明日に向けて

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明日に向けて(1135)カルヴァン主義の不寛容性(スコットランド啓蒙思想に学ぶー3)

2015年08月29日 17時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です(20150829 17:00)

8月30日に京都市のかぜのねで行う以下の企画に向けた論稿の3回目です。

 日本の社会活動のあり方を考えよう
 -スコットランド啓蒙思想の対話性と現実性に学ぶ-
 https://www.facebook.com/events/795032107261199/

3、カルヴァン主義の不寛容性

スコットランドの人々が打ち出したシンパシイ理論の立場は、王権神授説への批判を論理的に純化するにつれて、神学から離れていく側面を持っていましたが、それはカルヴァン主義への批判の面からも促進される位置性を持っていました。
先にも見たように、イギリスのピューリタンはカルヴァン主義に依拠し、国王を頂点とするイギリス国教会の、新教と旧教の折衷的なあり方を批判を鮮烈に批判していましたが、そのことが結束力の強さももたらしていました。
とりわけ信仰心の篤い信徒だけで構成し、「良家の師弟でなければ指揮官になれない」という当時のイギリスの習慣をも破ったクロムウェル率いる「鉄騎兵」は当時のヨーロッパの中で最強と言われる軍団を形成しました。

この鉄騎兵のもとにピューリタンは国王の軍隊を次々と打ち破りましたが、市民革命の成功の後には、カソリック教徒の多かったスコットランドやアイルランドにも無慈悲に攻め込み、特に後者のダブリンへの侵攻では4000人の無差別殺戮が行われました。
このときはピューリタンに属していた兵士たちや庶民の組織である平等派(レベラーズ)や真正水平派(デッカーズ)が反対にまわりましたが、これにも粛清・弾圧でのぞんだため、市民革命への支持が失われ、やがて王政復古がもたらされました。
このためピューリタンの仮借なき暴力の発動に辟易としながらも、なお王政の復古を望まず市民革命の継続を求めた人々は、こうした理不尽なテロルに依拠しない、再度の変革を希求するようになっていきました。

後年、ドイツの社会学者のマックス・ウェーバー(1864~1920)が、カルヴァニズムの禁欲主義と不寛容性こそが資本主義社会を作り上げる原動力となったという考察を『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で展開しました。
少しそこから考察を深めてみると、ウェーバーはカルヴァン派が自らを神に「選ばれたる者」と認識しており、それ以外のものを救う対象どころか神に見捨てられたものだとするきわめて極端な考え方に支配されていたことを指摘しました。
しかもカルヴァン派のもともとの教義では、神の意志は絶対であり人間の行いによる変更は不可能なものとされていました。そのため実は「選ばれたる者」とそうでないものが、誰なのかも本来、人間には知り得ないことになります。

ウェーバーはこの教義のため、選ばれた者とそれ以外のものの差は「現世から外面的に分離されていた中世の修道士の場合よりも原理的に一層架橋しがたく、また目に見えないだけに一層恐ろしいものになった」と指摘しています。
「隣人の罪悪に対する場合、選ばれた者、つまり聖徒たちが神の恩恵に応えてとるべきふさわしい態度は、自分たちの弱さを意識して寛大に救助の手を差し延べるのではなく、永遠の滅亡への刻印を見に帯びた神の敵への憎悪と蔑視になったから」です。
(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫版p207-208)

もともと「宗教改革」の中で登場してきたカルヴァンは、バチカンを無視し、教会勢力を批判する中で、神の強烈な絶対化を掲げていました。
とりわけカルヴァンは、エデンにおけるアダムとイブの堕罪以前に人間の救いと滅びは神によって決定されており、人間のいかなる営為もそれに影響を与えることはできないという「二重予定説」を唱え、人間はその中身も知ることができないと主張しました。
その冷徹な主張は、信徒たちの間に絶大な不安を呼び起こし、やがてただ可能なのは自らが神に選ばれた存在、神の千年王国実現の武器であると確信し、一時も休むことなく神の事業のために働き続けることだという考えを生み出していきます。

ウェーバーはここに、質素倹約に基づき、ひたすら資本の増大にまい進する資本主義的エートスが生まれたと論じたのですが、それはさらに転じて、己は神の武器であり、逆らうものは神の敵だと言う強烈な信念を形成するに至りました。
その意味でカルヴァンの唱える神は、「慈愛」などとはほど遠い存在であり、こうした考え方を信じ込むことからピューリタンは、反対するもののみならず自らに属さないものすべてを神の敵とする強烈なセクト主義を形成していったのでした。
もっともこうした不寛容さは、けしてプロテスタントだけのものではなく、イギリスのカソリック回帰をめざした「ブラッディマリー(メアリ1世)」にも顕著なように、キリスト教に共通のもので、各派はこの「不寛容」を誇りとさえしていました。

これらを踏まえたときに、正義の名の下の流血にうんざりした人々が、1688年に無血革命=「名誉革命」政府を支持した観点に、キリスト教的な原理を盾にとった過酷な殺戮の体質への批判が価値化されていたことは理解しやすいと思います。
これらのことは、例えば宗教的寛容を自由主義の核心として訴えたロックの『寛容についての書簡』などによくあらわされています。ロックは明らかに宗教的対立の克服を目指していたのでした。
そのことは正義の根拠を神におく絶対的正義の立場から、不完全な人間におく相対的正義の立場への移行が始まったことをも意味していました。イギリス経験論はこのようにして非原理的=経験主義的な立場をとっていったのでした。

一方で、このピューリタン革命の過程で、イギリス国教会の弾圧から逃れるためにメイフラワー号などでアメリカ大陸に渡った多くの人々がいました。
イギリス本国ではその後にピューリタンが王政を破って権力の座についたものの、苛烈な暴力性ゆえに王政復古を招き、もう一度の変革として名誉革命を経て・・・という経緯を辿っていったことを見てきましたが、アメリカでは別でした。
むしろ建国の理念の中心にピューリタニズムをおいて発展したのがアメリカ合衆国であり、カルヴァン派の苛烈な暴力性はその後、アメリカにおいて開花したとも言えるように思えます。その象徴の一つが広島・長崎への原爆投下だったのではないでしょうか。

他方でこの絶対的真理とそれを支える己というヨーロッパの伝統に根強かった支配的精神を無批判的に受け継いでしまったのが、スターリン主義下の旧ソ連邦であったように思えます。
とくに革命後の内戦の混乱の中で1924年にレーニンが死亡して以降、革命の国ソ連は壮絶な内部闘争を繰り広げていきました。当初、社会主義の発展方向をめぐる路線論争であったそれは、暴力的な対立に発展してしまいました。
しかも「社会主義の国、ソ連にはもはや階級は存在せず、階級対立はない。したがって革命に反対するのは帝国主義が送りこんだスパイ=人民の敵だ」という論理が組み上げられ、ソ連共産党に反対するものが「人民の敵」として次々に粛清されていきました。

こうしたソ連共産党の暴力的体質はその後の世界中の共産主義運動に多かれ少なかれ多大な影響を及ぼしたのではなかったでしょうか。
「いやあれはニセの共産主義だ、マルクス主義だ」と語ることは簡単なのですが、事実として世界の多くの共産主義勢力がきわめて不寛容な体質を持ち、「革命の大義」の名のもとに、反対者に暴力を振るうことを常態化してきてしまいました。
その意味で多くの共産主義運動に共通の傾向としても、カルヴァン主義に顕著だった禁欲性と不寛容性があげられるように思えます。ヨーロッパの伝統でもあったこの傾向を、共産主義運動は自覚的に越えることができなかったのではないでしょうか。

これらの点を整理した時に、私たちは単にカルヴァン主義の不寛容性の克服という点だけからではなく、それこそウェーバーが指摘したように近代社会の形成にこの神学的勧善懲悪論が大きくコミットしてきたことに自覚的になる必要があると思うのです。
その場合の「神学」はもはやキリスト教だけのものではありません。ある意味では「物質の神学」とも言える唯物論的絶対化思考も同じではないでしょうか。
というよりも近代社会のエートスとして私たちは多かれ少なかれ「勧善懲悪論」を私たちの一部としてしまっていること、絶対的正義、絶対善と絶対悪という二項図式の中に私たちがあることを踏まえて、その克服を模索することが大切だと思えるのです。

続く

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明日に向けて(1134)市民革命で繰り返された流血のはてに(スコットランド啓蒙思想に学ぶ―2)

2015年08月29日 11時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です(20150829 11:00)

8月30日に京都市のかぜのねで行う以下の企画に向けた論稿の2回目です。

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2、市民革命で繰り返された流血のはてに

今回はイギリス経験論を生んだ時代背景の考察をしてみましょう。スコットランド啓蒙思想を含むイギリス経験論は先にも述べたように1640年代の市民革命からの流れの中で生み出された思想でした。
これに先んじる時代は中世から近世への架橋の時代でした。ヨーロッパ中世はカソリックの支配が絶大でしたが、次第にそれぞれの荘園領主であった諸侯の力が増していき、国王となり、バチカンを頂点とした中世支配が揺るぎ始めました。
農奴制に基づいた農耕労働が基盤であった状態から、次第に中世都市が確立していき、物資の交易を専業とする商人が勃興しだした時代でもあり、その中でバチカンの支配に抗議する人々「プロテスタント」が現れ始めました。

このためヨーロッパ各地でカソリック対プロテスタントの宗教戦争が起こったわけですが、イギリスでもバチカンに従っていた国王のヘンリー8世が独立を目指します。
しかしその理由は教義的なものではなくて、王妃キャサリン・オブ・アラゴンと離婚しようとしたことに対し、もともと離婚を認めないバチカンが許可を出さないことに対抗しての離脱でした。このときイギリス国教会が生まれました。
このため当初、イギリス国教会はバチカンからは離脱したものの、カソリック的な儀式を守っていましたが、ヘンリー8世の息子のエドワード6世の時代、1550年ごろまでに、プロテスタンの側への大きな変貌を見せ始めました。

ところが1553年にメアリー1世が女王となるや再び方向性が一変します。もともとメアリはヘンリー8世と、離婚されたキャサリン・オブ・アラゴンの間の娘であったことから国教会をひどく嫌い、プロテスタントに過酷な弾圧を加えました。
そのあり方はあまりにも血みどろだったと言われ、メアリ1世は後に「血まみれのメアリー(ブラッディメアリー)」とあだ名されるようになりました。この名は今日ではトマトジュースをウォッカでわったカクテルの名となっています。
メアリーは人心を急速に失ったまま1558年に卵巣腫瘍から死亡しましたが、その後にエリザベス1世に王位が移ることでイギリスのカソリック回帰運動はなくなりました。メアリーの死んだ11月17日は「圧政から解放された日」として200年間祝われたそうです。

エリザベス1世はイギリス国教会のますますのプロテスタント化を進めましたが、それでも王室の世俗的な争いに端を発したプロテスタント化の流れには旧教との折衷的な部分も多く、反発した人々が「純粋化」を求め「ピューリタン」を形成していきます。
この頃プロテスタントの運動はドイツに発したマルティン・ルターを中心とする「ルーター派(ドイツ語的にはルーテル派)」とフランスに生まれたジャン・カルヴァンを中心とする「カルヴァン派」が主流となっておりイギリスには後者が浸透していました。
このピューリタン(イギリスのカルヴァン派)は、イギリス国教会を内部から変えようとする長老派と、分離独立を目指す勢力に分かれていき、後者はさらに会衆派、バプティスト、クエーカー、分離派などに分かれて行きました。

イギリス王政はエリザベス1世のもとで強い力を得ていきます。とくに1588年アルマダの海戦でカソリックの大国スペイン海軍をイギリス海軍が撃破したことで一気にイギリスは強国化していきました。
これとともに王室の権限も強まり、絶対王政と化して、国王たちは「王権神授説」を唱えるようになりました。自分たちの支配の権限は神によって与えられたものだとしたのでした。
ところがこの絶対王政のもとでかえって商業的な取引が発達したことから商人たちもまた力を得るようになり、王権に逆らうようになりました。これらの人々の多くピューリタンに与していき、やがて勃興したのが1640年代の内戦でした。

結局この戦いは1642年から49年まで、イングランド、スコットランド、アイルランドの三つ巴の争いの様相をも呈しつつ、激しい戦闘の繰り返しになり、ピューリタンの勝利に終わりました。
しかしその後にもピューリタンがスコットランドやアイルランドに侵攻して殺りくを行うなど、あまりに苛烈な暴力を振るった結果、1666年には再び王政復古を迎えてしまうことになりました。
ところが復活した国王がまたしても絶対王政とカソリックへの回帰を示したことから、再度の市民革命が1688年に起こり、国王ジェームズ2世が追放されましたが、この時には「血で血を洗う」報復の応酬への反省として無血革命の道が選ばれました。

血を流さなかったことが栄誉と称えられるとともに、カソリック回帰の傾向が最後的に閉ざされ、イギリス国教会の位置が確立されたことをもって「名誉革命」と名付けられた革命でした。
このときオランダから市民の合意に従う「民主的な王」として迎えられたのが「オレンジ公ウィリアムス3世」でした。以降、オレンジ色はプロテスタントを象徴する色となっていきました。
ただし「無血」といっても、その後、名誉革命政府はカソリックの反抗に対して何度も戦闘を行っています。とくにジェームズ2世の側についたスコットランドや、カソリックの側についたアイルランドに対して、激しい攻撃が繰り返されました。

イギリス経験論は、以上、見てきたようなプロテスタントの勃興の元での王政の絶対化と、その後の市民革命の対置という脈絡の中で、市民革命政府を自己肯定的にあとづけるものとして登場してきたものであったと言えます。
その始祖は名誉革命を哲学的に意味づけたジョン・ロック(1632~1704)でした。ロックは市民政府の統治の合法的な根拠として、ホッブス(1588~1679)に始まる自然法思想と社会契約論を独自に解釈しなおして提出していきました。
王権神授説に対してロックは、「神は全ての人間に平等に理性を与えた。理性は人間が他人の生命や財産(自然権)を相互に尊重しあっていける能力であり、その理性の命じる方が自然法である」という立場を打ち出しました。

ロックは自然法は明文化されていないためにそれそれが解釈すると衝突が起こるので、人間は原始的に自然権を政府に預けることを相互に契約した。それゆえ統治権は立法によって成立する政府に預けられているという立場をとりました。
「社会契約説」と言われるもので、そこには契約を破った政府は当然にも倒していいという革命思想も含まれていました。
このためこうした考察は、その後のアメリカ独立戦争の指導的理念ともなっていきました。

しかしこのロックの主張は、神が理性を人間に授けたのだという点に弱点を持っていました。なぜならこれでは神が支配権を王に与えたと言う王権神授説とその正当性の根拠は等しく、王権批判を十全に提起しえてはいかなかったからです。
このロックの矛盾と言われた神を根拠とした自然法思想の限界に対し、もっともはやくその克服を唱える位置にたったのがスコットランド啓蒙思想であり、デヴィット・ヒュームやアダム・スミスでした。
先にも述べたようにスコットランドは、王権を苛烈に批判したピューリタンによっても迫害された経験を持つがゆえに、神を根拠した「自由主義思想」の限界にもっとはやく気が付く位置にいたからでした。

続く

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