進学援助の後日談。
小夜子の故郷における[御手洗武蔵のあしなが基金]が活用されることはなかった。これまでにはあの正三だけが合格しており、2年間で5人が挑戦したのだが、全員が討ち○にとなってしまった。
こうなるとあとにつづく者たちも怖じ気づいてしまい、3年目には手を挙げる者がいなくなってしまった。
その事態は、武蔵にも思いおよばぬわけでもなかった。
社交辞令的なていあんであり、繁蔵のそんちょう選への援護射撃であり、そして茂作への置きみやげだった。
しかし村人のあいだから不満が噴出した。
理不尽なことだとはわかっているのだが、前村長派からの「はなからムリじゃと思っておったんじゃ。金なんぞ出す気はないんじゃ」との挑発的なことばで、怒りが爆発した。
竹田本家で鳩首会談がおこなわれたものの、名案が浮かぶはずもない。
その内に「あいつらは試験を受けずに遊びほうけておった」などと、根も葉もないうわさが飛びかった。
報告に「茂作に行かせては」という声があがったけれども、「あんな男のもとになんぞ行けるか!」と、頑として茂作が拒否した。
苦慮した末に、武蔵へことの顛末を手紙で知らせることになった。
事態を知った武蔵は、「だろうな」と苦笑いするだけだった。
といってこのままに放っておくわけにもいかない。
どうしたものかと考えあぐねているうちに、茂作から小夜子宛の手紙がとどいた。
村人たちの下にもおかぬ接遇を書きつづり、なんとか武蔵をたらし込んでくれと言わんばかりの手紙だった。
武蔵のせいじゃない! 勉学をおろそかにする方が悪い! と、怒り心頭になった。
といってこのままでは、竹田本家はもちろん茂作までになんらかの意趣返しがおこるかもしれない。
いいしれぬ不安にかられた小夜子は、意を決して武蔵に話した。
「わかった。心配するな、うまく処理するから」
結局のところ、寄付金として村に送りつづけることで話し合いがついた。
もともとが武蔵の善意からのことであり、それ以上のことはできない相談だ。
今年についてのみということで、村長である繁蔵が決断した。
2日にわたって行われる村祭りにおいて村民全員へ2日分の仕出し弁当を配るということで話をおさめた。
以後については事態の推移をみながら善処する、と役所的始末をつけた。
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