(十四)まやかしのように
柵から身をのりだして、自分の姿をその水面に映してみた。
美しい空の絵のなかに自分の顔をみつけ、“うん、好い男だ”と、ほくそえむ。
しかしどう考えても、余分だった。やっぱりわたしはいらない。
空の美しさに感動している自分の興をそいでしまう。
山々に見え隠れする太陽のひかりを受けて、明るい世界の住人になっていた。
覚悟した。もうもどれない、きのうまでのくらい世界には。
闇とは「光の欠如」であり
闇という「なにか」が存在するわけではない。
仏教用語にある
無明とは「迷い」である。
真如とは「あるがままに」あることである。
すべてのことに対し、まったく素直な自分に気づいた。
素直さのなかでは、なにもかもが肯定できた。
なにもかもが素晴らしい!
It’s beautiful!
こころに安らぎをえたいと、レコードに映画にそして読書にと血道を上げていたことが、いまでは、まやかしのように感じられる。
楽しんでいたのではない。
絶賛されているから、名作だと言われているから、聴いて観てそして読んだだけのこと。
それらのことで、いったいどれほどの安らぎが得られたというのか。
新一のひと言で、ガラガラと音をたてて崩れさったではないか。
歓びに満ちあふれている時にかぎって、ひょっこりと顔をだす新一。
なのにいま、仏教でいう安心《あんじん》の世界にどっぷりと浸かっている、今というときなのに、新一は現れない。
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