終業を告げるベルがなると同時に、五平が会社をとびだした。いたたまれなくなったのだ。
〝こんどこそほんとうに、俺の居場所がなくなるぞ。
忘れてたよ、GHQも、いつまでも日本にいるわけはねえんだ〟
どんよりとした曇り空が、五平のこころをさらに落ちこませる。
となりのビルから出てきた会社員が、五平に、「どうも」と頭を下げる。
そのとなりの洋品店の娘が「もうお帰りですか?」と、にこやかな笑顔を見せてくれる。
せわしなく行き交う通行人は、無表情にとおり過ぎる。
もう少し行けば百貨店だ。そしてそのとなりがくだもの屋で、もうすこし先に行くと花屋もある。
こんやは無性に人恋しい。しかしキャバレーでのどんちゃん騒ぎはしたくない。
しっぽりとした酒が飲みたい。
気のゆるせる相手を前にして、静かにただしずかにお猪口でゆっくりと、さしつさされつを楽しみたい。
もう街頭のランプに灯が入っている。
公衆電話に飛びこんだ五平が、これから寄るよと、わかに電話をかけた。
「こんやは、店をあけないでくれないか」と、弱々しく告げた。
のれんの出ていない店なのに、なかが明るい。
「準備中かい?」と、常連客がはいってくる。
申し訳なさそうに、「ごめんなさいね、今夜はおやすみなんですよ」と、わかがこたえる。
「ちょっとね、ぐあいが悪くて」と、わざとかったるげに椅子から立ち上がる。
二階で待とうかとも思うわかだが、電話での弱々しかった声が気になる。
もうそろそろ来るころだろうしと、また椅子に腰をおろした。
「すまない。今夜は貸し切りにしてくれ」
五平が、張りのない声ながらも、はっきりとした口調で入ってきた。
「あいよ。たんまりと払ってもらうよ」
わかが快活にこたえた。
一階だとお客が入ってくるかもしれないからと、二階に上がりこんだ。
お猪口でゆっくりと、そう思っていた五平だが、「俺には似合わねえ」と、一升瓶でのコップ酒になった。
ふたりが関係をもってから、ふた月がすぎた。
「めいわくならそう言ってくれ」
口ぐせのように、五平が言う。
「イヤになったら来なくて良いよ」
そのたびに、わかが言う。
そして先日に、「所帯でも持つか」と、ボソリと五平が言い、
「それもいいね」と、わかが言った。
好物のするめをほおばりながら、ひと言も声を発しない五平に、
「どうしたの? 会社でいやなことでもあった?」と問いかけるが、それでも五平は口を開かない。
「いっそ会社をやめたらどう?」
このところの疲れ顔が気になるわかが、思い切って口にした。
「そうだな」
思いもかけぬことばが、五平の口からでた。
しかしすぐに、
「ま、もうすこしがんばってみるさ」と、わかを引き寄せた。
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