明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(134)バージャー氏病と被ばく(Kさんのお父さまの例から)

2011年06月03日 00時00分00秒 | 明日に向けて6月1~30日

守田です。(20110603 00:00)

今週の月曜日と今日、木曜日に、自宅近くのキッチンハリーナで、東北の旅の報告会をさせていただきました。たくさんの方が集まってくださり、濃密なお話ができました。みなさま。ありがとうございました。

さて、今日、会が終わってから、居残った方とお話をしていたのですが、その中でKさんという方に大変、印象深いお話をうかがい、思わず取材モードになってしまってメモを取りながら、あれやこれやと聞いてしまいました。

Kさんのお父さまも広島原爆の爆風を浴びられたのです・・・。

もっともお父さまが爆風を浴びられたのは、広島から直線距離で約20キロ離れた呉でのことでした。このときお父さまは13歳。小学校を出たばかりでした。学徒動員で呉に動員され、飛行場で部品を作っていたのだそうです。

しかも作業は昼夜を分かたず強行され、8月6日の朝は徹夜明けで迎えられたそうです。ちょうど作業がひと段落して、草むらの上にごろんと横になろうとしたとき、広島方面で閃光があがり、続けて爆風がやってきました。

これをもろに受けてしまったお父さまは、毎年になるとこのことを話されたそうです。「あのときの風が気持ち悪い風でな」と繰り返し話された。「よっぽど印象に残っていたのでしょう」とKさん。

その後、お父さまはお母さまと出会われ、結婚されました。Kさんが生まれたのは1961年です。そしてKさんが3つになられたとき、お父さまが発病されました。1964年。お父さまが33歳のときでした。

病は「奇病」でした。はじめは足が動かなくなることから始まりました。力が入らないというのです。しかし病院で検査しても原因が分からない。そのまま半年も入院されたそうです。

Kさんが小学校2年生のとき、お父さまが38歳になられたときに、ようやく病名が分かりました。「バージャー氏病」というのだそうです。血液の中の血小板が増えてしまい、血管がつまってしまう病気です。

ネットで調べてみると、以下のような記述があります。
「バージャー病は閉塞性血栓血管炎とも呼ばれ、四肢の動脈に閉塞性の血管炎をおこす疾患です。四肢の末梢血管(主に動脈)が閉塞し、四肢や手足の指に血液が十分供給されないために起こる病気です。原因は不明ですが、喫煙による血管のけいれんが誘因と考えられています。遺伝性の病気ではありません。」

症状については以下のように書かれています。
「下肢動脈に好発して、冷感、シビレ感、寒冷暴露時のレイノー症状(冷たいものに触れると手指が蒼白になる症状)を認め、ひどくなると間欠性跛行(ひと休みすると再び痛みが収まり歩行できる)や安静時疼痛が出現し、閉塞がひどくなると四肢に皮膚潰瘍、壊疽が起こります。四肢の動脈が閉塞すると、閉塞した動脈の拍動は触知されません。」
http://homepage3.nifty.com/mickeym/No.401_500/448tao.html

ちなみにKさんのお父さまは、お酒もたばこも飲まれない方でした。

お父さまはこの38歳のときに、初めての手術を受けられました。血管の周りの神経を取り除くのだそうです。そうすると血管が圧迫されている感じが治まりいくらか楽になる。これらの手術を、38歳、42歳、45歳、48歳と受けられた。

お父さまは市バスの運転手をされていたので、何よりも足が動かなくなることを恐れられた。当時、この病気になったら、先々は足を切断せざるをえないと言われていたそうで、それを少しでも先に延ばすのがたたかいだったとか。

病は国によって、難病指定を受けているため、その申請も行ったそうですが却下されてしまいました。原因は分からないそうですが、お父さまは、指定を受けることでの仕事への影響も心配され、ホッともされたそうです。

しかし医療保険以外の公的援助もないままに、お父さまの闘病は続きました。33歳で発病され、足を失う恐怖にさいなまれ、30代から40代にかけて4回もの大手術を受けなくてはならなかった苦しみはいかほどのものだったでしょう。

しかし最後の手術を迎える頃になると、治療法が格段に進歩し、血小板の発生を抑える薬が出てきて、もう手術をうけなくていいという展望がでてきたそうです。その頃すでに足の指など失なわれていましたが、明るい未来が見えてきた。

ところがそう思ったのもつかの間、今度は輸血原因の肝炎にかかってしまいました。しかもB型の劇症肝炎でした。ある日、トイレから出てこないので見にいったところ、倒れられていた。トイレの中が血まみれだったそうです。

そのままお父さまは、3日間で命を落としてしまわれました。53歳のときでした。「せっかく何とかなると思い始めていたのに、今度は輸血感染。父は悪いものをみんな背負いこんでしまいました」とKさん。

そんなお父さまの病が、被ばく故のものだったのではないかと考えだしたのはその後、かなり時間が経ってからのことだそうです。闘病中は、お父さまも、ご家族も、被ばくと関連づけて考えられたことはなかったのだそうです。

実際にはどうでしょうか。詳しく調べたわけではないのですが、現代医療において、「バージャー病」は被ばくによるものとは認められていないのだと思います。爆心地から20キロ離れていたお父さまは、もちろん「被爆者健康手帳」も受けとっていません。

しかし病状をみると、主に血小板が異常に作られてしまう病であり、血液の成分を作る大もとの細胞の、造血幹細胞が叩かれて起こった病であることは明らかです。お父さまもご家族も常々、白血病の反対の病気だと語られていたそうです。

実際、最近では、自らの造血幹細胞を使った再生医療が試みられているといいます。その展望は良く分からないですが、血液を造る機能が破壊された故の病で、そうなると放射線の影響が強く考えられる。

実はこれで僕の父に対する推論にも、少しの回答が得られました。前にもご紹介しましたが、広島に原爆が投下されたとき、父は香川県善通寺市の陸軍船舶隊にいて、救援で呉の海軍基地まで進みました。

しかしその先は動かなかった。偵察隊が市内に入り、どこにも行きようがないと報告したからでした。そのため父は「入市被ばく」は免れた。しかし呉までいった父も多少の被ばくがあったのではないかというのが僕の推論でした。

その呉で、学徒動員されていたKさんのお父さまは、爆風を浴びられた。毎年思いだす「気持ち悪い風」を全身に受けたのです。その風の中にさまざまな放射性物質が入っていたと思われます。それをお父さまは体内に蓄積した。

そこに爆弾投下から間もない時間に入った僕の父はどうだったのでしょう。被ばくの可能性は十分にあった。ちなみ僕の父は59歳のときに脳溢血で他界しました。脳溢血と被ばくとの関係はともあれ、父にもまた被ばくの影響はあったのではないか。

これらはあくまでも推論の域を出ません。しかし広島・長崎原爆の被害は、相当に小さく見積もられてきたのではないかと僕には思えます。多くの被ばく者が被ばく者ときづくこともなく、病に苦しみ、亡くなっていったのではないか。

戦後にアメリカ軍のもとで徹底した緘口令が敷かれ、その後も、アメリカに頭をおさえられている政府によって、おさえられてきた被ばく者調査や医療。私たちはその実態を、自ら調べ、明らかにしていく必要があります。

広島・長崎原爆は、今なお、終わっていない。そう強く思います。そしてその調査の中に、福島原発事故へのより妥当な対処、またこれからのさまざまな公的補償の拡大を実現していく展望があると僕は思うのです。

にんげんをかえせ
 
そう何度も心のうちで叫びながら、僕は歩んでいきたい。
・・・Kさん。貴重な話を聞かせて頂き、ありがとうございました。

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