明水館の門が見えてまいりました。
門と言いましても、門柱2本に切妻の屋根をかけた簡便なものでございます。
こんなことを申しますと、お造りになった先々代に叱られそうでございますが。
でもまあ、やはり良いものでございますね、門がありますのは。
なにかこう、格式めいたものを感じずにはいられません。
お客さまのなかには「俗世から至極の地に入るといった観になるよ」と、おっしゃる方もございました。
わたくしなども、お客さまを熱海駅からご案内のおりにこの門をくぐり抜けますと、ぐっと身の引き締まる思いがいたすものでございます。
重くなった足を引きずるようにしているわたくしに、とつぜん「若女将、お帰りなさい!」と歓声が聞こえました。
頭をあげて見ますと、仲居たちが勢揃いして、わたくしを待っていてくれたのでございます。
おどろくどころの騒ぎではございません。到着の時間など知らせておりませんです。
いえ、時間どころか、きょうに戻ることすら伝えておりません。
門からとびだした数名の仲居たちに背中を押されるようにして、なつかしい明水館の敷居をまたいだのでございます。
まずいことをしたと、一瞬あたまが真っ白になりました。
角をまがる手前の勝手口からはいれば良かったと、いえ、そうでなくてはなりませんのに、ついこの門構えを見たくなりまして……。
「大女将はすごいですね。『きょうの朝はやくに戻ってきますよ。若女将はお客さまのお出迎え時間には決してもどりませんよ』って、おっしゃたんですよ」。
仲居見習い中の静枝が申します。そして
『こうもおっしゃいました。かならずこの門を見にくるはずです』とも。」
他の者たちも大きく頷いて、すごいすごいと大女将をほめたたえます。
嬉しくなったわたくしも「そうよね。大女将には勝てないわ」と、同調いたしました。
それにしても、時間はともかくとして、なぜきょうという日をご存じだったのか、まったく分からぬことでございます。
と同時に、大女将のお顔が見えないことに、すこし落胆もいたしましたが。
やはりお怒りの気持ちがあるのかと、また不安なこころがおそってまいりました。
ですが、それもまた杞憂でございました。
と同時に、きょうという日をなぜお分かりになったのか、大女将にご挨拶しましたときにはっきりとしたのでございます。
お部屋のふすまごしに、聞き覚えのある声がありました。
まさかと思いつつ「ただいま戻りました。勝手なことをいたしまして申し訳ございませんでした」と、声をかけさせていただきました。
「お入りなさい、若女将」。なつかしいお声です。
すこししわがれ声ではございますが、その明瞭さは以前と変わりありません。
「お帰りなさい、光子さん」。もうおひと方の声が耳にはいりました。
つい先日にお聞きしたばかりの、あの小声でございます。
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