していました。

そして、枠が降りてきた全日本スナイプに天野神田、はんとひろなりの4人で出場するために、鳥取遠征にも行きました。

風が安定せず、風待ちの時間が多く、天野とDuetというゲームでずっと小競り合いをしていました。

レース自体は風の振れの大きく、ブロー差も激しい非常に難しい海面で、走りもコースもなかなかうまくいかず、あまり冴えない結果となりました。

天野と久しぶりのレースで、レース海面からハーバーまで結構長い時間あったので、言いたいことが溢れていた気がします。

シンプルに楽しもうと思っていたんだけど、やっぱり熱が入っちゃいました…

 

葉山に戻って、再び練習。

ここで山中寮事件以来の事件が勃発しました。

 

天野とのコース練で、下マークを回った直後ハイクアウトをしようとしたところ、ベルトに足がかかっておらず、落水。

その時にふくらはぎを打って違和感を覚えました。

小松さんと早稲田の人たちが目の前で見ていたので恥ずかしかったですが、レース中だったのでとりあえずすぐ乗って再開。

 

ハイクアウトしていても片足がおかしい感じがしたので、帰って病院に行ったら肉離れでした。

またしょうもない怪我をしました。ごめんなさい。

そういうことで、2週間弱レスキューで練習を見て、秋インには余裕を持って復帰できました。

 

秋六大は遠藤と出ました。

上レグで戦えても下レグで落としていき、なかなかスタートから前に出ていけない展開で想像していたよりも難しいレースとなりました。

秋インまでわずかで少しの不安も残りましたが、予選裏の限られた時間で課題を一つずつ潰すしかありませんでした。

 

迎えた秋インカレ。

1レース目はレスキューでスタート。

久しぶりのレスキューでの出艇だったので、レースを外から見るのは楽しく、あまり緊張しませんでした。

スナイプチームは1レース目からだいぶ苦しいレースとなってしまい、2レース目から出ることになりました。そして、まさかのはんととでした。

これまでほとんど一緒に乗ったことが無くて、あまり想定してなかったですが、2人でコースプランとかをたくさん話しながら乗りました。

2レース目14位、3レース目8位。まずまずの結果でした。

 

迎えた2日目。

いろいろあって配艇がゴタゴタ変わった末、結局天野神田でスターティング。

あまりレースの内容は覚えていないけど、4レース目を26位でフィニッシュ。もう少し前に行きたかった、いや、天野とならいけたはず。

多少の悔しさは残りつつも、天野はこの後三上と同期ペアで走ってくれたので良かったです。

5レース目はようやく正規ペアの遠藤と。

遠藤の初めての秋インカレのレースをなんとしてでも走らせる必要がありました。でも、変なことを考えずいつも通りに、走りは遠藤に任せて自分のやるべきことに集中します。

1上2位、2上でも確実に2位をキープし、フィニッシュ3位。すごく嬉しかった。六大での悔しさも晴らすことができました。

6レース目も遠藤と出て、14位。十分に役割を全うしてくれました。

 

この日の審問で、エントリーミスにより1日目の市毛の2レース分がDSQに。

いろいろ思うところはあったけど、とりあえず最終日のレースで取り返すしかない。

しかも、最終日はその市毛と乗ることになったので、夜市毛に喝を入れて、気持ちを落ち着かせて就寝しました。

 

思えば春インでも秋インでも、絶対に走らせないといけない場面で自分にパスが回ってくる、みんな簡単なように配艇を組んでいたけど、自分の責任はあまりに重かったし、プレッシャーもありました。でも、自分はそのプレッシャーのおかげで走ることができていたのかもしれません笑。

 

市毛ともほとんど一緒に乗ってこなかったけど、お互いの役割をそれぞれ全うし、7レース目4位、8レース目9位。

2レースともシングルでまとめることができました。

 

春イン同様、他の大学ではありえないくらい配艇をゴロゴロ変えたスタイルで、スナイプは4位入賞。

サポート含めてみんなで掴み取った4位。それでも悔しさは残りましたが、その悔しさはここで終わりではなく、全日本に向けて気合いを入れるきっかけになったのである意味良かったと思います。

 

個人的には、はんと、遠藤、市毛の3人とシングルを取れたこと、そして、春インは6レースでて平均が15.8点だったのに対し、秋インでは7レースでて平均11.1点とここまでの練習の成果が数字に現れ、チームに貢献できたので嬉しかったです。

 

何回か葉山、そして江ノ島で練習した後、プレレースがあり、全日本インカレの開幕まではあっという間でした。

 

レース1日目。

市毛とスターティングで出艇。

風が弱く非常に不安定でした。

それでもレースは始まり、スタートから埋もれてしまい、風も後ろの方には入ってこずどんどん前と離される展開に。

2上とかはもう止まっているんじゃないかというくらい、船を走らせるのに一苦労でした。

それでもレースは進み続け、先頭が2下に近づいたところでようやくノーレースに。

救われました。ただ、470はレースが成立してしまい3艇DNF。最後の全日本インカレなのに、風はこんなにもいじわるなのかとなかなか受け止められませんでした。

そのあとは風待ちをした後、結局レースはできずに終了。総合入賞を目指す東大ヨット部にとって、非常に苦しいスタートになりました。

 

その日は、自分はまだレースすらしていないのに、いきなりインカレの壁を突きつけられた気がしてあまりの無情さになかなか落ち着かずにいました。

それでも、合宿所に戻ればみんなが元気ないつもと変わらぬ日常があって…いろんな気持ちが複雑に交差しながら就寝しました。

 

レース2日目。

この日はそこそこの風で朝からレース日和でした。

ただまだ気持ちを切り替えきれず、少々ピリピリしていました。総合入賞への思いから背負わなくていいものまで背負いすぎていました。でもあっという間に出艇してレースが始まり、後ろの方でフィニッシュになりました。内容は良くなかった。何より、自分のやるべきことに向き合えていないのがよく分かっていたし、それでもどうにもならずしんどかったです。

気持ちの整理のため、一旦自分から交代をお願いして、レスキューに乗りました。

急に乗ってもらうことになったいろは、そして一緒に乗ってくれていたのに不甲斐ない形で終わってしまった市毛には申し訳なかった。

 

レスキューに乗ったら、自分の情けなさと戦いつつ、次のレースまでには切り替えようとレースを見ながら我を取り戻していました。

そんな中、いまぽが西尾さんが事前にいろんなメッセージを書いていたキットカットから一つ選んで渡してくれました。「目の前のことに集中」みたいなことが書いてあったと思います。

その通りすぎて、少々笑みがこぼれて励まされました。ありがとう。

 

3レース目から復活し、結局天野神田になりました。

スタートから苦しく、その後少しずつ上げたもののパッとしない真ん中くらいの順位。

この日はこれでレースが終わりました。

 

次の日は、市毛と再チャレンジ。

いろんな人がたくさん応援に来てくれていたので、気持ちも切り替えられいつも通り出艇を迎えられました。

ただ、いざ出艇となると爆風。非常に危ない出艇となってしまい、私服の1年生が肩くらいまで海に浸かって助けてくれました。

着替えもなかったのに文句一つ言わず一目散に海に入ってきてくれて本当にありがとう。

頑張って出艇してレース海面に向かっていたところ5分くらいした後にAPH。一旦帰着しました。

その後はしばらく風待ちをして、風が落ちた後に再出艇をしました。

始まった4レース目はスタートはそこそこ決まったものの、反対海面が伸びて上マークでは真ん中くらいまで落ち込んでフィニッシュ。

レース後にはスタート後のケースでDSQをつけてしまいました。

もう何をしても宮川さんは優しい言葉しかかけてくれません。引退が迫っていることを実感しました。

そんなこんなで、次のレースは中静神田の4年ペアで挑むことに。

去年はあんなに一緒にいたのに、今年は初めてのレースです。

スタートはかなり置いていかれたものの、二人でブローを見ながらしっかり伸ばす展開でどんどん追い上げて、フィニッシュは14位。

4年生ペアとして意地の追い上げでした。レース中もそんなに緊張感なく2人で話しながら笑顔で楽しめました。

3年生の時よりはお互いの信頼感も増していたかな。

 

そして、いよいよ最終日。

もうここまで来たら1点でも少なく、1つでも上の順位を目指してやり切ることしかありません。でも風がなかった。

南風を待つということで、陸での風待ちスタート。

リミットが近づく中、レースをやるかギリギリの状況でしたが、運良く徐々に南が入ってきたので出艇。

最後の1レースも中静と乗らせてもらいました。

 

軽風の中スタートしましたが、早稲田にプロテストされ、初っ端から二回転でのスタート。

最後の最後までケースに翻弄されました。

 

その後ビリくらいの見た目になったものの、とりあえず前を向いて走ることしかできず、少しずつ上げたとはいえ引退レースは40番くらい、なんともいえない結果になってしまいました。

それでも、最後の1年間お互い別々の道で成長してきた中静と最後に一緒に乗って締めくくることができたのは幸せでした。

 

最終的な結果は、470級17位、スナイプ級9位、総合12位。

ブログの最初に述べたように、目標には遠く及びませんでした。

とにかく悔しかった。

ケースがなかったらとか、これまでの実力が出せたらとか言われることもありましたが、全日本という舞台でケースを起こしてしまうのも、いつものようなストラテジーの戦い方ができないのも含めて実力不足。

これまでも、今回の大会もまだまだ全日本の壁は高いものでした。

 

でも、僕らにはこの壁を越えようと一緒に挑んできたたくさんの後輩たちがいます。

これまで以上に多くのみんなが実際にレースに出たり、海でのサポートをしたり、より近くで全日本の厳しさを感じることができたはずです。

その経験を糧に、来年こそはこの高い壁を超えてくれることを切に願います。

 

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4年間、濃すぎて本当に長くなってしまいました。

ここからはまとめに入ります。

 

 

まずはクルーとして。

自分はこれまであまりクルーという存在について触れてこなかったし、みんなには順風満帆なクルー人生に見えていたかもしれません。

でも決してそんなことはなくて、動作がなかなかうまくいかないこともあれば、クルーとして自分がどう船に貢献できているのか、なんのためにヨットに乗っているか分からなくなることだってあったし、前を走っても褒められるのは基本スキッパーで、誰がクルーとして乗っても変わらないんじゃないかと思うこともありました。

ヨットの上ではやっぱり主人公はスキッパーだし、クルーはいつだって脇役でした。

でも、4年間クルーをやって、それでいいんだ、それこそがクルーの魅力なんだと思えました。

主人公がいるからこそ脇役にも華があるし、脇役がいるからこそ主人公は輝くことができる。脇役が変われば、主人公が変わる。

そういう風にして主人公と脇役が支え合いあながら物語が進行するように船が進んでいくんだと思います。

それに気づくと、船が走ってスキッパーが喜んでくれることが、自分にとってはクルーとしての大きなやりがいでした。

 

もう一つ。

僕はクルーは引き出し職人だと思っています。

練習では、2人でいろいろなことを試して、こういう時はこういうセールセットにしようとか、こういう風ならこういうコース展開がいいとかたくさんの引き出しを作っておく。

そして、レースでは、練習で用意したたくさんの引き出しの中から、今必要なものをどんどん選んで取り出してスキッパーに渡してあげる。

これがすごく重要だと思います。

レースで2人の引き出しにない新しいことをしても、うまくいかないことがほとんどです。だから、今持っている引き出しからうまく引き出してあげるのが大事だし、その引き出しをできるだけ増やしておくことに練習の意義があると思います。

 

僕はクルーとして、初めは先輩と、そしてその次に同期の中静と、最後は後輩と乗り徐々にステップアップしていく恵まれた環境にいました。

それでも4年生になって初めて気づくこともたくさんあったし、今振り返ると先輩や同期と乗っていた頃から自分がもっと主体的になっていればよかったと後悔の念もあります。

だから後輩クルーたちには、初めは難しいかもしれないけど、遠慮せず主体的にヨットに乗ってほしい。そうして初めて見えてくるクルーとしての楽しさがきっとあるはずです。

自分の4年間のクルーの経験から少しでも多くのみんなにとってクルーのイメージが変わり、2人で船を走らせる楽しさが伝わっていれば嬉しい限りです。

 

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思えば最後の1年間はチームの中でも僕は脇役だったかもしれません。

主将の成相、470リーダーのやまこー、スナイプリーダーの中静は本当によく頑張ってくれました。みんなの前では常にかっこいいリーダーでしたが、その見えないところでは一選手ながらたくさんのことを考え、苦しみ、もがきながら常にヨット部のことを思う熱い気持ちがあったと思います。本当にありがとう。

そんな同期たちに甘えてばっかりだったけど自分にできたことは、それぞれの作りたいチームをまずは尊重し一緒に頑張ること、少し苦しい時に手を差し伸べること、間違っているときには違うと伝え軌道修正をすること、このような脇役としてチームを支えることでした。

 

入部してからどんどん人数が増えてきた東大ヨット部。強くなると同時に、組織の質も上がってきました。

それは、目には見えない一人一人の小さな気遣いが日々積み重なってきた証だと思います。

一方で、組織が大きくなれば大きくなるほど、強いチームを作り維持していくことは本当に大変です。

一人の何気ない身勝手な行動や言動は瞬く間に組織全体に広がり、チームは崩れていく。

もっと具体的にいえば、一人でも「誰かがやってくれるからいいや」という人がいれば、やってくれる人が損をしてやらない人が得をし、そして、誰もやらなくなる。

だからこそ、みんなには決して目立たないことだとしても、チームが良くなると思ったことはどんどん実行してほしいし、そういう小さな気遣いに気づけるような人になってほしい。

部活として戦うからこそ、自分自身では輝くことができなくても、チームを輝かせ、他人の輝きに気づくことができるし、そして、いつか自分が輝ける日が来たらそれはきっと自分だけでなくチームに関わるたくさんの脇役たちがいたからだと自信を持って答えられるはずです。

 

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最後に一つだけ。

部活の良いところは悔しい思いをバトンに載せて後輩たちに託すことができるということ。だから、みんなにはその思いを背負って強くなり続けてほしい。

最後のMTGでも伝えたことです。

 

僕たちも先輩方の悔しい思いをたくさん見てきたし、その思いをバトンとして受け継いでこの1年間活動をしてきました。

そして、今度は後輩たちにそのバトンを託す時が来ました。

もちろんどんなチームを作りたいかはそれぞれの代で違っていいと思います。でも、やっぱり今の部活があるのはこれまでのたくさんの先輩方が東大ヨット部の長い歴史を1日ずつ積み上げてきてくれたからにほかなりません。その思いを背負って戦わせてもらう以上、どんな形であれ少しずつ前に、強い方向に進んでいくことがバトンを繋いでいくこと、そして、東大ヨット部の歴史を、文化を、紡いでいくことなのだと思います。

 

それでも、たくさんの思いが詰まった重たいバトンを握って前に進んでいくことは決して簡単なことではありません。

先が見えない不安や限られた時間の中で無数の選択が立ちはだかり、立ち止まったり逃げたくなったりすることもあるでしょう。

一選手としてなかなか思うようにはいかず周りと比べてしまい苦しいことだってあると思います。

 

自分だってそうでした。

なかなかうまくいかず部活を辞めたい時だってありました。でも辞めようとは決して思わなかった。

それは、ヨット部という選択を自分で選んだ以上、それを正解にするのは自分自身のこれからだという信念があったからです。

苦しいことが続いているときこそ、自分のヨット部との向き合い方を何か少しでも変えて、前に進み続けないといけない。

うまくいかないときこそ、目の前の課題と向き合って自分を磨き続けなければいけない。

どんな過去の選択もこれから先の自分次第で最高のものになると信じることは自分にとって大きな励みでした。

 

これから先小さなことでも大きなことでもいろんな選択をしないといけない場面がたくさんあると思います。

ある程度悩んだ選択なら、きっとどれも間違いではありません。それを正解にしていくのはその先の自分です。

だから、辛い時こそ、ゆっくりでいいから一歩ずつ進み続ける勇気を大切にしてほしい。

その小さな勇気が集まれば、やがてチームを動かし、強くする大きな原動力になるはずです。

 

1年生の時、ヨット部に入る選択は正しかったか?

今の自分なら大きな自信を持って「はい」と答えられます。

この「はい」というたった2文字の答えこそ、僕が4年間で見つけたこの上ない宝物なのです。

 

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ふと顔をあげれば、どこまでも広く青く美しい海が広がっていて、そこをヨットで駆け抜けていくこと。

レースで前を走ってフィニッシュして2人で交わしたハイタッチ。

美味しい海飯を食べながらくだらない話をしていたお昼休み。

強風の中帰ってきて穏やかなハーバーに入った時の少し強くなった気がするあの達成感。

笑顔の耐えない合宿所でのみんなとの時間…

 

4年間当たり前だったかかけがえのない時間が突然なくなるのはやっぱり寂しいものです。

でも、これだけワクワクしたバトンを後輩たちに託すことができるということ、こんなにも幸せなことはありません。

 

ゆっくりでもいい。

でも、少しずつ東大ヨット部が強くなり続けることを願って。

 

4年間ありがとうございました。

 

2024年度 東京大学運動会ヨット部

副将 / スナイプクルー

神田陸人

 

リレーは続く、どこまでも。

 

〜完〜


東大ヨット部のみんなが好き、ただその一心で。

2024年11月13日 23時04分47秒 | 引退ブログ

11月4日、全日本インカレをもって東大ヨット部を引退しました、4年の今川穂乃香です。

(見出しには部活初日の夕日の写真を持ってきました。あれから4年弱。早かったような、長かったような。)

 

引退して1週間ほどしか経ってないのですが、引退ブログを書けと言われてるので(例年より早くないですか、、?)フルスピードで4年間を振り返っています。

 

一旦引退の実感を沸かせるためにまずはLB1週目の土日(本来なら部活がない土日に喪失感を覚えてるはず、、、)を報告させていただきます。

 

11/9  LBになって初めての土曜日。6:00に家を出て7:50に江ノ島にいました。(あれ?)全日本スナイプミックスにはんとと出ました。久しぶりのヨットでした。強風で寒くてハイクアウトがしんどかったです。でもちょっと前走れて嬉しかったです。完全にはんとに任せっきりでしたが、、、はんとありがとう。

江ノ島組はジュニアミックスがあるスナイプチームだけのはずでしたが朝回航予定だった470チームのみんなにも会いました。なんかよくわからないけど、江ノ島組のレスキューには成相とずーまーがいました。ジュニアミックスにはひろなりもでてました。(あれれ?)

レースの後葉山に戻って合宿所に泊まりました。新470チームがミーティングしてました。私が1人で合宿所の2階に入ったら全員からほぼ一斉に「お疲れ様です」と言われ、それがまさにLBさんがいらっしゃった時に現役が言うそれだったのでちょっとだけ疎外感を感じました。なんかよくわからないけど、スナイプ葉山練習組の中に中静と澤田と神田が混ざってました。(あれれれ?)この3人と江ノ島組の私とずーまーで夜ご飯を食べました。引退して全責任から解放された我々はそれはそれはぽわぽわしてました。意味わからないことで話が盛り上がりました。楽しかったです。

11/10 ミックスの2日目でした。相変わらずハイクアウトがしんどかったです。でも楽しかったです。とりあえずラストヨットレースでした。江ノ島から葉山の引越しを手伝って帰りました。

 

まあ、お分かりの通りほぼ現役のときと同じ生活をしたので全く引退の実感が湧かない訳です。

同期はなぜかほぼ全員いるし、470チームもスナイプチームもほぼ全員会ったし。先週例年稀に見るほどにほぼ全員涙して引退したのに(笑)現役のみんなからしたら、いや普通に今週もいるやんけ、て感じだったと思います。ちょっと恥ずかしかったです。

でもまた同期のみんなと会えて、後輩たちと会えて嬉しかったです。ちなみに今週末も淡青祭で同期ほぼ全員と会います。(嬉しいです。)

 

 

それでは引退の実感を無理やり沸かせて、本題に移ります。

 

 

4年間をざっと振り返っていきます。

1年生。

とりあえず運動会のどっかの部活に入ろうと思ってました。コロナ禍でテント列とかなかったのでサークル/部活の紹介がある冊子をパラパラめくってたら東大ヨット部という存在に出会いました。海!合宿!なんか楽しそう!そんな軽い気持ちで半分入部を決めながら初めての試乗会に行きました。クイズで優勝してペアの子とマーロープリンをゲットしました。(そのペアの子は後にズーマーと知ります。)先輩(工藤さんとちかさんとおまたさん)がめちゃくちゃ優しくてたくさん話しかけてくれて、ヨットのことはさっぱりわからなかったけど雰囲気が好きで試乗会の終わりごろには9割方入部を決意してました。同期プレイヤーの中で1番最初に入りました。

同クラでプレオリ(?だった気がする)で同じ班になった中静くんもヨット部に興味があると言っていたので「一緒に入ろう!」と何回もうるさく誘ってました。

中静が入ってくれたとき、LINEで「4年間よろしくね!」と送った記憶があります。言葉通り、4年間お世話になることができて嬉しいです。

初めての部活はあんまり覚えてないですが、確かなんかのたまやでした。新港に来いと言われて、新港とはなんぞや??とか思いましたがちゃんと葉山新港に行くことができました。そこで初めて同期の一部に会いました。帰り道みんなで帰っていたら高校の部活が私と同じ模擬国連だったという人に出会いました。成相くんでした。よく話を聞いてみると私の高校で主催していた大会にも行ったことがあるとか、、、(実は当時の成相くんの写真に私も映り込んでました)誕生日が1日違いの神田くんとも話したりして、すごく賑やかな同期たちだなー楽しくなりそうだなーと思いました。同期女子プレイヤーはいなかったけど、全然平気でした。

ちゃんとヨット部生活が始まったのは八景への引越しからでした。八景では新入生練と上級生練を同時におこなっていました。そのためあまりヨットには乗れず、、、コロナ禍で通いだったこともあり、今思うとあまりヨット部生活ぽいことはできなかったかもしれないです。でもとにかく楽しかったです。同期も先輩もいい人ばっかりで、土日の非日常感が好きでした。毎週土日が楽しみで仕方ありませんでした。

最初は470スキッパー志望だったのに全然470に乗る機会がなかったのでなんとなくスナイプチームに入ることになりました。

夏合宿は村上さんと他の1年生とたくさんレスキューに乗ってました。だから村上さんが部活を辞めると聞いたときは本当に悲しかったです。(でも辞めるときに1年生にも電話で直接伝えてくれて、本当に愛を感じました。ありがとうございました。)

そんなこんなで初めて迎えた秋イン。最終日前日の重い空気は忘れられません。スナイプチームは全日本インカレに行けないことが決まり、お通夜状態でした。そこで全日本インカレのハードルの高さ、そしてヨット部がインカレにかける熱い思いを少し実感することができました。全日本インカレで4年生の先輩方の引退を見届け、4年後どんな感じで終わるのだろうかとぼんやり考えた記憶があります。

 

代替わりして2年生。

スナイプスキッパーとして本格的にヨットに乗り始めました。初日にスナイプで出艇した時ティラーをハーバー内で落としました。ちょっとだけ浮いていたのですがすぐ沈みました。今もまだ葉山港の底に眠ってます。

冬合宿直前に同期がたくさんやめていきました。当時自分は部活が大好きだったから、辞める人の気持ちがわかりませんでした。(その後私も同じような悩みを抱えるとは全く思ってませんでした)引き留めることもできず、あっという間にディンギーの同期プレイヤーは8人になりました。

冬はたくさん練習する機会をもらい、色んな方から教えてもらいました。

陸ではうるさいのに海に出ると急に笑わなくなって、しゃべらなくなって、やる気ないように見えたと思いますが、根気よく話しかけてくれて、たくさん教えてくれた先輩方、ありがとうございました。ヨットで海にでると2人きりになるので緊張しちゃってたんですよね。あと、ヨットに乗ってる時は何を考えればいいのかわからなくなって頭真っ白になっちゃってました。

そんな状態でヨットに乗り続けたせいで徐々にスキッパーをしていて楽しいより、怖い、が勝ってしまいました。ヨットの面白さは頭ではわかっているはずなのに、いざ乗ってみると全然思い通りにいかなくて、レースは怖くて怖くて仕方がありませんでした。楽しそうにヨットに乗って、ヨットの話をしている同期が羨ましくなってました。

でもこれは完全に自分の勉強不足と努力不足でした。分からないなりに自分で勉強して、先輩に聞いて、実際に乗って自分の中に落とし込む、ということをやればよかった。もっと頭を使って考えながらヨットに乗ればよかった。

春女は郁さんスキッパー、私クルーで出場しました。郁さんは470なのにすぐにスナイプを乗りこなしてすごかったです。初めての公式レースで、ド強風で怖かったけど、楽しかったです。最終レースは3位でフィニッシュできて、とてもいい思い出です。4月からは下級生同士で乗れるようになって、クルー不足だったこともあり、中静とよくスナイプ乗ってました。このころから中静は上手くて、中静スキッパー、私クルーで乗って早稲田とコース練した時に1上を1位で回航したときがありました。結構嬉しかったです。

そんなこんなで悩んだけどヨット部やスナイプを諦めきれず、夏にスナイプクルーに転向することにしました。(山中寮に行っていてヨットからちょっと離れた時にたくさん考えて、大野さんに電話しました。あのとき親身に話を聞いてくださってありがとうございました。)

秋女は千田さんと出ました。相変わらずのド強風で2人で怖い怖い言いながらランニング中の波に耐えてた気がします。1日で5回ぐらい沈しました。当時はつらくて泣きそうでしたが、今となっては笑って話せるいい思い出です。あの時からド強風ランニングの危機管理能力が高まった気がします。このとき、来年の秋女では3位以上、全女では入賞するという目標を立てました。

この年のスナイプチームはというと史上最強のチームでした。ほぼ完璧といえるレースメンバーで固めて出場した秋イン、無事に全日本インカレに出場でき、全日本インカレではなんと5位入賞という偉業を達成しました。最終日私はチームボートに乗らせていただき、5位が決まった瞬間を海上で見届けることができました。あの時のレースメンバーの喜んだ顔は忘れられません。いつか私も、という気持ちになって、晴れやかな笑顔で終われました。

この代はとてもメリハリがあって、チーム全体で戦っている雰囲気がありました。私にとっては理想のチームでした。4年生になったらこんなチームになりたいと思った記憶があります。サポートを統括している4年生の大吾さんがいたのも大きかったと思います。大吾さんという存在が後に私のヨット部生活にとって大きな存在になりました。

 

3年生。

ずっと負の状態でいた年でした。真っ暗闇の中にいて、苦しかった。

スナイプクルーを始めて半年。クルーで頑張りたい、インカレに出たいと思って取り組んでいるつもりでした。でも足りなかった。また勉強不足で努力不足。どんどん同期にも置いていかれ、後輩にも抜かされました。

2年生スキッパー専用クルーみたいになり、ずっと天野、遠藤、市毛と乗ってました。後輩と乗ると学ぶことも多かったです。でもあまり成長はできなかった気がします。3人はぐんぐんと成長してくれました。

個戦は市毛と出ました。レース中はいろんな負の感情ををちょっとの間忘れることができて、楽しかったです。

そんなひとときはすぐに終わり、夏になると現実を見させられました。レースメンバーにはなれないことが決まりました。ずっとなんのために、なんでこんなところにいるんだろう、なんでヨットやってんだろう、もうレースメンバーになれることはないのに。そんな悶々とした思いで部活にいました。周りに対する劣等感が生まれ、自己嫌悪とともにそれから逃げたいと思うようになりました。でも秋女と全女は千田さんと出ることが決まってるから、迷惑はかけられないから、それまで続けようと思ってそこに焦点を当てて練習してました。

そして千田さんと出た秋女と全女。もちろん千田さんのおかげではあるけど、秋女では3位を取れて、全女では入賞は逃したものの、8位という好成績で終わることができました。本当に嬉しかったです。そこでだいぶ満足してしまいました。もう、ヨットいいかな、ヨット部やめていいや、そう思うようになり、3年の終わりでやめると決意し、小戸の全日本を見届けました。

 

4年生。

全日本が終わった次の日、辞めることを同期にLINEで伝えました。どうせ4年生になったら研究とか院試で忙しいから迷惑かけるからと。都合のいい言い訳でした。本当はただ楽しくヨットをしているみんなが羨ましくて、劣等感感じて、辛くて、逃げたかった。

でも色んな人からやめないでほしいと言われました。こんな逃げてばっかりの何ができるわけでもない私に温かい言葉をかけてくれる人がたくさんいました。すごく悩みました。でもそんな温かいヨット部のみんなのことが大好きだし、あと一年、大好きな仲間たちとヨット部として過ごしたい。一緒に最高の代を作り上げて、一緒に戦いたい。この最高な仲間たちの助けになりたい。そして一緒に笑顔で引退したい。そんな思いでヨット部にサポートとして残ることにしました。もし大吾さんという前例がなかったらそんな選択肢はありませんでした。そのような選択肢を作ってくださった大吾さんには本当に感謝しています。

代替わり後はすごくバタバタしてた気がします。最初の2日間ミーティングをして、すぐに練習が始まりました。試行錯誤ではあったと思いますが、成相が見えないところでたくさん考えてくれて、率いてくれたから、新体制のチームが無事スタートしました。

学年問わず仲がよくて、レースではみんなで戦ってる感じがあり、本当に大好きなチームでした。いいチームづくりに尽力してくれた中静とやまこうには感謝です。

代替わり後から私はたまに下級生のスナイプに乗ってましたが、基本レスキューでみんなの練習を見ていました。日に日にレースで前を走るのを見るのが増えて、迎えたインカレや六大戦、七大戦で快挙を成し遂げてくれました。それを側で見れて、一緒に喜べて幸せでした。サポートとして携われてよかったです。同じくサポートをしてくれた後輩のみんな、至らないところばっかりだったけど、しっかりしてるみんなのおかげでなんとかなりました。本当にありがとうございました。

現役最後のヨットは中静とでした。(秋インで私を出すという話があったのでその練習としてハーバーバックだけ乗りました。最終的にはみんなの足を引っ張ることはしたくないと思い、辞退しましたが。)2年生の頃を思い出し、感慨深かったです。

江ノ島で行われた全日本インカレでは両クラスで出場し、悔しい結果とはなりましたが、いい景色を見させてもらいました。そしてみんなで引退することができました。

 

 

3年の鬱状態だったころ、私が部活にいる意味など考えていました。ヨットで活躍することもない、後輩にヨットのことをたくさん教えられる訳でもない、ヨットを嫌いになりかけている。そんな私がなぜここにいるのか、当時はその答えを見出せなくて、自分の存在意義を感じなくなり、部活から離れようと思ってました。こんな人が4年生にいてもきっと迷惑だし。

でもこの1年間、存在意義とかあまり考えずに、ヨット部のみんなが好きだから、一緒にいたいから、いる。4年生にしては無責任すぎるとはわかっているけれど、この思いには嘘はなかったし、私が一つだけ誇れるとしたらヨット部のみんなへの愛の大きさでした。これだけは一番だと信じていました。なのでこの気持ちだけでヨット部として過ごし続けました。

引退してもなお、東大ヨット部における私の存在意義は未だにわかっていません。頼れる立派な先輩にもなれなかったし、わがまま言って、迷惑いっぱいかけて、助けてもらってばっかだし。サポートとしていたけど、私必要だったかな、なんて思ったりもします。でもヨット部として最後の日にもらったアルバムのみんなからのメッセージや円陣ミーティングのあと後輩のみんなと話したことでこの気持ちが浄化されました。お世辞かもしれないけど、私がいたからヨット部入ったとか、私の笑顔を見て笑顔になれたとか、私が部活に来るだけで嬉しかったとか。そんな温かい言葉をたくさんもらいました。ほんのちょっとでもそんなふうに思ってくれる人がいたなら、それで十分です。それだけでヨット部にいてよかった、続けた意味があった、そう思えます。

 

 

この4年間、私のヨット部人生は決して順風満帆だった訳ではなく、辛いこと、たくさんありました。プレイヤーとしても、サポートとしても、もっとできたのではないか、こうすればよかった、ああすればよかったと心残りは正直あります。

でもこうして引退した今、とにかく幸福感で満たされているのは事実です。それは間違いなく大好きな仲間たちのおかげです。どんなに苦しくても、やらかしても、みんなが温かく接してくれて、温かい言葉をかけてくれました。だから悪い思い出も、いい思い出も、みんなと過ごせたから今となっては楽しかったと思えます。全ての思い出があってこそ今の幸福感があると思うとどんなときも続けてよかったなと思います。

最高の先輩方、同期、後輩に恵まれて、一緒に4年間を過ごせてよかったです。とても濃い、彩り鮮やかな4年間になりました。本当にありがとうございました。

今後も至る所でふとヨット部であったこと、出会った人を思い出して懐かしみながらすごしていくのだと思います。

東大ヨット部としての生活とここで出会った仲間たちは私の一生の宝物です。

 

 

現役のみんなにはこのヨット部の仲間を大切に、ときにはお互い助け合って、ときには頼り合ってほしいなと思います。私はギリギリまで強がって自分の中で解決しようとした結果限界がきてしまいました。もうちょっと早く同期でも先輩でも後輩でも心を開いて相談してれば何か変わったかもなと思っています。だから、辛い時は周りに甘えてみてもいいのかもしれません。そうしたらちょっとは心が軽くなることもあると思います。

これからも東大ヨット部の1番のファンとして、応援しています。たぶんすぐ寂しくなると思うのでたまに顔を出しに行かせてください。

 

最後に、これまで東大ヨット部を支えてくださったコーチの皆様、LBの皆様、ご家族の皆様、本当にありがとうございました。皆様の支えがあってこそ東大ヨット部はのびのび活動することができ、ここまで来れました。これからは私も1LBとして外から一緒に支えていきます。今後とも東大ヨット部をよろしくお願いいたします。

 

幸せな4年間をありがとうございました。

 

 

東京大学運動会ヨット部4年

今川穂乃香


恵まれた4年間

2024年11月13日 01時20分07秒 | 引退ブログ

こんばんは。LB1週間目の安藤和真と申します。

まだ1週間なのに、もうヨット部というコミュニティーから遠ざかったことを実感し始め、寂しさを感じています。

そしてまだ1週間なのに、もう引退ブログの締め切りが来てしまいました。

 

書きたいことが多すぎて、 10000字くらいあります。どうかお付き合いください。

 

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2021年4月、大学生活への期待に胸を膨らませた新入生の僕は、「大学でしかできない体験を」と思いさまざまな部活やサークルを巡り歩き、バレー部・馬術部と最後まで悩んだ結果、ヨット部への入部を決意。

僕の大学生活をめぐる最初にして最大の決断でしたが、素晴らしい決断でした。

 

一年生の秋までは、コロナ禍の影響で合宿も制限されていて、家と八景島・葉山を往復しながらホッパーを楽しんでいました。

秋インでは長岡さんたちが引退し、蒲郡では無風ノーレースのまま終わりました。

4年生の方々とはあまり深く関わることもできず、ただ引退を見送っていました。

 

 

代替わりして2年生。調さんたちの代になりました。スローガンは「好み好まれる」。

 

初めて迎える冬の練習。倹約家の僕は、先輩から聞いたmorgen skyという安いブランドの5mmのドラゴンウェットと放出会でゲットしたパドジャケだけで乗り切ろうとしていまして、無事に死亡。

最も印象に残っているのは、葉山での雨のレスキューです。最高気温は驚異の7℃、風もそこそこ吹いていて、空気より海水の方が温かく、海面から湯気が出ていました。天木さんと一年生でレスキューに乗り、上級生のコース練習を見ていましたが、天木さんがレースや帆走の解説をしてくれているのも頭に入らず、他の一年生と身を寄せ合って凍えていました。流石に昼着してご飯を食べていると、小松さんが「パッと食べて、もう一度でるぞ〜」とおっしゃって、絶望していました。

  

春合宿が明けた2S、自主練に通いました。

同期よんななまらーずのパッションが高すぎて、そこに負けたくなくて、自分も週4くらいで葉山に通っていました。

 

夏合宿は、葉山に移って早々に高天さんが怪我をしたことで、4番艇候補を下級生スキッパー+ひろきで争うことになり、79で加藤さんと乗れる機会が期せずして生まれました。結果的には4番艇はひろきに決まりましたが、それまでは「まだ遠い舞台だな」と思っていたインカレが急に身近なものとなり、色々なことを考えるようになりました。

 

秋イン決勝では、470が初日1R目でリコール2つ。でも工藤さんたちなら全国に行けないわけがない、と信じながらみん部屋でたまやをしていました。結果はちゃんと追い上げて、両クラス全日本へ。

 

全日本インカレの琵琶湖では、微風or強風の両極端なコンディションの中レースをしている先輩たちを、陸や観覧艇から応援していました。実力は確実にあった470の先輩たちが、それでも全国の舞台では苦戦しているのを見て、全日本インカレという特殊で難しい舞台を実感しました。

 

このときの思い出をもう一つ。全日本の宿で大吾さんから、「真面目なスキッパーが最後に一番伸びるよ」という言葉をいただきました。この言葉は、この後のヨット生活を支えてくれました。ありがとうございました。

 

 

代が替わって、3年生。西尾さんたちの代になりました。スローガンは、”Fun for the win, fan for the team”。

 

春合宿は、古橋さんから譲り受けたドライスーツで、なんとか乗り切ろうとしていました。でも旧合宿所の裏に干しているうちに劣化が進み、浸水とずっと戦っていました。

3年の春合宿での八景島は、レギュラー選考を意識することが多かったです。470は船の差が大きいため、東北大戦で船を決め、その次のフリートレースでレギュラーを決めることになりましたが、その間にも船が壊れたり、色々なことがありました。結局は僕はレギュラーを取れず5番艇となりました。

 

3月後半、新歓期、春インの期間は4番艇までに大部分のリソースが投入されたため、かなり乗艇機会も減り、同期たちが上手くなっていくのを横目に、もがいていました。明らかにボートスピードに問題がありましたが、その改善の仕方もわからず、そもそもヨットに乗って練習もできず、なかなかに苦しい時期でした。

 

6月のレースシーズンは、練習の足りなさが完全に出てしまって、毎レース1上の時点で後ろにほとんどいないような、3年生として情けないレースを連発していました。

正直、高いエントリーフィーを払ってレースに出てこんな経験をするくらいなら、その時間で練習した方がマシなんじゃないかとまで思っていました。

正直、ヨットが嫌いになりかけていました。

 

夏合宿、それでもなんとか頑張ろうと、成長を模索していました。

2023年8月21日、松尾さんと52で半ピンアップしてベンド65で出ました。この日は今でも覚えています。ずっと上位艇とのボートスピードの差に悩んでいましたが、この日やっと帆走練で置いていかれることがなく、ずっと並走することができました。

セッティングがハマったのか、松尾さんが上手かったのか、何のおかげかは分かりませんが、ようやく上位艇と同じ土俵で戦える、と思うことができ、苦しい時期を抜け出すきっかけとなりました。

九月の大規模コース練習でも、ぼちぼちくらいにはなりました。

 

ひろきがサポートに回ったこともあり、秋インは4番艇として淡青に乗りました。

秋イン決勝、二日目は加藤さんと乗るもノーレース。三日目の最終レースで丸山さんと乗り、1上は15番くらいで回航するも、結局ズルズルと落として30番台でフィニッシュ。8位の法政と9点差のまま、風も落ちて最終予告を迎え、apa。470チームは決勝敗退となりました。

 

全日本の小戸では、スナイプチームの応援と、修猷館高校との交流会。

あれだけ走ったスナイプチームも、全日本では苦戦しており、やはり全日本という舞台の特別さを知りました。

 

  

そして、4年生。スローガンは、”Serious fun”。数値目標としては、全日本総合入賞を掲げました。

 

秋インが終わって470チームが代替わりした後、自分たちの代をどういうチームにしたいか、たくさん考えました。毎週末mtgをして、色々な方たちから話を聞いたりして、今後1年間の方向性を探りました。

 

最上級生になったという自覚はまだあまりなかったけど、自分たちがこの部を引っ張っていかなくてはいけない、という責任感はこの辺りから芽生え始めました。

 

春合宿は、下級生を育成するだけじゃなく、自分たちもどれだけ成長できるかの戦いでした。秋インでの実力不足の反省から、毎日寝る前にヨットノートを書いて、1日ずつ何かしら上手くなろうとしていました。

寒い冬の夜は、業務スーパーで買ったお餅と粒あんで、お汁粉を作って乗り切っていました。

 

春合宿後半は、レギュラーと船が決まって、西間と91に乗らせてもらっていました。セーリング中もずっと何かしら喋っているような、コミュニケーションの多いペアだったと思います。西間、ありがとう。

マークをぐるぐる回りながら、470上級生スキッパー5人全員のレベルが上がってきていると感じていました。

 

あと、この頃からマネ飯のクオリティが異次元の高まりを迎えていて、毎日の海上でのご飯が、安らぎと喜びのひとときとなっていました。本当にありがとうございました。

 

(海の上で食べたちらし寿司が忘れられず、リクエストしたらもう一度作ってくれました。美味しかったです。ありがとうございました。)

 

春合宿が終わって4月になり、新歓期になりました。でも僕は新歓裏で練習させていただいて、下級生が中心となって新歓を頑張ってくれました。おかげでこんなにたくさんの下級生が入ってくれました。ありがとう。

 

そうして迎えた春イン。

予選では初日1R目にBFDを取ってしまい、重苦しい心持ちで始まりましたが、その後はある程度の順位でまとめることができ、なんとなく実力はついているのかなと思っていました。

 

しかし、決勝。

入賞を目指して臨みましたが、最初のレースでは沈をして、挽回を狙ったその後のレースでも思うような展開ができず。色々と交代して試しましたが、結局打開はできず。三日目は強風ということで、体重で選抜したペアで臨みましたが、上位校とのボートスピードの差を突きつけられる結果となりました。

 

その後の六大でも、同じく、実力が足りていないという事実を突きつけられました。

春合宿を終えて、やまこうがいいチームを作ってきて、少しだけ成長の実感と手ごたえを感じていた分、悔しかったです。

 

もう一度、ヨットの実力をつけるためにはどうしたらいいか、考え直しました。

上位校と比べて圧倒的に足りなかったのがボートスピード、その次にスタート、コース。

ヨットレースにおいて当たり前だけどできておらず、ヨットにおける「凡事徹底」を考え直しました。

 

春イン後は、個選に向けてやまこうとペアを組みました。僕はまた91に乗らせてもらえることになりました。

全個出場を目指して、時間を見つけて自主練して、春インでの課題を何とかしようとしていました。

ヨットにスマホを持ち込んで、うまい人たちの動作を見ては試し、見ては試しで、仮説と検証をくりかえしながら練習していました。

 

そうして迎えた関東個人戦では、最初のレースでカットレースを作ってしまい、続くレースで立て直そうとしましたが、一日目は圏外で折り返し。2日目でいい順位を作れれば、と望みをかけていましたが、不安定な風とうねりの中、APとゼネリコの後のスタートでBFDをとり、望みは消えました。

終わった後で順位表を見てみると、全個出場権を獲得した艇と僕らとでは点のまとめ方が違いました。

ちょっとは春インから成長できた面もありましたが、ペア固定からの時間も短く、全個のレベルに達することができませんでした。



レースシーズンがひと段落して、七大戦。

船はチャーター、各チーム2艇しか出れない、レスキューに乗れるのも数人、という特殊な大会でした。いざレースをしてみると、九州大と最後まで競りながらも、なんだかんだで470で1位を獲得、総合でも1位。春インで持たせることができなかった賞状を、ようやくやまこうと成相に持たせることができました

(結局、やまこうにはこれ以外の賞状を持たせることができませんでした。こんなにいいチームを作ってくれていて、その成果をもっと目に見える形でも残したかったです。)

 

夏合宿が始まって、全日本470に向けて練習を積みました。特にこの時期には、圧倒的に足りていなかったボートスピードの強化をしていました。上位校に追いつくためには、2段階ほど成長が必要だと考えて、本多さんにターゲットボートになってもらって、走り合わせをしていました。

 

その甲斐が多少あって、全日本470では、課題も多く見つかりつつも、いろいろな体験ができました。

1R目の1上で岡田奎樹の前で回って、リーチングでも上突破されず2上まで競ることができたのは、めちゃくちゃ興奮しました。

レセプションでの質問コーナーで、潮によるブローの見え方だったり八王子にできる雲だったりの高レベルすぎてよく分からない話も聞けて、面白かったです。

初日以外はずっと2ピンジャスト~オーバーくらいの安定したいい南風でレースできて、ここで南風強風の走らせ方が少しつかんだ気がしました。

 

9月もいい南風が安定して吹いてくれて、いい練習ができました。ここらへんでボートスピードも安定してきて、コース練でも上位校とも戦える自信がついてきました。

 

秋六大では久しぶりに北風順風のレースとなり、ここでようやく北風のコース取りの難しさに直面しました。このままではヤバいと、北風のコース取りを意識し直しました。

幸いやまこうがコツを早々につかみ、僕もブローの形を意識したコース取りを模索しました。

 

この頃にはレースに臨むメンタルをペアでしっかり作れていて、最初のレースで叩いても「尻上がりにいいレースをしよう」と声を掛け合っていました。



そして迎えた秋インシリーズ。

 

秋イン予選。

以前は微妙に苦戦していた他大の一番艇相手にもあまり苦戦しなくなり、ある程度しっかりと実力が付いたことを確認できました。

毎レースフィニッシュのたびに艇内で「もっといいレースをしよう」と声を掛け合って、結果としてはトップホーンを5回も鳴らせました。成長を実感できて、嬉しかったです。

 

そして、秋イン決勝。

入賞を最低限の目標としていましたが、結果は7位。僕らの船もシングルを1回しかとれず、稼ぎきれませんでした。実力はそれぞれついていましたが、北風のコース取りに順応する時間が足りなかったという印象でした。

 

秋イン後は、バタバタしながら江の島への引っ越しやプラクティスレースをして、全日本を迎えました。

 

総合入賞のためには、470チームとしての入賞、もしくはそこに近い順位を目指して臨みました。しかし結果は、30番を切るレースを一つも作れず、ケースやトラブルをいくつも重ねました。配艇をいじったりするも調子が戻りませんでした。

一度崩した調子を取り戻すことの難しさ、そして2年前、1年前にも感じていた全日本インカレの難しさを実感しました。

後輩に残せる最後の大会でしたが、まったく満足できる結果ではなく、実力を出し切れたという気もしません。今も悔しいです。

 

着艇後はバタバタと解装して、閉会式の後に暗くなった円陣mtg。そのあとに後輩たちに現役として最後の言葉をかける中で、引退を実感して、長かった4年間が、ついに終わりました。



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まだ引退ブログは続きます。

ここからは、僕たちの代が掲げた行動目標「凡事徹底」「コミュニケーション」「組織力」について。

ラストイヤーブログでも、これについて触れました。

これらの行動目標は、個人的な思い入れも大きいので、書かせてください。

 

今年一年間の個人的な目標は、東大ヨット部にいい文化を残すこと、でした。

代替わりした時から、この3つの行動目標を「江ノ島で1年間を振り返ったときに達成したいこと」として設定し、この1年間取り組んできました。

 

競技で結果を残すことももちろん大事、だけど競技で結果を出せなかったとしても、後輩に何を残せるか、自分が東大ヨット部という歴史に何を貢献できるか、というのも同じくらい大事で。

何を残したいか、と考えた時に、東大ヨット部が今後も強さとあたたかさを持って成長していくための文化を残したい、そのための姿勢と行動を示したい、と思いました。



 

 

「凡事徹底」

 

この言葉は、3つの目標の中でも特に、一年を通した僕のテーマでした。

この言葉には、ただ「当たり前のことを徹底する」だけではなく、「今は当たり前ではないことを継続していくことで、いつしかそれを習慣化された『凡事』にする」という意味が込められています。

「コミュニケーション」「組織力」も、それを習慣化させるという意味では、「凡事徹底」の上に成り立っています。

 

「バースきれいに」の呼びかけを、毎日継続して徹底する。

ヨットノートを、眠くても数行でも毎日つけるようにする。

朝眠くても、起床の時間になったら布団をたたんで電気をつけてみんなを起こす。

 

いままで感謝を伝えられていなかった人に、いろいろな形で伝えるようにしていく。

声をかけてこれなかった人に、少しでも声をかけて、日常的にコミュニケーションをとれるようにしていく。

誰かの10%になれることを、常に探すようにしていく。

 

海上でも同じで、いままで沈しそうだった場面で沈をしない、スピードが落ちそうなときに落とさないようにする、などを当たり前にしていく。



結局、凡事にできたものもあれば、できなかったものもありました。

特に競技面では、僕より何倍の時間もかけて「凡事」を作り上げてきた人たちが、最後まで前を走っていました。ヨットは減点採点のスポーツで、ミスをしたことが多い人が順に落ちていく。逆に順位が安定している人ほどミスが少ない、高いレベルに「凡事」がある。ヨットは凡事徹底のスポーツでした。

 

でも、「凡事徹底」を求める姿勢は、合宿生活の中で少しだけ見せれたのかな、と思っています。



「コミュニケーション」

 

自分自身が、コミュニケーション、特に相談することが苦手で、一人で悩んで抱え込んでしまうことが多いタイプでした(というか今もそうです)。3年で伸び悩んでいた苦しい時期も、なかなか誰かに相談できませんでした。だからこそ、悩んでいる人・困っている人が、それを相談しやすいようにしたいと思って、この一年を取り組んできました。

 

なるべく目を配って、下を向いている人を見つけたら声をかけて。

悩んでいそうな人がいたら、一対一で話せるタイミングを作って。

風呂でいっしょになった人には、「今日どうだった?」と話を聞いて。

途中から運営を任されたチームmtgでも、なるべくいろんな人に話を振って、質問と議題を考えてもらって、考えていることを話してもらって。

海上でも、一緒に乗ったクルーとはなるべく多く言葉をかわして、考えを共有して。

レース間で集合した時も、なるべく言葉を交わして、緊張をほぐしながら思考を整理して。

 

僕自身の力不足で、相談してもらっても解決できないことも多かったですが、せめて話を聞くことだけはできるようにしたいと、思っていました。

 

もし僕の存在が、誰かの悩みを解決する一助になれていたとしたら、嬉しいです。



「組織力」

 

ラストイヤーブログを書いた段階では、これをどうやって達成するかは、自分の中で見えていませんでした。

一年間を過ごす中で、「組織力」とは「主体性」+「誰かの10%になる」ことかな、と考えるようになりました。

 

「主体性」とは、誰かのせいにせず、すべてを自分事として捉えることです。

 

ヨットというスポーツでも、ヨット部という集団でも、他人・環境・道具のせいにするのは簡単です。いくらでも自分たちの成長を邪魔する障害物があって、容易にそれらのせいにできます。

でもそのままだと、他人・環境・道具が変わらない限り、永遠に成長できません。

何かのせいにしたいところを、ぐっとおさえて自分事にして、「自分の実力不足の結果が今の状態だ」とすれば、自分の実力をあげることで現状を変えることができます。

「現状を変える」という選択肢を、他のものに委ねず、自分で掴みにいくことができるのです。

 

合宿所が汚いのは、「他の人が」掃除をしていないからではなく、「自分が」他の人に掃除をさせられていないから。

mtgが有意義なものにできていないのは、「運営が」うまくできていないからではなく、「自分が」運営に携わって変えられていないから。

レースで前を走れないのも、「道具が」「風が」「ペアが」悪いことに原因を置くのではなく、まずは「自分が」できることを精一杯つくす。

 

主語を「自分」に置いて「自分」自身が変わっていくことで、結果的に周りが変わってくれたなら良し、変わってくれないならまだまだ自分の実力不足。

 

そうやって「主体性」をもった人たちが増え、それが集まった組織が、「組織力」のあるチームなのかな、と考えました。



もう一つ、大事になるのが、「誰かの10%」という考え方。

 

この言葉は、最後の円陣mtgでも言いましたが、2つ上の偉大なる元470チームリーダー、工藤さんの言葉です。

 

「自分一人の力には限界があって、なんとか90%までは到達できても、そこから100%の欠点なし完璧超人になることは難しい。でも、誰かの10%になることはできる。そうやってお互いに欠点を補っていけば、全体として100%を作ることができる」

 

この考え方のいいところは、たとえ自分が辛いとき、60%、50%の時でも、誰かの10%にはなれるというところです。つまり、60%の人の集合が全体としても60%とは限らず、80%、90%、100%になれる、ということです。

 

自分が悩んでいる時でも、そんな時だからこそ、ニッカーと笑って顔を上げて周りを見渡す。そうすると、同じように悩んでいる誰かに気づくことができる、そしてその人の10%になることができる、その結果チーム全体としてプラスになる。

つまり自分がどんな状態だとしても、チームに貢献できるという事です。

 

「主体性」+「誰かの10%」がそろったときに、優しくて強い、「組織力」をもったチームになれるのかな、と思いました。



この一年間、なるべく自分事にする、誰かの10%になる、この2つを達成できたかはわからないですが、なるべくその姿勢を見せられたのかな。

 

これらが、3つの行動目標でした。


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郁さんのブログから引用させてもらいますが、

 

「ヨット部の歴史にとって自分はかけがえのないものになれるのか?」

 

一年前に代替わりしたときから、ずっと頭の中にはこの言葉がありました。

 

自分がいることで、一緒にヨットに乗った誰かが少しでも上手くなれたり、誰かの悩みが少し軽くなったり、何らかの形で誰かの助けになることが、できていたでしょうか。

辛い合宿生活の中で、ズーマーさんがいて、ちょっとでも助かったなあと思ってくれたら、嬉しいです。

 

僕のこの一年間が、競技においても組織としても、すこしでも後輩に何か残せていて、東大ヨット部の文化と歴史に貢献できていたことを願っています。



(少しだけ脱線して、ある本の紹介を。

代替わりして今後1年間の方針を考える時に、大きく影響を与えられた本です。

 

岸見一郎・古賀史健「嫌われる勇気」

スティーブン・R・コヴィー「7つの習慣」

D・カーネギー「人を動かす」

 

他者貢献、主体性、コミュニケーションなど、多くのことを学びました。

最後の一年を考える上で外せないなとは思いつつ書くタイミングもなかったので、ここで入れさせてもらいます。

もしよかったら読んでみてください。)



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最後に謝辞を。

 

LBの皆様。

日頃からご支援いただきありがとうございます。

今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。

僕もこれからはLBの一員として、東大ヨット部を応援して参ります。

 

小松コーチ。

1年生から4年生まで、競技面も精神面も、たくさんのことを教わりました。

ヨットで世界一周した時の話、南氷洋で凍えた話、世界のビッグウェーブから、示現流に例えたスタートでの度胸の話、ヤクザに絡まれた時の逃げ方まで、いろんな話をしていただきました。

本当にお世話になりました。ありがとうございました。

今後も東大ヨット部をよろしくお願いします。

 

本多コーチ。

小松さんよりも選手に近い立場で、真夜中に送ったトンチンカンな質問にも、真剣に答えてくださりました。

現役のトップレベルのセーラーの考えていることを惜しみなく披露してくださり、東大470に新しい風が吹き込みました。

 

先輩方。

ずっと不器用で、人一倍成長が遅い僕でしたが、根気よく練習に付き合ってくださいました。

本当に尊敬できる先輩が多くて、困った時には先輩方の姿を思い出して元気をもらっていました。

先輩方が見せてくれた背中を、これからも後輩に見せられるように、がんばります。

 

マネージャーの皆さん。

マネージャーのおかげで、東大ヨット部の合宿生活は明るさ100倍です。皆さんの笑顔に、プレーヤーはどれだけ救われていることか。マネ飯が、どんなに練習の支えになっていることか。

マネージャーという立場は難しいかもしれないけど、どうかこれからも東大ヨット部を支えていってください。

 

470の1年生たち。

あまり一緒に乗ることはできなかったけど、少し乗っただけでどんどん吸収して上手くなっていくのを見て、東大ヨット部の未来は明るいなと感じました。

これから寒かったり辛いこともあるかもしれないけど、ぜひヨットを楽しんでください。

 

470の2年生たち。

人数も多くパッションもあって笑顔が絶えないこの代は、来年は4年生を支えてくれるいい予感しかしません。

 

実はしごできで視野の広い、次期主将の木村。

興味を持ったことには全力な大下。

自主練パッションが高くて成長も早い、寺口。

途中から470に移籍したのに、もう470を完全に乗りこなしているふたばちゃん。

恵まれた体格を持っていて、ズーマーさんと呼んで慕ってくれた、相川。

小松さんに褒められる身体センスを持った、飄々とした能登谷。

VRI大臣で、もらったアドバイスをどんどん取り入れていく丈夫。

 

全員で切磋琢磨して、新4年生たちを脅かしてください。



470の3年生たち。

僕たち4年生のケツを叩いて追い上げて、追い越して、切磋琢磨してくれました。

 

春インまで91で一緒に乗ってくれた西間、お世話になりました。船の中でたくさんコミュニケーションとって、一緒に成長してました。来年の主将も大変だと思うけど、西間はやりたいことをやっている時に最大の力を発揮できると思います。「これをしなきゃ」という義務感に縛られず、自分たちでいい東大ヨット部を築いていってください。

2年生からインカレに出て活躍していた槇枝は、誰を乗せても前を走る頼もしいクルーになりました。一人で抱え込みやすい気質でもあるので、周りにどんどん相談していってください。来年槇枝が作る470チームが、本当に楽しみです。

最初からセンスの塊だった北村は、ぐんぐん成長して、あっという間に29のスキッパーに。ボートスピードでは東大一でした。来年もこのまま成長して、大活躍してください。

ずっとコツコツ積み上げている悠太は、どこかで大爆発すると思います。これからも真面目に積み上げていってください。よく一緒に書いているのに頑なに見せてくれないそのヨットノート、見せてくれる日は来るのかな。

真面目かつヨットに貪欲な五熊、いつも上手い人たちの動画を見つけてきては「これどうなんですかね」と研究してて、すごいなと思っていました。研究の成果は、すでに出てきています。

苦労人だけど着実に成長していく秋田は、視野が広くて後輩にもちゃんと目が届いていて。来年のヨット部の支柱になってください。工具の管理も頑張って。

 

後輩想いのいいやつらばっかりです。みんなで支え合って競い合って、いい470チームを作ってください。

 

そして、同期たち。

全員が、ヨット部の運営に真剣に悩んで、自分の役割を模索していて。

特に成相、やまこう、中静は、目に見えるところでも見えないところでも、いろんな仕事をしてくれていて、悩んでいて。

折々でmtgして、話し合って、最終的には割といいチームを作れたんじゃないかと思います。

ヨットが好きで、ヨット部が好きなみんなが同期で、本当によかったです。

 



ここでは上げきれなかったスナイプチームの皆さん、仰秀のみんな、その他ヨットを通じて関わってくださった全ての方々、本当に、ありがとうございました。


 

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いい環境と、いい先輩と、いい後輩と、いい同期に恵まれた、素晴らしい4年間でした。



 

 

ありがとうございました。

 

 

 

東京大学運動会ヨット部

安藤 和真(ズーマー)




全日本インカレの終了並びに代交代のお知らせ

2024年11月09日 00時00分14秒 | 全日本インカレ2024

【全日本インカレ】

平素より東京大学運動会ヨット部へご支援・ご声援をいただいておりますこと、心より御礼申し上げます。ディンギー班470クルーの西間と申します。

10月31日から11月4日に渡り、神奈川県藤沢市江ノ島におきまして第89回全日本学生ヨット選手権大会が開催されました。リザルトは以下の通りです。

470級

4829 DNF(73)-40-25-49-42-29-40-51 349点

4791 DNF(73)-30-36-38-58-45-49-49 378点

4692 DNF(73)-32-46-63-35-37-31-41 358点

合計:1085点 17位

 

スナイプ級

31494 32-40-34-DSQ(73)-34-50 263点

31418 34-5-PRP(68)-35-14-42 198点

31308 17-7-23-6-28-43 124点

合計:585点 9位

 

総合

合計:1670点 12位

(順位詳細についてはこちらからご覧ください)

 

 

全日本総合入賞(6位)を目指し1年間練習に励んでまいりましたが、全日本の壁は僕らが思っていた以上に高いものであり、12位という結果に終わってしまいました。4日間を振り返ってみれば初日は風がなく1レースのみ、3日目は強風によるAPH掲揚や降雨、4日目には微風南風のレースなど、様々なコンディションの中でレースを展開していく必要があり、間違いなくヨットの「総合力」試されるレガッタでありました。

 

改めて「総合で勝つこと」の難しさ、自分たちの脇の甘さを知るレースになってしまいました。残された我々3年生以下にとって、今回で学んだことを来年に活かすことが使命だと思うし、1年後江ノ島でさらに成長し飛躍した姿を見せなければいけないと改めて感じました。

 

ここで個人的な全日本の振り返りをしようかと思いましたが、それはまた自分の次回のブログで書かせていただきたいと思います。

 

 

【代替わりのお知らせ】

併せて、ディンギー班では前主将成相さん率いる4年生の皆様が引退され、新たな代が発足、私西間が主将となりましたことを、この場をお借りしてご報告させていただきます。また今年度幹部は以下の通りです。

主将 西間 立(3年470クルー)

副将 遠藤 功大(3年Snipeスキッパー)

副将 木村 和真(2年470スキッパー)

 

クラスリーダー

470 槇枝 大祐(3年470クルー)

Snipe 市毛 佑弥(3年Snipeスキッパー)

 

会計 秋田 真太郎(3年470クルー)

 

↑同期たち@全日本インカレ こっからあと1年、一緒にがんばろうね。

 

 

「時間が足りなかった。」先輩方の多くは最後そう言ってこの部を去っていきました。初心者が多いこの東大ヨット部というチームが目標を叶えるためには、練習の「量と質」の積の最大値を一年間維持する必要があります。当面の間は代替わりミーティングなどを重ね一年間の効率的な練習体制の確立を図り、12月から海上練習を開始していく予定でございます。

 

 

 

来年、江の島で笑って泣けるように。

 

 

 

 

最高の同期や可愛い後輩たちと一緒に、一年間を大切に過ごしていきます。

 

 

 

今後とも東大ヨット部を何卒よろしくお願いいたします。

 

 

東京大学運動会ヨット部ディンギー班

主将 3年470クルー

西間 立