10月18日(日)
今日は、午前中は、子どもネット八千代企画の芋掘りに参加してきた。
小さい子たちはお砂場着に長靴を履いて、やる気満々!なのに、畑に落ちているちっちゃい芋拾いに夢中*(シャイ)*。小学生たちの中には、給食で出たスィートポテトの味が忘れられず、いっぱい作って、おなかいっぱい食べたい一心で参加した子もいる。
中学生たちも、小さい子の面倒を良く見ながら、頑張って掘りまくっていた。
私も、久しぶりの土の感触を楽しみながら、自然薯並みに長~い芋を途中で折らないように深ーく掘ったりして、結構楽しめた*(笑顔)*。
本当は、その後で、みんなでゲームをしたり、前もって掘ってふかしてきている芋を使って、スイートポテトを作って食べたりと言うプログラムもあったのだが、次の予定があるので、残念ながら途中で抜けさせてもらった。
午後からは、君津市文化ホールで開催された、3人の教員による実践報告会を聴講した。
残念ながら、最初の小学校の先生の実践報告には間に合わなかった。
二人目の栄養士さんの食育お話にはとても感動した。
病院食の栄養士の経験を生かしながら、子どもたちが残さず美味しく、積極的に給食を食べられるように、さまざまな工夫や取り組みをされていた。
担任の『残さず食べよう』と言う指導の下、昼休みに一人給食を食べては、給食袋にそっと吐き出していた女の子が、最後には量は食べられなくても、残さず食べられるようになり、
「私も、家族のために、美味しいお料理を作ってあげられるようになりたい」
と言ってくれる様になった時には感動した。
野菜嫌いの子どもたちに、農家と契約して地元で取れた新鮮で美味しい野菜を食べさせたり、調理方法や、味付けにも工夫されていた。
ところが、そうやって頑張るほど、ご家庭のほうが犠牲になっていったようなのだ。
その栄養士さんのお嬢さんが、食べ物を受け付けなくなり、不登校になってしまったのだ。
どんなに美味しい料理を作ってあげても、受け付けないのだ。
あえて、食べられるのは、唐揚げと茶碗蒸しだけ。
なぜ、『唐揚げ』と『茶碗蒸し』なのか。
それは、お嬢さんの記憶の中で、一番『美味しい記憶』だったからなのだそうだ。
夕飯に出た時にみんなで食べて美味しかった唐揚げ。
お客様がいらっしゃった時に、みんなで食べた『茶碗蒸し』の美味しさ。
その記憶だけが、お嬢さんの食欲をつなぎとめていたのだそうだ。
栄養士さんは休職し、とにかく、食べてほしくて、日に3食、唐揚げと茶碗蒸しを作って食べさせたのだそうだ。
そうしているうちに
「ママ、今度はカレーが食べたい」
と自分から言い出すようになり、徐々に、食べられるものが増えていったのだそうだ。
半年も過ぎた頃、お嬢さんが
「私は、栄養士をしているお母さんが好き。みんなのために、美味しい給食を作ってあげてね。お仕事頑張って!」
といってくれたのだそうだ。
栄養士さんは、職場復帰し、子どもたちのため、お子さんのために、今日も美味しい給食と食事を作っていらっしゃるそうだ。
聞いていて、本当に感動しながらも、一方では、身につまされていた。
仕事に熱心になるあまり、家庭よりも仕事が中心になり、我が子の『SOS』を見落としている・・・というのは、他人事ではない。
以前、大変なクラス、大変な生徒をピンチヒッターの担任として受け持った時、毎日のように、夜6:00~8:00まで生徒指導会議、それから学級のこと、その後で教科のこと等をやっていると、深夜帰宅になってしまうのがザラだった。
当時、小6の娘は、平日『音読』の宿題が出来なかった。私が帰宅すると、いつも、国語の教科書をお腹の上で開いたまま、ソファーで眠り込んでいた。
その姿を見たときに、申し訳なさで涙が出た。
3年生の進路や学年会計を担当した年は、帰りが遅くなることが多い。
初めてその仕事を担当した年は、息子の大学受験だったが、慣れない仕事に追われて、自分の子の受験のほうはまったく関わってあげられなかった。
息子は、勉強も手続きも自分で頑張って合格したのだ。
そんな、私なのに、私が精神的にピンチの時に励まし、癒してくれるのは、やはり子どもたちなのだ。
かつて、上司に面と向かって
「美術なんていらない教科だよね」
と言われ、同僚からも
「あまり美術にはまらせないで。そういう美術をやりたければ、『お絵かき教室』でもやれば?あなたのやり方は、中学校では迷惑よ。次の学校に行ったら、今のやり方は変えたほうがいいわよ」
と言われて、かなり落ち込んだことがあった。
そんな時、息子の
「俺、中学時代は美術は成績良くなかったけど、中学校に美術は必要な教科だと思うよ」
と言う言葉にどんなに励まされたことか。
大変な生徒を受け持った年も、いじめを受けて不登校になったことがある長女に、
「ママはその子のことを見捨てたりしないよね?」
と言って、夜遅い私のために、妹と二人で夕食を作っていてくれた。
着任したその日の夜に、子どもたちの前でみっともなくも
「ママは、もう、あんな学校に行きたくなーい!」
と大声を出して泣いてしまったことがある。
毎日、触れば崩れてしまいそうに心身ともにボロボロになって帰ってくる日が続いていた時に、
「ママがどんなに忙しくて、疲れて帰ってきても、仕事を持ち帰ってきても、仕事が終われば、いつものママに戻ってくれていた。
今のママは嫌い。早く帰ってきてもため息ついて泣いてばかりで、話しかけることも出来ない。私だって、聞いてほしいことや、相談したいことがあるのに・・・。私にはまだ『お母さん』が必要なんだよ。
早く、いつもの元気なママに戻って!」
どんな慰めの言葉よりも、すごくよく効くカンフル剤だった。
今、私がこうして子の仕事を続けていられるのも、家族の理解と協力、そして皆が健康でいてくれるからこそなのだ。
この『ベース』があって、初めて自分の思うような仕事ができ、情熱を傾けることが出来るのだ。
私には、『母親』と言う、私にしか出来ない大切な仕事がある。
『美味しさの記憶』・・・我家の『美味しさの記憶』はなんだろう・・・。
どんな『給食指導』よりも、我が子の『食育』を怠ってはいけないのだ。
やがて私の下を巣立っていく子どもたちが、たとえ、貧しくても食べることをおろそかにせず、健康で、豊かな心で生きていくためにも。
もう一人の先生の実践報告は、作文指導のことだったが、その熱血振りと成果のすばらしさにも感動した。
『やれば出来る』
美術にも応用できそうなヒントがたくさんあったので、ぜひ参考にしたい。
君津は遠かったし、道中いろいろあったが、苦労して行っただけの収穫はあった。
声をかけてくれ、チケットをくれた友人に感謝!
今日は、午前中は、子どもネット八千代企画の芋掘りに参加してきた。
小さい子たちはお砂場着に長靴を履いて、やる気満々!なのに、畑に落ちているちっちゃい芋拾いに夢中*(シャイ)*。小学生たちの中には、給食で出たスィートポテトの味が忘れられず、いっぱい作って、おなかいっぱい食べたい一心で参加した子もいる。
中学生たちも、小さい子の面倒を良く見ながら、頑張って掘りまくっていた。
私も、久しぶりの土の感触を楽しみながら、自然薯並みに長~い芋を途中で折らないように深ーく掘ったりして、結構楽しめた*(笑顔)*。
本当は、その後で、みんなでゲームをしたり、前もって掘ってふかしてきている芋を使って、スイートポテトを作って食べたりと言うプログラムもあったのだが、次の予定があるので、残念ながら途中で抜けさせてもらった。
午後からは、君津市文化ホールで開催された、3人の教員による実践報告会を聴講した。
残念ながら、最初の小学校の先生の実践報告には間に合わなかった。
二人目の栄養士さんの食育お話にはとても感動した。
病院食の栄養士の経験を生かしながら、子どもたちが残さず美味しく、積極的に給食を食べられるように、さまざまな工夫や取り組みをされていた。
担任の『残さず食べよう』と言う指導の下、昼休みに一人給食を食べては、給食袋にそっと吐き出していた女の子が、最後には量は食べられなくても、残さず食べられるようになり、
「私も、家族のために、美味しいお料理を作ってあげられるようになりたい」
と言ってくれる様になった時には感動した。
野菜嫌いの子どもたちに、農家と契約して地元で取れた新鮮で美味しい野菜を食べさせたり、調理方法や、味付けにも工夫されていた。
ところが、そうやって頑張るほど、ご家庭のほうが犠牲になっていったようなのだ。
その栄養士さんのお嬢さんが、食べ物を受け付けなくなり、不登校になってしまったのだ。
どんなに美味しい料理を作ってあげても、受け付けないのだ。
あえて、食べられるのは、唐揚げと茶碗蒸しだけ。
なぜ、『唐揚げ』と『茶碗蒸し』なのか。
それは、お嬢さんの記憶の中で、一番『美味しい記憶』だったからなのだそうだ。
夕飯に出た時にみんなで食べて美味しかった唐揚げ。
お客様がいらっしゃった時に、みんなで食べた『茶碗蒸し』の美味しさ。
その記憶だけが、お嬢さんの食欲をつなぎとめていたのだそうだ。
栄養士さんは休職し、とにかく、食べてほしくて、日に3食、唐揚げと茶碗蒸しを作って食べさせたのだそうだ。
そうしているうちに
「ママ、今度はカレーが食べたい」
と自分から言い出すようになり、徐々に、食べられるものが増えていったのだそうだ。
半年も過ぎた頃、お嬢さんが
「私は、栄養士をしているお母さんが好き。みんなのために、美味しい給食を作ってあげてね。お仕事頑張って!」
といってくれたのだそうだ。
栄養士さんは、職場復帰し、子どもたちのため、お子さんのために、今日も美味しい給食と食事を作っていらっしゃるそうだ。
聞いていて、本当に感動しながらも、一方では、身につまされていた。
仕事に熱心になるあまり、家庭よりも仕事が中心になり、我が子の『SOS』を見落としている・・・というのは、他人事ではない。
以前、大変なクラス、大変な生徒をピンチヒッターの担任として受け持った時、毎日のように、夜6:00~8:00まで生徒指導会議、それから学級のこと、その後で教科のこと等をやっていると、深夜帰宅になってしまうのがザラだった。
当時、小6の娘は、平日『音読』の宿題が出来なかった。私が帰宅すると、いつも、国語の教科書をお腹の上で開いたまま、ソファーで眠り込んでいた。
その姿を見たときに、申し訳なさで涙が出た。
3年生の進路や学年会計を担当した年は、帰りが遅くなることが多い。
初めてその仕事を担当した年は、息子の大学受験だったが、慣れない仕事に追われて、自分の子の受験のほうはまったく関わってあげられなかった。
息子は、勉強も手続きも自分で頑張って合格したのだ。
そんな、私なのに、私が精神的にピンチの時に励まし、癒してくれるのは、やはり子どもたちなのだ。
かつて、上司に面と向かって
「美術なんていらない教科だよね」
と言われ、同僚からも
「あまり美術にはまらせないで。そういう美術をやりたければ、『お絵かき教室』でもやれば?あなたのやり方は、中学校では迷惑よ。次の学校に行ったら、今のやり方は変えたほうがいいわよ」
と言われて、かなり落ち込んだことがあった。
そんな時、息子の
「俺、中学時代は美術は成績良くなかったけど、中学校に美術は必要な教科だと思うよ」
と言う言葉にどんなに励まされたことか。
大変な生徒を受け持った年も、いじめを受けて不登校になったことがある長女に、
「ママはその子のことを見捨てたりしないよね?」
と言って、夜遅い私のために、妹と二人で夕食を作っていてくれた。
着任したその日の夜に、子どもたちの前でみっともなくも
「ママは、もう、あんな学校に行きたくなーい!」
と大声を出して泣いてしまったことがある。
毎日、触れば崩れてしまいそうに心身ともにボロボロになって帰ってくる日が続いていた時に、
「ママがどんなに忙しくて、疲れて帰ってきても、仕事を持ち帰ってきても、仕事が終われば、いつものママに戻ってくれていた。
今のママは嫌い。早く帰ってきてもため息ついて泣いてばかりで、話しかけることも出来ない。私だって、聞いてほしいことや、相談したいことがあるのに・・・。私にはまだ『お母さん』が必要なんだよ。
早く、いつもの元気なママに戻って!」
どんな慰めの言葉よりも、すごくよく効くカンフル剤だった。
今、私がこうして子の仕事を続けていられるのも、家族の理解と協力、そして皆が健康でいてくれるからこそなのだ。
この『ベース』があって、初めて自分の思うような仕事ができ、情熱を傾けることが出来るのだ。
私には、『母親』と言う、私にしか出来ない大切な仕事がある。
『美味しさの記憶』・・・我家の『美味しさの記憶』はなんだろう・・・。
どんな『給食指導』よりも、我が子の『食育』を怠ってはいけないのだ。
やがて私の下を巣立っていく子どもたちが、たとえ、貧しくても食べることをおろそかにせず、健康で、豊かな心で生きていくためにも。
もう一人の先生の実践報告は、作文指導のことだったが、その熱血振りと成果のすばらしさにも感動した。
『やれば出来る』
美術にも応用できそうなヒントがたくさんあったので、ぜひ参考にしたい。
君津は遠かったし、道中いろいろあったが、苦労して行っただけの収穫はあった。
声をかけてくれ、チケットをくれた友人に感謝!