昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

関西旅行 一日目(pm 16:25~)千姫縁(ゆかり)

2016-02-01 09:01:59 | お出かけ

千姫については多くを語る必要はないでしょうね。

徳川家康の孫娘であり、豊臣秀頼に嫁した姫君です。
二代将軍、秀忠と後妻である江(浅井三姉妹の一人)の、長女です。

1603年(七歳)にて、秀頼に嫁いだわけですが、仲睦まじく暮らしたということです。
1615年の大坂夏の陣の折りに、落城前に助け出されましたよね。

有名な逸話をひとつ。
(興味のない方は、とばして写真へどうぞ)

千姫事件

元和元年(1615年)の大坂夏の陣による大坂城落城の際に、直盛は家康の依頼を受け(実際には家康は千姫を助けた者に千姫を与えると述べただけで直盛に依頼したわけではないとされる)、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を大坂城から救出した(実際には千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、とする説が有力)。

直盛は火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたことで、千姫奪取計画を立てる事件を起こしたと言われている(ただし火傷に関しては俗説とする説も有力)。

この事件は秀頼死後、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然姫路新田藩主本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てたと言われる。

しかし、計画は幕府に露見した。
幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否したため、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したとも伝わる。
また、立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとも言われており、柳生家の家紋の柳生笠(二蓋笠)は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている。

一方、当時江戸に滞在していたイギリス商館長リチャード・コックスの日記によれば、
1616年10月10日夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。
蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。
是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。
されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり。

とある。ともあれこの騒動の結果、大名の坂崎氏は断絶した(中村家などが子孫として続いている)。
-Wikipedia より

翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。
-Wikipedia より



 千姫館跡


 西大柱
ぶっとい、柱です。


 土産物屋
三軒連なってありました。
右から、「い」「ろ」「は」とありました。

駐車場が17:00で閉まります。
急いで戻りました。

他にも、姫路神社・歴史博物館・文学館そして美術館と回りたかったのですがねえ。
明日にしますか。


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