守田です。(20110621 16:30)
既にお伝えしたように、6月10日に、「おむすびマーケット実行委員会」の
みなさんに京北・和知にお招きいただき、お話をする会に参加してきました。
http://omusubi.keihoku.jp/info/kyoto-np_110614.html
このとき、福島から避難されてきたAさんが、お子さんたちと一緒に参加して
下さいました。京都市内から一緒に車で京北まで向かいました。
実行委員会の方のお願いもあり、僕のお話の後に、Aさんが体験を語って
下さいました。とても感動したので、Aさんにお願いして、録音を起こしたものを、
ここに掲載させていただくことにしました。内容もチェックしていただきました。
僕はこの時がAさんとの初対面だったのですが、何か古くからの友人にお会い
したような感じを持ちました。311以降の過程の中で、ともにしてきたものがある
からではないかと思えます。
・・・あのとき、僕は原発の近くにいる方たちに逃げてほしいというメッセージを
発しました。しかし大地震・大津波があり、救助隊がかけつけている状態の
中で、「逃げてください」と叫ぶことに葛藤がありました。
そんなときAさんは、子どもたちを守るためにと、福島市を飛び出されました。
県の職員として働いてきたこともあって、大変な葛藤を押されての行動でした。
その葛藤の在り方に、僕は深く共感するものがありました。
発言の中で、Aさんは、福島県から避難したことを、「県職員として、著しく常識を
逸脱している行為」と批難されたと述べておられます。Aさん自身、申し訳ない
思いがあるとも。
でも僕は、Aさんの決断は、1人の母親である県職員として、福島県民にとっても
とても貴重な決断だったと思います。Aさんの行いが、1つのメッセージとなり、
より原発に近い方の、安全な場への避難が進むことを祈るばかりです。そんな思い
も込めてAさんの発言を紹介したいです。
ちなみにこの日、京北の方たちも、Aさんの発言を割れるような拍手で迎えて
くださいました。その後の発言でも、Aさんのお話から、事故のことを本当に
身近に感じた、身を切られるような思いをしたという感想が聞かれました。
ある方は、京北町には空いていて、あまり使われていない家がある。
そういう家をまわって、避難されている方に向けて手を上げようと説得したい
とも語ってくださいました。
こうした発言は、「おむすびマーケット実行委員会」の方が、心を込めてこの
集いの場を作ってくださったことの中で、出てきたものではないかと思います。
実行委員会の方々、出席者の方々に、あらためて感謝です。
これからも、そうした努力を重ね合わせていって、放射線量が高い地域の
方々が、少しでもストレスが小さい形で避難ができるように、努力を重ねていきた
いものです。
・・・以下、Aさんのメッセージをお読みください。
*****************************
子どもたちとともに、福島から逃れてきて
福島市から避難されてきたAさん
今回の事故の後、福島から京都に避難してきたものです。
私は生まれも育ちも福島市で、大学時代の4年間に福島を出た以外はずっと
福島で暮らしてきました。
地震があった3月11日には、福島県庁の職員として、県庁の7階で仕事をして
いました。地震の時はもの凄い揺れで、何度も揺さぶられて正直な話、もう
このまま自分はダメかなと思ってしまうぐらい、本当に怖い思いをしました。
こんなことを言っていいかどうか分かりませんが直前にあった、ニュージー
ランドの地震のことが頭をよぎりました。
私の働いていた県庁の庁舎は、耐震性のランクが低いところで、震度5の地震
があったら倒壊してしまうかもしれないと言われていたところだったので、
地震が起きている最中、もう子どもたちに会えないかもしれないという思いが
ずっと心の中をよぎっていました。
避難訓練などですと、みんな机の下に隠れましょうと言っても、恥ずかしくて、
隠れたり隠れなかったりという状況だと思うのですけれども、あの時はもう、
みんなが、誰に言われるわけでもなく、自分のデスクの下に潜り込みました。
その上からロッカーが倒れてきたり、ロッカーの上の荷物が落ちてきたり天井
の板が外れて落ちてきたりということで、本当にすごく怖い思いをしました。
そして地震がおさまってすぐに、全員、外に避難しますということになって、
本当にもう、震える足で7階から階段を下りて、外に出ました。その日は寒くて
雪がちらついていましたけれども、みんな着の身着のままで、コートも着ずに
外に出て、そのままずっと夜の7時ぐらいまで待機ということで、外で待ってい
ました。
そのとき逃げてきた職員たちと、生きているって素晴らしいねといい合いました。
そうした言葉が自然に出てくるぐらい怖い思いをしました。
私は5歳と3歳の子どもがいますので、子どもたちを預けている保育園が心配で、
何度も携帯電話をかけたのですけれど、まったくつながらない状態でした。
職場から10分ぐらいの保育園だったので、上司に相談して、子どもたちを迎えに
行きたいということで、時間休をもらって子どもたちを迎えに行って実家に預け
てきました。その後また県庁の職場に戻って待機していました。
その日は周りでどういうことが起こっていたのか、津波の被害や、どこでどのよ
うな被害が出ているのか、何も分からないまま7時までただただ外で待って、そ
の日はもう夜も遅いので待機を解除します、一旦家に帰ってくださいと言われて
家に帰って、それから実家に子どもを迎えに行って家についたのが、8時過ぎ
だったかと思います。
その日は福島市内では、停電になったり、ガスや水道が止まったりした家が多
かったのですけれども、幸い、私の家は、電気もつきましたし、ガスも水道も
通っていましたので、子どもたちと夫と、とにかく全員が8時半ごろに家に集合し
て、とりあえず何もないけれども、スパゲッティをゆでてレトルトのソースをかけ
て、ご飯を食べました。
今思えば、それが最後の晩餐というか、それ以来、福島のその自宅には帰って
いません。
その日はとにかくもう疲れてしまって、テレビを見る元気もなくて、スパゲッ
ティを食べ終わって、お風呂に入ったら、もう耐えられないから寝ようねと
いって、みんなでお布団に入りました。10時か11時にはもう寝てしまったと思
うのですけれども、寝て暫くしたときに友達から携帯にメールが入りました。
なんとなく寝ぼけながら、その携帯を見たら、「私たちは福島を離れて会津方
面に行きます。そこから出来る限り、南下を試みます。みなさんありがとう。
また会える日が来ることを祈っています」というメールでした。
何か凄く嫌な予感がして、どういう意味なのだろうと、そのときは思いました
けれど、疲れていたので、そのときは嫌な予感を抱えながらもそのまま眠って
しまいました。
次の日の朝に起きて、頭がきちんとした状態で、そのメールを見返したとき、
その友達が反原発活動をしていたこともあり、「原発だ」と思いました。すぐ
に朝刊を持ってきてみたところ、福島第一原発冷却機能を失うという一面記事
を見ました。
それをみてもう大変なことになったと思いまして、私の住んでいる福島市は原
発から60キロ離れていますけれども、60キロでは大事故が起きたときにいられ
ないと思って、すぐに取るものも取りあえず、夫の実家の会津若松市に避難し
ました。
そこでその日はテレビを見ながら一泊したのですけれど、状況が本当に逼迫し
ていて、水素爆発で建屋がなくなったとか、これはもう会津若松にいても危な
いと思いました。
その日は会津若松に一泊して、翌日の早朝、兵庫にいる知人を頼って避難しよ
うと私は気持ちを固めて、夫に話をしました。夫も一緒に、家族みんなで行こ
うと言ったのですけれども、夫は仕事を休むわけにはいかないから自分は行け
ないといいました。
それで私は、本当に身を引き裂かれる思いというか、後ろ髪引かれる思いでし
たけれども、とにかく子どもたちだけは守らなければいけないと思って、私自
身も仕事がありましたけれども、ちょうどその地震が金曜日で土日を挟んでい
たというのもあるし、戻れなかったらもう仕事を失ってもいいという覚悟で、
私はそこで夫と分かれて、兵庫の知人宅に向かいました。
それで兵庫の知人宅に2週間ほどお世話になり、その後に京都府から住宅を
紹介していただいて、今現在はその住宅に入らせていただいています。
その後、職場の方からは出てくるか辞めるかどうするのかという二者択一を迫
られました。私は福島県職員でしたから、本当はこういう時こそ福島県のため
に働かなければいけない立場だとは、凄く自分でも思っていましたし、そうい
う中で自分が子どもを連れて避難してくるということに対しては、凄く葛藤が
ありました。
でも、最終的には何としても子どもたちを守りたいという気持ちが強く、本当
に福島県には申し訳ないし、職員としては失格だと思いましたけれどもとにか
く子どもたちを少しでも安全なところに連れて行きたい、そのときはそのこと
しか頭にありませんでした。
結果としてやはり、仕事は退職することになりました。職場からは、私が今回
取った行動は、県職員として、著しく常識を逸脱している行為であるため、私
は地震のパニックで、頭がおかしくなって、正常な判断ができない状態にある
のではないかとまで言われました。
今回の原発事故によって、私は仕事を失いましたし、夫を福島に残していて、
今も家族が離れ離れの生活をしています。
それから福島には、建ててからまだ1年ぐらいしか経っていない、新築したばか
りの家も残してきています。その家は子どもたちを安心して育てられるように
ということで、国産の無垢材を使って、できるだけ化学的なものを使わないで、
本当に自然素材で、自分たちでも木の色を塗ったり、壁をしっくいで塗ったり
して作った思い出いっぱいの家でした。もちろんお金も結構つぎ込んで、自分
たちの手をかけて、心をかけて、気持ちをかけて作った家でした。
そこの家では本当に一年ちょっとの間でしたけれども、薪ストーブを入れて冬
の間はみんなで薪ストーブの周りで、ご飯を食べたり、お茶を飲んだり、そう
いう何気ない生活でしたけれども、こんな生活が本当に幸せだよねといいなが
ら、毎日、家族で過ごしていました。
そんなに多くのことを望んだわけではなくて、本当に家族みんな、元気で、大
好きな家があって、そこで何気ない生活をしているのが、一番幸せだと言って、
それだけで満足して暮らしていたのに、どうしてこんなことになってしまった
のかなという凄く悔しい気持ちでいっぱいです。
私は今、家にも今後も戻れるかどうか分からないと思っていますし、もしかし
たら仕事だけではなくて、家も失うことになるかもしれない。夫も一緒にこちら
に避難するとすれば、夫も仕事を失うかもしれない。夫が避難してこないのなら
ば、家族一緒に暮らすという選択肢が取れないのかもしれない。本当に原発事
故の後、がらっと生活が変わってしまって、自分も悔しいし、もう何と言ってよい
か分からないような気持ちでいます。
ただ、今私は、子どもたちを連れて京都に来て、比較的安全な場所にいると思っ
ていますけれども、今現在、福島に残っている人たちが、小さな子供たちがまだ
まだたくさんいます。その人たちが本当はみんな避難してくればいいのにと思う
けれどもでも簡単に避難してこられない気持ちも、痛いほど分かります。
そこで暮らすということは、そこに家があって、仕事があって、そこでの暮らし
を豊かにするために、みんないろいろなものをそこで手に入れて暮らしている
と思うのです。だから突然原発事故があったから遠くに行った方がいいよと言
われても、避難するためには、仕事も失うかもしれない、家も失うかもしれない。
本当に夫婦二人で仕事を失ってしまったら次の日から生活にも困ってしまうわけ
ですよね。
だからそれまで手に入れたものを全て捨てて、全く見知らぬ土地で一から始める
と言うことはそう簡単なことではないということは、きっと誰が考えてもそう思
うのではないかと思います。
だからみんな福島に残っている人たちは、不安を抱えながら、みんな、子どもを
このままおいておいていいのかなという葛藤を抱えながら、それでも踏みきれな
いで、仕事や学校や、そうしたことに縛られて、福島に残らざるを得ない、そう
いう人たちも凄くたくさんいると思います。
そういう人たちに対して自分が出来ることがないかということを、毎日、考えて
いるのですけれども、なかなか思い浮かばないというか、本当に何も出来ないで
います。
今、福島に残っている人たちが、放射線値が高い中で、もうずいぶん被ばくをし
ていると思うのですけれども、それに加えて、福島の学校の中では、今現在、福島
県産の牛乳とか、福島県産の食材を使った給食が出されています。
それについても、私は凄く悔しい思いです。空気も土壌も汚染され、これだけ被ば
くをさせられてその上、食べ物までという気持ちがあります。本当に何重にも、
福島県民の命が軽んじられているのではないかと思って、悔しくなります。
何とかそういう点で、福島県の方にも情報を伝えてあげたいし、何とか福島県の
保護者や、今住んでいる人たちが一生懸命に活動をしているので、国の対応の
あり方とか、給食のあり方とか、そういったものを変えていけないかなと思ってい
ます。
今回の事故について、もしできましたら、ここにいるみなさんにも、これが遠い
福島のできごとではなくて、もし自分の住んでいる隣町でこの事故が起きたらど
うなのかなということを、考えてもらえたらと思います。
そしたら、今、普通の生活をしているのに、たった一日を境に、まったくがらっと
生活が激変してしまって、仕事を無くしたり、家を失ったり、そしてどこか全く
知らないところで仮住まいをして、いつもとの生活に戻れるのか、戻れるのか戻れ
ないのかさえも分からない。これから先、家族が一緒に暮らせる日がまた来るの
か、どこでその暮らしを実現するのかも見えない、そんな状況になってしまうかも
しれません。
それを少し想像していただいて、もしそんな生活は耐えられないと思う方がいらっ
しゃったら、ほとんどの方がそうだと思うのですけれども、もしそう思うのでした
ら、原発のない社会、原発以外のエネルギーを、一緒に考えていけたらいいなと
私は思います。
今、日本の周りを本当にぐるっと原発が取り巻いていて、私ももし福島市に戻れな
かったら、どこで暮らせばいいのだろう、もう二度と原発での苦労はしたくないと
考えて、地図をながめると、正直、どこもないのですよね。
本当にこの事故は、どこで起こってもおかしくない事故だったと思うし、今後、こ
れから地震が多発すると言われている中で、どこで起こるかも分からない事故だと
私は思っています。それを考えると本当に、エネルギー政策のあり方というものを、
もっともっと、国民全体で考えていくべきときなのではないのかなと思っています。
どうもありがとうございました。
既にお伝えしたように、6月10日に、「おむすびマーケット実行委員会」の
みなさんに京北・和知にお招きいただき、お話をする会に参加してきました。
http://omusubi.keihoku.jp/info/kyoto-np_110614.html
このとき、福島から避難されてきたAさんが、お子さんたちと一緒に参加して
下さいました。京都市内から一緒に車で京北まで向かいました。
実行委員会の方のお願いもあり、僕のお話の後に、Aさんが体験を語って
下さいました。とても感動したので、Aさんにお願いして、録音を起こしたものを、
ここに掲載させていただくことにしました。内容もチェックしていただきました。
僕はこの時がAさんとの初対面だったのですが、何か古くからの友人にお会い
したような感じを持ちました。311以降の過程の中で、ともにしてきたものがある
からではないかと思えます。
・・・あのとき、僕は原発の近くにいる方たちに逃げてほしいというメッセージを
発しました。しかし大地震・大津波があり、救助隊がかけつけている状態の
中で、「逃げてください」と叫ぶことに葛藤がありました。
そんなときAさんは、子どもたちを守るためにと、福島市を飛び出されました。
県の職員として働いてきたこともあって、大変な葛藤を押されての行動でした。
その葛藤の在り方に、僕は深く共感するものがありました。
発言の中で、Aさんは、福島県から避難したことを、「県職員として、著しく常識を
逸脱している行為」と批難されたと述べておられます。Aさん自身、申し訳ない
思いがあるとも。
でも僕は、Aさんの決断は、1人の母親である県職員として、福島県民にとっても
とても貴重な決断だったと思います。Aさんの行いが、1つのメッセージとなり、
より原発に近い方の、安全な場への避難が進むことを祈るばかりです。そんな思い
も込めてAさんの発言を紹介したいです。
ちなみにこの日、京北の方たちも、Aさんの発言を割れるような拍手で迎えて
くださいました。その後の発言でも、Aさんのお話から、事故のことを本当に
身近に感じた、身を切られるような思いをしたという感想が聞かれました。
ある方は、京北町には空いていて、あまり使われていない家がある。
そういう家をまわって、避難されている方に向けて手を上げようと説得したい
とも語ってくださいました。
こうした発言は、「おむすびマーケット実行委員会」の方が、心を込めてこの
集いの場を作ってくださったことの中で、出てきたものではないかと思います。
実行委員会の方々、出席者の方々に、あらためて感謝です。
これからも、そうした努力を重ね合わせていって、放射線量が高い地域の
方々が、少しでもストレスが小さい形で避難ができるように、努力を重ねていきた
いものです。
・・・以下、Aさんのメッセージをお読みください。
*****************************
子どもたちとともに、福島から逃れてきて
福島市から避難されてきたAさん
今回の事故の後、福島から京都に避難してきたものです。
私は生まれも育ちも福島市で、大学時代の4年間に福島を出た以外はずっと
福島で暮らしてきました。
地震があった3月11日には、福島県庁の職員として、県庁の7階で仕事をして
いました。地震の時はもの凄い揺れで、何度も揺さぶられて正直な話、もう
このまま自分はダメかなと思ってしまうぐらい、本当に怖い思いをしました。
こんなことを言っていいかどうか分かりませんが直前にあった、ニュージー
ランドの地震のことが頭をよぎりました。
私の働いていた県庁の庁舎は、耐震性のランクが低いところで、震度5の地震
があったら倒壊してしまうかもしれないと言われていたところだったので、
地震が起きている最中、もう子どもたちに会えないかもしれないという思いが
ずっと心の中をよぎっていました。
避難訓練などですと、みんな机の下に隠れましょうと言っても、恥ずかしくて、
隠れたり隠れなかったりという状況だと思うのですけれども、あの時はもう、
みんなが、誰に言われるわけでもなく、自分のデスクの下に潜り込みました。
その上からロッカーが倒れてきたり、ロッカーの上の荷物が落ちてきたり天井
の板が外れて落ちてきたりということで、本当にすごく怖い思いをしました。
そして地震がおさまってすぐに、全員、外に避難しますということになって、
本当にもう、震える足で7階から階段を下りて、外に出ました。その日は寒くて
雪がちらついていましたけれども、みんな着の身着のままで、コートも着ずに
外に出て、そのままずっと夜の7時ぐらいまで待機ということで、外で待ってい
ました。
そのとき逃げてきた職員たちと、生きているって素晴らしいねといい合いました。
そうした言葉が自然に出てくるぐらい怖い思いをしました。
私は5歳と3歳の子どもがいますので、子どもたちを預けている保育園が心配で、
何度も携帯電話をかけたのですけれど、まったくつながらない状態でした。
職場から10分ぐらいの保育園だったので、上司に相談して、子どもたちを迎えに
行きたいということで、時間休をもらって子どもたちを迎えに行って実家に預け
てきました。その後また県庁の職場に戻って待機していました。
その日は周りでどういうことが起こっていたのか、津波の被害や、どこでどのよ
うな被害が出ているのか、何も分からないまま7時までただただ外で待って、そ
の日はもう夜も遅いので待機を解除します、一旦家に帰ってくださいと言われて
家に帰って、それから実家に子どもを迎えに行って家についたのが、8時過ぎ
だったかと思います。
その日は福島市内では、停電になったり、ガスや水道が止まったりした家が多
かったのですけれども、幸い、私の家は、電気もつきましたし、ガスも水道も
通っていましたので、子どもたちと夫と、とにかく全員が8時半ごろに家に集合し
て、とりあえず何もないけれども、スパゲッティをゆでてレトルトのソースをかけ
て、ご飯を食べました。
今思えば、それが最後の晩餐というか、それ以来、福島のその自宅には帰って
いません。
その日はとにかくもう疲れてしまって、テレビを見る元気もなくて、スパゲッ
ティを食べ終わって、お風呂に入ったら、もう耐えられないから寝ようねと
いって、みんなでお布団に入りました。10時か11時にはもう寝てしまったと思
うのですけれども、寝て暫くしたときに友達から携帯にメールが入りました。
なんとなく寝ぼけながら、その携帯を見たら、「私たちは福島を離れて会津方
面に行きます。そこから出来る限り、南下を試みます。みなさんありがとう。
また会える日が来ることを祈っています」というメールでした。
何か凄く嫌な予感がして、どういう意味なのだろうと、そのときは思いました
けれど、疲れていたので、そのときは嫌な予感を抱えながらもそのまま眠って
しまいました。
次の日の朝に起きて、頭がきちんとした状態で、そのメールを見返したとき、
その友達が反原発活動をしていたこともあり、「原発だ」と思いました。すぐ
に朝刊を持ってきてみたところ、福島第一原発冷却機能を失うという一面記事
を見ました。
それをみてもう大変なことになったと思いまして、私の住んでいる福島市は原
発から60キロ離れていますけれども、60キロでは大事故が起きたときにいられ
ないと思って、すぐに取るものも取りあえず、夫の実家の会津若松市に避難し
ました。
そこでその日はテレビを見ながら一泊したのですけれど、状況が本当に逼迫し
ていて、水素爆発で建屋がなくなったとか、これはもう会津若松にいても危な
いと思いました。
その日は会津若松に一泊して、翌日の早朝、兵庫にいる知人を頼って避難しよ
うと私は気持ちを固めて、夫に話をしました。夫も一緒に、家族みんなで行こ
うと言ったのですけれども、夫は仕事を休むわけにはいかないから自分は行け
ないといいました。
それで私は、本当に身を引き裂かれる思いというか、後ろ髪引かれる思いでし
たけれども、とにかく子どもたちだけは守らなければいけないと思って、私自
身も仕事がありましたけれども、ちょうどその地震が金曜日で土日を挟んでい
たというのもあるし、戻れなかったらもう仕事を失ってもいいという覚悟で、
私はそこで夫と分かれて、兵庫の知人宅に向かいました。
それで兵庫の知人宅に2週間ほどお世話になり、その後に京都府から住宅を
紹介していただいて、今現在はその住宅に入らせていただいています。
その後、職場の方からは出てくるか辞めるかどうするのかという二者択一を迫
られました。私は福島県職員でしたから、本当はこういう時こそ福島県のため
に働かなければいけない立場だとは、凄く自分でも思っていましたし、そうい
う中で自分が子どもを連れて避難してくるということに対しては、凄く葛藤が
ありました。
でも、最終的には何としても子どもたちを守りたいという気持ちが強く、本当
に福島県には申し訳ないし、職員としては失格だと思いましたけれどもとにか
く子どもたちを少しでも安全なところに連れて行きたい、そのときはそのこと
しか頭にありませんでした。
結果としてやはり、仕事は退職することになりました。職場からは、私が今回
取った行動は、県職員として、著しく常識を逸脱している行為であるため、私
は地震のパニックで、頭がおかしくなって、正常な判断ができない状態にある
のではないかとまで言われました。
今回の原発事故によって、私は仕事を失いましたし、夫を福島に残していて、
今も家族が離れ離れの生活をしています。
それから福島には、建ててからまだ1年ぐらいしか経っていない、新築したばか
りの家も残してきています。その家は子どもたちを安心して育てられるように
ということで、国産の無垢材を使って、できるだけ化学的なものを使わないで、
本当に自然素材で、自分たちでも木の色を塗ったり、壁をしっくいで塗ったり
して作った思い出いっぱいの家でした。もちろんお金も結構つぎ込んで、自分
たちの手をかけて、心をかけて、気持ちをかけて作った家でした。
そこの家では本当に一年ちょっとの間でしたけれども、薪ストーブを入れて冬
の間はみんなで薪ストーブの周りで、ご飯を食べたり、お茶を飲んだり、そう
いう何気ない生活でしたけれども、こんな生活が本当に幸せだよねといいなが
ら、毎日、家族で過ごしていました。
そんなに多くのことを望んだわけではなくて、本当に家族みんな、元気で、大
好きな家があって、そこで何気ない生活をしているのが、一番幸せだと言って、
それだけで満足して暮らしていたのに、どうしてこんなことになってしまった
のかなという凄く悔しい気持ちでいっぱいです。
私は今、家にも今後も戻れるかどうか分からないと思っていますし、もしかし
たら仕事だけではなくて、家も失うことになるかもしれない。夫も一緒にこちら
に避難するとすれば、夫も仕事を失うかもしれない。夫が避難してこないのなら
ば、家族一緒に暮らすという選択肢が取れないのかもしれない。本当に原発事
故の後、がらっと生活が変わってしまって、自分も悔しいし、もう何と言ってよい
か分からないような気持ちでいます。
ただ、今私は、子どもたちを連れて京都に来て、比較的安全な場所にいると思っ
ていますけれども、今現在、福島に残っている人たちが、小さな子供たちがまだ
まだたくさんいます。その人たちが本当はみんな避難してくればいいのにと思う
けれどもでも簡単に避難してこられない気持ちも、痛いほど分かります。
そこで暮らすということは、そこに家があって、仕事があって、そこでの暮らし
を豊かにするために、みんないろいろなものをそこで手に入れて暮らしている
と思うのです。だから突然原発事故があったから遠くに行った方がいいよと言
われても、避難するためには、仕事も失うかもしれない、家も失うかもしれない。
本当に夫婦二人で仕事を失ってしまったら次の日から生活にも困ってしまうわけ
ですよね。
だからそれまで手に入れたものを全て捨てて、全く見知らぬ土地で一から始める
と言うことはそう簡単なことではないということは、きっと誰が考えてもそう思
うのではないかと思います。
だからみんな福島に残っている人たちは、不安を抱えながら、みんな、子どもを
このままおいておいていいのかなという葛藤を抱えながら、それでも踏みきれな
いで、仕事や学校や、そうしたことに縛られて、福島に残らざるを得ない、そう
いう人たちも凄くたくさんいると思います。
そういう人たちに対して自分が出来ることがないかということを、毎日、考えて
いるのですけれども、なかなか思い浮かばないというか、本当に何も出来ないで
います。
今、福島に残っている人たちが、放射線値が高い中で、もうずいぶん被ばくをし
ていると思うのですけれども、それに加えて、福島の学校の中では、今現在、福島
県産の牛乳とか、福島県産の食材を使った給食が出されています。
それについても、私は凄く悔しい思いです。空気も土壌も汚染され、これだけ被ば
くをさせられてその上、食べ物までという気持ちがあります。本当に何重にも、
福島県民の命が軽んじられているのではないかと思って、悔しくなります。
何とかそういう点で、福島県の方にも情報を伝えてあげたいし、何とか福島県の
保護者や、今住んでいる人たちが一生懸命に活動をしているので、国の対応の
あり方とか、給食のあり方とか、そういったものを変えていけないかなと思ってい
ます。
今回の事故について、もしできましたら、ここにいるみなさんにも、これが遠い
福島のできごとではなくて、もし自分の住んでいる隣町でこの事故が起きたらど
うなのかなということを、考えてもらえたらと思います。
そしたら、今、普通の生活をしているのに、たった一日を境に、まったくがらっと
生活が激変してしまって、仕事を無くしたり、家を失ったり、そしてどこか全く
知らないところで仮住まいをして、いつもとの生活に戻れるのか、戻れるのか戻れ
ないのかさえも分からない。これから先、家族が一緒に暮らせる日がまた来るの
か、どこでその暮らしを実現するのかも見えない、そんな状況になってしまうかも
しれません。
それを少し想像していただいて、もしそんな生活は耐えられないと思う方がいらっ
しゃったら、ほとんどの方がそうだと思うのですけれども、もしそう思うのでした
ら、原発のない社会、原発以外のエネルギーを、一緒に考えていけたらいいなと
私は思います。
今、日本の周りを本当にぐるっと原発が取り巻いていて、私ももし福島市に戻れな
かったら、どこで暮らせばいいのだろう、もう二度と原発での苦労はしたくないと
考えて、地図をながめると、正直、どこもないのですよね。
本当にこの事故は、どこで起こってもおかしくない事故だったと思うし、今後、こ
れから地震が多発すると言われている中で、どこで起こるかも分からない事故だと
私は思っています。それを考えると本当に、エネルギー政策のあり方というものを、
もっともっと、国民全体で考えていくべきときなのではないのかなと思っています。
どうもありがとうございました。