昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

ツバメの旅 どうわ集 第二章 冬の街角で

2020-04-16 08:01:37 | 童話(どうわ)
 それは、ふゆのあさでした。
 わたしは、あのかなしいうんめいの仔牛さんのさいごをみとどけると、おもたくなったはねをむりにうごかしてここまでやってきました。
大きなビルや、しょうてんのたちならぶまちのうえをとんでいるときでした。
仔牛さんとくちげんかをしているあいだに、わたしのなかまはみなみのほうへとんでいってしまい、わたしひとり、とりのこされてしまいました。
そんなさびしいときのことです。

「さいまつたすけあいうんどうにごきょうりょくくださーい!」というこえを、みみにしました。
いきかうひとはみなさむそうです。
オーバーコートのえりをたてて、かぜのつめたさをふせいでいます。
そしてだれもそのこえにこたえず、サッサとあるいていきます。
けれどみながみな、なにかわるいことをしたようなかおつきです。
でも、だれもわるいことはしていないのです。

みなさん、わすれものをしたようなおもいをいだいてるかんじなのです。
けれどそれとて、しかたのないことかもしれません。
じぶんをぎせいにしてまで、あいてをたすけるひつようもぎむもないのですから。

 ぜんいからの心からのたすけでないとだめなのですね。
じゅうぶんによゆうのある、じぶんにとってすぐにはひつようのないおかねでなければだめなのです。
なにも、こどものおかしだいをけずってまでそのはこにいれることはないのです。
けれど、こころのこりなおもいなのです。

 それがにんげんなのでしょう。
じぶんをすこしぎせいにしてでもあいてをたすけようとする。
そんなにんげんたちのおもいは、わたしにはりかいできません。
まわりをみわたしつつ、みなさんとおりすぎます。
それでいいと、わたしはおもいます。

 あたりまえです、たにんのことまでめんどうみられません。
だれもがすまなさそうにしながら、しらんふりしてとおりすぎます。
はなのあたまを、みみをまっかにしてさけんでいる、「りんごちゃん」たちをみるひとはいません。

 ところがおどろいたことに、すこしさきにいったばしょで、オーバーコートをかたにかけてまつばづえたっている、せんそうしょうびょうしゃのもつおなべには、つぎからつぎへとおかねがはいっていきます。
そのひとは、なんどもなんども、おれいをいっています。
とてもいいまちです。
よりかわいそうなひとをたすけているのです。

 わたしのはねがあたたかくなりました。
「やっぱり、にんげんはすごい!」

 が、つぎのしゅんかん、わたしのはねはまえよりもっとおもくなりました。
おかねをいれたひとたちの、ものめずらしげな目・なかばさげすむような目をみたとき、あめがふってきました。
 でも、そらはあおいのです。
ショックでした。
わたしたちツバメは、なかまをたすけることはしません。
おくれたなかまをまちはしません、わたしがおいていかれたように。
でも、さげすみはしません。
あいてのふこうをみて・しって、じぶんをなぐさめるようなことはしません。
ゆうえつかんにひたろうなどとはしません。

 にんげんはみな、ふこうなのでしょうか? 
わたしは、いっそうのさびしさをかんじながら、なかまにおいつくためとびたちました。            


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