「いいや、いいんだ。もう慣れっこだよ」
男は、男自身いがいなほどに快活にわらった。
ひさしぶりに屈託なく笑った。
名刺交換のおりには、怪訝そうに「なんとお読みするのですか?」と聞かれる度に、コンプレックスを感じる名前が、いまだけは誇らしかった。
「はじめまして、平井ミドリです。いつぞやは、お電話で……」
彼女の目はわらっていた。
その人なつっこい目は、男の恋人のつめたく嘲笑するかのごとき目にくらべると、まさしく天使のそれだった。
やや垂れ目で、それでいてキリッとした確たる意思を感じさせる、例えるならば……。
山岳救助犬のセントバーナード似のやさしい目だと感じた。
そう思ったところで、ミドリを犬に例えたことがもうしわけなく感じられ、思わず「すみません」と口にしてしまった。
なんのことかわからぬミドリが、「えっ?」と返したものの、男は声にするつもりのないことばゆえに、笑ってごまかすしかなかった。
雨やどりもかねて、「コーヒーでも」ということになった。
どっふりと日の落ちたビル街の端っこにある、ジャズ喫茶に向かうところだと平井が言う。
ジャズなどとはまるで縁のない彼で、もっぱらデビューしたてのいわゆるアイドルと称される女性歌手を追いかけるタイプだった。
ガランガランと音を立てて、重厚な造りのマホガニー材に厚めのガラスをはめこんだ扉を押し開けた。
まず平井が入り、そしてミドリが彼のために足を踏んばりながら開けていた。
「申しわけない、重かったでしょう」
いまにも閉じてしまいそうな扉に手を当ててはいりこんだ。
偶然にミドリの人さし指に彼のこゆびがふれた。
少しのことだったが、ミドリの耳に赤みがさしたようにみえた。
平井はふたりのことなどには知らぬ顔で、常連らしくカウンター内のマスターに声をかけていた。
「きょうはなにを聞かせてくれるの?」
天井から吊り下げられたスピーカーを目にしながら、窓際の席に陣どった。
「本格的なんだ、ここは。天井の全方向スピーカーとは、案外に凝ってるよね」
平井の目を追いながら見やった天井には全面にツタが張られてあり、その下に掛け渡された梁が数本ある。
そしてその梁から数個のスピーカーがぶら下がっていた。
「いらっしゃいませ」。
水をはこんできたウエイトレスに、
「ぼくらには、いつもの。こいつには、そうだな。
お子ちゃまらしくクリームソーダでも。
ミタライ君、きみ、なんにする。
ここの特製コーヒーはこりすぎててくせがあるから、普通のブレンドがいいよ」と、注文を告げた。
「すみません、勝手にオーダーなんかしちゃって。
あたし、紅茶にしてください。
この間ごちそうになったの、とっても美味しかったですから。
ミタライさんも、お好きなものにしてください」
軽くにらみつけるような仕草で、注文を入れ替えた。
「おうおう、いっちょ前なことをいって。
若い男がいっしょだと、こんな風に自己主張するのか? こりゃまいったね」
最新の画像[もっと見る]
-
最後でしょうか? またまた、雪に。 6日前
-
最後でしょうか? またまた、雪に。 6日前
-
5日連続とは行きませんでした。 3週間前
-
5日連続とは行きませんでした。 3週間前
-
人生初の、4日連続だあ! 3週間前
-
人生初の、4日連続だあ! 3週間前
-
人生初の、4日連続だあ! 3週間前
-
人生初の、4日連続だあ! 3週間前
-
遅起きしました。 3週間前
-
遅起きしました。 3週間前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます