禅の言葉に「不生不死」がある。生死は変えようがないという意味だ。
我々の世代の青春時代には「不条理」という言葉がはやった。不条理という言葉を使えば、人生は不条理である。
生まれたくて生まれたわけじゃない、死にたくて死ぬわけじゃない。人生の始めと終わりは不条理そのものである。
生死は我々の手の及ぶものではない。若いときストア派の哲学に触れたことがあるが、ストア派流にいえば、生死はわれわれの「権限外」のことである。
どうしようもないものはどうしようもないと耐えるしかない。
耐えることを忘れてしまっていた。欲望を膨らまで、欲望を充足することに意を注いできた自分に気がつく。
男なら耐えよ。ただ耐えよ。と昔は雄々しく考えたものだが、女々しく生きるのが時代の趨勢である。しかし、育った時代の雰囲気は私の骨格をなす。変えようと思っても変えられるものではない。
死ぬまでにどうしたいだの、こうしたいだの、というのは自分を束縛することである。
今を生きること。
我々の世代の青春時代には「不条理」という言葉がはやった。不条理という言葉を使えば、人生は不条理である。
生まれたくて生まれたわけじゃない、死にたくて死ぬわけじゃない。人生の始めと終わりは不条理そのものである。
生死は我々の手の及ぶものではない。若いときストア派の哲学に触れたことがあるが、ストア派流にいえば、生死はわれわれの「権限外」のことである。
どうしようもないものはどうしようもないと耐えるしかない。
耐えることを忘れてしまっていた。欲望を膨らまで、欲望を充足することに意を注いできた自分に気がつく。
男なら耐えよ。ただ耐えよ。と昔は雄々しく考えたものだが、女々しく生きるのが時代の趨勢である。しかし、育った時代の雰囲気は私の骨格をなす。変えようと思っても変えられるものではない。
死ぬまでにどうしたいだの、こうしたいだの、というのは自分を束縛することである。
今を生きること。