明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1721)トリニティサイトの周りの被爆者と交流して (ニューメキシコの旅9)

2019年07月21日 11時07分03秒 | 明日に向けて(1701~1900)

守田です(20190721 11:00 シアトル時間) 

ニューメキシコの旅の最終盤を迎えています。すでに僕はアルバカーキを発ち、いまシアトル空港で乗り継ぎ中です。

こちらに着いて携帯をオンにしたら倉林明子さん当選の報が飛び込んできました。嬉しい!力をお貸し下さったみなさま。ありがとうございます。

あ、でも「力を貸してもらう」という言い方はもう古いのかも。彼女を当選させたみんなが主人公なのですから。

さて選挙のことはまた改めてゆっくり書くとして、アメリカからのニューメキシコの旅の最後の報告を行いたいと思います。

今回のこの旅の終盤で僕は二つの旅をしました。一つはアルバカーキから南東にロングドライブで向かい、カルスバードの東にWIPPという核廃棄物処分場等を見学してきました。

もう一つはやはりアルバカーキから南に向かいトリニティサイトの近くまで行ってきました。このうち後者の報告をアメリカからの発信の最後としたいと思います。

 

トリニティサイトのこと

トリニティサイトとは1945年7月16日に世界で初めての核実験が行われたところです。
ロスアラモスで作られたプルトニウム型原爆(長崎に落とされたのと同じもの)が運び込まれ、爆発実験が行われました。
それから74年目の日を迎えたことを踏まえて20日に地元の人々による集会とキャンドルビジルが開かれたので参加してきました。(集会自身は毎年行われています)


トリニティサイトはアラモゴードとソコロという町に挟まれて存在しています。爆発地点はソコロの南東です。
今はアメリカ軍のホワイトサンズ米軍は全てを機密にしていました。このため「遠隔地の火薬庫が爆発したが、死者・負傷者は出なかった」と発表されました。
しかし当然ながら大きなきのこ雲が発生しました。膨大な放射能が周辺住民に降り注いだ。しかし誰にもその事実は告げられないまま、多くの人々が被ばくしてしまったのです。


トリニティサイト近くの看板の横で。行動を共にしたニューヨーク在住のアーティスト田中康予さんと共に

ここにロンさんという核廃絶運動を担っている方の車で向かいました。ニューヨークに住まう芸術家でナバホネーションでの集会で知り合った田中康代さんとご一緒しました。
朝9時にアルバカーキを発ち、途中でトリニティサイトの説明がなされた看板があるところなどを通過しながらアラモゴードに着いたのは1時ごろ。
集会に向かうとアラモゴードやソコロなどの住民の方たち、おそそ40人ぐらいが参加していました。


アラモゴードでの住民集会の後景 みんなががん被害について語った・・・(守田撮影)


次々とガンで倒れた人々の話が

集会ではトリニティサイトでの核実験で周辺住民が激しく被ばくさせられたことが主催者から語られました。
続いて参加者一人一人が語りはじめましたが、これがなんともすごかった。参加している全員が健康被害の当事者なのです。
例えば僕の席の少し前にいた女性は、核実験の8日後に生まれ、やがて結婚して子どもを3人産んだら2人ががんになったという。そのうちの一人の娘さんも「私はがんのサバイバーです」と発言されました。

他にも両親がガンで早くに亡くなった。子どもを白血病で失ったなどの発言が続いていきます。
涙ながらに「私の妹がつい最近、白血病で亡くなってしまった。父も母もガンで亡くなり、他の兄弟も。。。」と話される方も。
とにかく参加者全員がなんらかの被害と関係していました。壮絶な告白が続きました。

僕も発言が回ってきたので、僕が被ばく二世であり、だからこそ核兵器と原発に怒りを持っていることを述べました。
同時に「ここにきて僕はみなさんが自分の家族だと思っています。私たちは同じ犠牲者であり、同時に同じ夢を持っています。核のない世を作ること、平和な世界を作ることです」とも。
そうしたら割れるような拍手で応えてくれました。


キャンドルビジルに参加して

午後の集会を終え、夜の8時に再び集いました。子ども用の小さなベースボールグラウンドでした。
そこのちょうど内野の守備に当たるところにぐるりと小さな紙袋が置かれている。近寄ってみると名前が書いてあり、中にキャンドルが入っていました。


亡くなった家族の名を記した紙袋(守田撮影)

バックネットの裏には家族のがん死亡者一同を貼り出している方も。許可をいただいて一緒に写真を撮らせていただきました。


ガンで倒れた家族の一覧写真を掲げた女性とツーショット

一人一人のことが書いてあるのですが、そのうちの一人、アドリアナ・モントーヤさんは1991年生まれ、2014年に白血病で亡くなったと書かれている。23年の短い生涯です。


アドリアナさんの遺影(守田撮影)

やがてセレモニーが始まりました。地域の教会の牧師さん?神父さん?の挨拶、アメリカの国会議員5人の声明が代読された後、いろいろな方が発言。
それが終わると鐘とインディアンドラムを鳴らしながら一人一人の名前が朗々と読み上がれました。長い時間をかけて丁寧に。


キャンドルにあかりを灯して名前を読み上げていく

最後には「がんのサバイバーの方、集まって」とアナウンスされ人々がフィールドの中に。僕と康代さんも「おいでおいで」と招かれるとサークルを作って祈りが行われました。
コーディネータの方が一人一人の肩を掴んで語りかけています。「あなたはとても大切な存在だ」と語りかけていたのだと思います。
参加者の多くが涙を流していました。僕には午後の集会での発言への丁寧な感謝を語っていただけました。

 
いままさにがんと格闘している人々が輪になって(守田撮影)

旅を終えるに当たって 

こうしてキャンドルビジルが終わったのが午後10時。現場を出たのはその30分後、そこから350キロ以上の道のりを戻りました。
ロンさんが「うー、おー」と叫んで眠気を退治しながら疾走。途中からラップをかけてみんなでじゃんじゃか手拍子をしながらアルバカーキに戻りました。夜中の2時過ぎでした。
そして4時に起き、パッキングを終え、5時にピックアップしてもらってアルバカーキ空港へ。7時に飛びだち、今、シアトルです。

とにかく今回の旅で僕は自分の原点をとても力強く再確認できたと思っています。

人々を被ばくから守ること、これ以上の被ばくを止めること、だから核兵器と原発を止めることです。
いやそれだけじゃない。戦争と差別と抑圧の全てを無くしたい。夢だと言われようがなんだろうが僕はこの道を歩みます。今回知り合った全ての人々とともに。

最後になりますが、今回の旅は丹波篠山し原子力災害対策検討委員会委員をともに担う玉山ともよさんの素晴らしいコーディネートで実現しました。
現地ではナバホ・ディネの一員でウラン鉱山の問題をはじめとした放射能被害と格闘しているレオナ・モーガンさんの全面的な支援を受けました。
この二人を軸にたくさんの方々のおかけで本当に素晴らしい旅ができました。心からのお礼を述べたいと思います。

さて搭乗時間が迫っていてます!
より詳しいことは帰国後にまた報告します。支えてくださったみなさま、ありがとうございました!

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