背筋をピンと伸ばした光子の姿は、凜としていた。
老舗旅館である明水館の女将としての風格を十分に感じさせる。
本人の口からこぼれた、自分自身を貶めるようなことばですら、光子という女将の品格を落とすものには、武蔵には感じられなかった。
「地獄を見ました」ということばの中に、その壮絶な日々を乗り越えきった光子という女性の度量を感じた。
「武蔵さま、ありがとう存じます。そのおことば、胸にひびきました。
これまでにも似たようなお話は、多々いただきました。
ですがそれらすべてが『ふたりで儲けましょう』であり、また男と女の関係を期待されてのことでございます。
それはそれで光栄なことなのですが。わたくしの分は、ここまででございましょう。
これ以上は無理というものでございます」。
武蔵にしっかりと視線をとどけながら、なおも続けた。
「若いころには野心もございました。
そのころに武蔵さまからそのお話をいただいていれば、東京でも大阪でも、どこにでもと考えたかもしれません。
ですが今のわたくしは、もう野心はございません。
『ほど』ということばを、噛みしめております。
武蔵さまとは、もっと若いころにお会いしたいものでしたわ」。
目は笑っていたが、座卓の下でにぎりしめているハンケチがくしゃくしゃになっていた。
「女であることを捨てて、女であることを武器にして、ここまでやって参りました。
わたくしも、四十になりました。
ふつうの女に戻りたいと、思うこともあるんですよ」。
屈託のない笑顔を見せる光子に、武蔵は大きくうなずいた。
「疲れました、すこし」ということばが光子から漏れたとき、これまでの辛酸の日々を忘れさるときは来るのだろうかと思った。
大女将のような大往生が出来るのだろうかと思った。
(あと20年頑張ってみよう。その間に若女将を育て上げて、この明水館を託そう。
そのときにわたしの隣にいるのは、清二だろうかそれとも……)。
光子の目から妖艶な色の光が消え、湖水に写る涼しげな月の光が宿っていた。(了)
*本編から離れたエピソードです。
思いの丈をすべてつぎ込んだ、そんな自負があります。
光子に対する悪口とそれに対する光子の言い分だけのつもりだったんですけどねえ。
珠恵に栄三、そして清二に三郎なんかが出てきたものですから、ついつい。
推敲をしていないので、時系列的におかしな部分があったかもしれません。
時代背景と合わぬ記述があるやもしれません。
ネット検索をかけながら、齟齬のないように務めたつもりですが。
なにしろ構成もなにも考えずに、ただただ思いつくままに書き綴りましたからねえ。
勢いだけは削ぎたくない、そんな思いだけで突っ走りました。
わたしにしては珍しく、これほどの長文を短期間(ほぼひと月)に書き上げたのは、まさしく高校時代以来です。
「まだこんなに妄想力があったのか」。驚くばかりです。
光子に対する思い入れが強かったせいがあるのでしょうね。
2~3回で終わらせる予定でしたが、悪い癖で妄想(といっても、良い意味でですよ)がどんどん膨らんでしまいました。
でもこれで少しすっきりしました。
武蔵という男のイメージも、わたしの中でより鮮明になりましたし。
武蔵はなぜ小夜子を気に入ってしまうのか。
光子という女を通して、ひょっとしてその一端が皆さんにも伝わっていれば、と願っています。
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