栄子が言うと、
「酒の氷はね、手で割ったものが一番なの」とママが応えた。
「味がやわらかくなるのよ。いいがけん、覚えなさい。
バイトをしてくれてたころは手抜きばっかりだったわね。
栄子! あんた、踊りのときに手抜きする? それと同じよ。
あんたんちで飲むときも、そうするのよ」とママが付け足す。
栄子が「はーい」と肩をすぼめている。
今のいままで、神々しいほどの美女にみえていた正男だった。
それがいまは、いたずらが学校の先生にバレたときの表情をみせた。
その仕草が、はじめて沙織を抱いた翌朝に感じた愛おしさと同じく感じる正男だった。
栄子には十年来のなじみの店だ。はじめての正男は栄子のとなりで小さくなっている。
「そっちの若いのはなんにする? ハイボール?」
すこし赤茶けたコースターの上にグラスをのせて、すっとふたりの前にすべらせた。
薄めのウィスキーを好む栄子には、いつもこのグラスが出される。
ダイヤカットのロックグラスで、琥珀色がきわだつようにとしっかりと磨きこまれている。
「このグラスはね、ママご自慢のグラスなの。
わざわざアメリカのケンタッキー州に出かけて買い求めたんだって。
知ってた? バーボンウィスキーの生産地で、しかもこのオールド・ファッション・グラスの発祥地だって」
ママの、耳にたこができるほどに聞かされた自慢話を、さも自分ごとのようにかたる栄子だった。
「珍しいわね。というよりはじめてじゃない、健二以外の男づれなんて」。
お株をとられたわね、と軽く応じながらも目を細めるママだった。
正男を抱き寄せて「健二とは別れたの、もう。でね、今夜はこの坊や。あたしの、こんやのペットなの。
どう、可愛いでしょ?」と正男を見せびらかす。
じっと正男を見つめるママ。こころの奥底まで見す透かすような、強い視線を投げかける。
思わず目を伏せた正男に「逃げないの!」と強いことばを投げつけた。
そんな正男を「ママ、いじめないでよ。こんや会ったばかりなんだから」と、栄子がかばった。
正男をしっかりと抱きしめながら「じつはね…」と今夜のことを語りはじめた。
健二との会話のやり取り、口げんか、そして教室にひとり残されたこと。
CDでの練習にもの足りなさを感じた栄子がビルから出るなり「ぼく、あなたのファンなんです」と正男が頭を下げてきたこと。
胡散くささを感じつつも、笑顔に安心感を感じたこと。
そしてなにより、糊のきいたシャツが好感度をアップさせたこと、等々。
「……ということなの」
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