守田です(20240816 12:45)
● 死亡率曲線
前回に続いてNHKスペシャル『封印された原爆報告書』の文字起こしの2回目をお届けします。
今回、出てくるのは「死亡率曲線」です。爆心地からどの地点にいた人がどれぐらい死んだのかを表したものです。アメリカが一番欲しかった原爆の殺傷能力を示すデータです。
この記録の対象となったのは、広島市内で被爆した17,000人の子どもたちでした・・・。
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封印された原爆報告書 (NHKスペシャル2010年8月6日放送) 文字起こしその2
原爆投下から2カ月。アメリカの調査団が(日本に)入って来ると、日本はその意向を強く受けて、調査に力を入れるようになります。
小出中佐に変わってアメリカとの橋渡し役を務めるようになったのが東京帝国大学の都築正男教授です。
放射線医学の第一人者で、当初から陸軍と共に調査に当たってきました。
報告書番号14。都築教授と陸軍とが共同で作成したこの報告書の中に、当時アメリカが、最も必要としていたデータがありました。原爆がどれだけの範囲にいる人を殺すことが出来るかを調べた記録です。
対象となったのは、広島市内で被爆した17,000人子どもたちでした。どこで何人死亡したのか、70カ所で調べたデータが記されています。
爆心地から1.3キロにいた子どもたちは132人中50人が死亡。0.8キロでは560人全員が死亡しています。8月6日の朝、広島市内の各地に、大勢の子どもたちが、学徒動員の作業に駆り出されていました。
同じ場所で、まとまって作業をしていた子どもたちが、原爆の殺傷能力を確かめる為のサンプルとされたのです。
調査の対象となった一つ。旧広島市立第一国民学校(現段原中学校)。
そこに通っていた佐々木妙子さん。77歳です。
当時1年生だった佐々木妙子さんたちは、空襲に備えて防火地帯を作る「建物疎開」の作業に動員されていました。
学校に建てられた慰霊碑です。
屋外で作業に当たっていた175人が被爆しました。佐々木さんのすぐ隣にいた親友、上田房江さんも亡くなりました。
佐々木妙子さん(77歳)
「ほんとごめんね。うちだけが生き残ってから。一生懸命、それこそ、お国のためじゃないけど・・・疎開の作業に出て、帰る時にはもう姿も無いようなことでは、あまりにもむごいですよ・・・8月、来るけんね・・・」
報告書によると、第一国民学校の1年生175人のうち108人が死亡。佐々木さんを含む67人が重傷となっています。
都築教授たちが調査を行った背景には、アメリカからの要請がありました。アメリカ調査団の代表、オーターソン大佐が、このデータに強い関心を示していたのです。
アメリカ陸軍病理学研究所(ワシントン郊外)
ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所。日本からのデータはすべて、ここに集められました。オーターソン大佐は、調査の結果を、『原爆の医学的効果』と題する6冊の論文にまとめていました。
アメリカ陸軍病理学研究所の職員(英語)
「第6巻には、子どもたちの被害のデータがあるので、政治的配慮から機密解除が遅れました」
17,000人を越す子どもたちのデータから導かれたのは1つのグラフでした。爆心地からの距離と死者の割合を示す『死亡率曲線』です。
原爆がどれだけの人を殺傷できるのか、世界で初めて具体的に表したこのグラフは、アメリカ核戦略のいしずえとなりました。
こうしたデータをもとに、当同時、アメリカ空軍が行っていたシミュレ―ションです。ソビエト主要都市を攻撃する為に、広島型の原爆が何発必要かを算出していました。
オーターソン大佐の研究を引き継いだ、カリフォルニア大学名誉教授ジェームズ・ヤマザキ氏(94歳)です。死亡率曲線は、広島と長崎の子どもたちの犠牲がなければ得られなかったと言います。
カリフォルニア大学名誉教授ジェームズ・ヤマザキ氏(94歳)
「革命的な発見でした。原爆の驚異的な殺傷能力を確認できたのですから。アメリカにとって極めて重要な軍事情報でした。まさに日本人の協力の賜物です。貴重な情報を提供してくれたのですから。」
建物疎開の作業中被爆し、多くの同級生を失った佐々木妙子さん。友人たちの死が、日本人の手によって調べられ、アメリカの核戦略に利用されていた事を、初めて知りました。
佐々木妙子さん
「馬鹿にしとるね・・・言いたいです。私は・・・(長い沈黙の後で)残念ですね・・・手を合わせるだけのことです。私にはもう何も出来ません・・・(深ため息と合掌黙祷する佐々木妙子さん)」
日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師はどのような思いで被爆者と向き合ったのか?
山村秀夫さん。90歳。都築教授ひきいる東京帝国大学調査団の一員でした。当時、医学部を卒業して2年目だった山村さん。調査は全てアメリカの為であり、被爆者の為という意識は無かったと言います。
元東京帝国大学調査団 山村秀夫さん(90歳)
「だって、結果は、日本で公表することも、勿論ダメだし・・・お互いに、持ち寄ってですね、相談するって事も出来ませんから。とにかく、自分たちで調べたら、全部、向こうに出すということ・・・」
山村さんが命じられたのは、被爆者を使ったある実験でした。報告書番号23。山村さんの論文です。
被爆者にアドレナリンという血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。12人のうち6人は、僅かな反応しか示さなかった。山村さんたちは、こうした治療とは関係ない調査を、毎日行っていました。調べられる事は全て行うというのが、調査の方針だったと、(山村さんは)言います。
元東京帝国大学調査団 山村秀夫さん(90歳)
「とにかく、生きている人が生体に、どのような変化が起きているか。少しでも何かの手がかりを見つけて調べるという事だけでしたから。それ以外はもう何も無いですよね。あんまり他の事も考えられなかったですよねぇ・・・。とにかく、それだけ(言われた通りの事だけを)やるっていうことで」
NHKスタッフ
「今となってみたら、どうお感じですか?」
山村秀夫さん
「今となって見たらねぇ・・・、そうですねぇ・・・まぁ、他にもっと良い方法があったのかもしれないけれど・・・だけど今とは全然、違いますからね。その時の社会的な状況がね」
亡くなった被爆者も調査の対象になりました。救護所で亡くなった被爆者は、仮設の小屋などに運ばれて次々と解剖されたといいます。200人を越す被爆者の解剖結果は14冊の報告書にまとめられています。
その1冊に子どもの解剖記録が残されていました。報告書番号87。
解剖されたのは長崎で被ばくし亡くなったオノダマサエさん。まだ11歳の少女でした。
マサエさんの遺体はどのようないきさつで提供されたのか?長崎に遺族がいる事が分かり訪ねました。
マサエ(政枝)さんの甥に当たる小野田博行さんです。
「これが、ただ一枚のですね、政枝おばさんが4歳の時の写真なんです」
政枝さんが解剖された経緯を、博行さんは、父、一敏さんから聞いていました。
被爆した政枝さんは長崎市中心部の救護所に運ばれていました。兄、一敏さんが駆けつけた時、政枝さんは高熱にうなされ、衰弱しきっていたといいます。
小野田博行さん
「亡くなる前にですね・・・まぁ、何時間か前ぐらいじゃないかと思うんですけれども・・・『兄ちゃん、家に連れて帰って』その言葉が、最後の言葉だったらしいですね・・・」
一敏さんが政枝さんの遺体をおぶって連れて帰ろうとした時、救護所の医師たちが声をかけてきたといいます。
小野田博行さん
「病院の先生たちが『将来のために、妹さんを、その・・・解剖のほうに預けて頂けないか』という話を、オヤジ(父親)のほうにしたらしいですね・・・。一応は断わりを入れたらしいですけど、やはりオヤジもたくさんのああいう亡くなった方たちを見ておりますもんで、やっぱりお渡しする気になったんではないかと、思うんですよね。将来のためにもという思いで・・・」
「被爆者の為に役立てて欲しい」と医師に託された政枝さんの遺体。その後、どうなったのか?家族に知らされることはありませんでした
正枝さんたち被爆者たちの解剖標本は、報告書と共にアメリカに渡っていました。放射線が人体に及ぼす影響をより詳しく調べるために利用されました。そして昭和48年、研究が終わった後に日本に返還され、今は広島と長崎の大学に保管されています。
小野田政枝さんの標本が、長崎大学にあることが分かりました。
博行さんが写真でしか知らない政枝おばさん。
長崎大学 医学部職員
「ご説明させて頂きます。これが政枝さんのプレパラート標本5枚になります」
小野田博行さん
「ははぁ・・・」
政枝さんは肝臓や腎臓等を摘出され、5枚のプレパラートになっていました。
小野田博行さん
「はぁ・・・(しばしため息)・・・これがおばさんですかねぇ・・・こんな形でお会いするとは思いもしませんでした・・・はぁ・・・(嘆息)」
アメリカでつけられた標本番号は249027。
原爆被害の実態を伝えて欲しいと提供された11歳の身体が、被爆者の為に生かされることはありませんでした。
続く
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