「分かるか。旧約聖書に書かれていることだけど、アブラハムという族長はだ、実の息子をころそうとしたわけだ。
神の啓示でだ、天使をとおして伝えられたんだよ。
それでその指示通りに、息子をころそうとした。しかし刃物をふりあげたその瞬間に、彼は、アブラハムは許された。
『お前の信心は本物だ』と、神に認められたわけだよ。許されたんだよ」
涙をはらはらと流しながら、なん度も「許されたんだ」と口にしていた。
その話を友人にしたとき、「なんてひどい神さまなんだ。人をためすなんて、ほんとにひどい! ひょっとして天使のいたずらだったんじゃないか?」と憤慨した。
そしてそのときのぼくは、賢治さんのことばにうなずき、そしてまた友人のことばにも「そうだね」とうなずいた。
ある日、賢治さんが居なくなっていた。
まことしやかに流れた噂では、ある団体に入って危険思想にかぶれてしまい、とうとう警察に捕まってしまったということだった。
少年院行きになるだろうよと、大人たちの間でささやかれていた。
「卑劣漢は自分を卑劣漢にするのであり、英雄は自分を英雄にするのだ」
「誰かに指示をされるのでなく、自らの意思で行動をし自らを律する」
友人の好きな一節がでた。そしていま、ヘビ女の救出作戦がもちだされた。
その最後を締めくくることばは驚くべきものだった。
「結婚してもいいと思っている」。友人の口から結婚という二文字が放たれたときには、正気なのか? と思えた。
単なることばのあやさと考えることで、ぼく自身を落ち着かせた。
しかしほほを赤らめる友人を見て、本気なのだと思わざるをえなかった。
友人にしてみれば、『実存主義とは何か』で登場したアンガジュマン=結婚という考え方が、頭から離れなかったようだ。
のちに分かったことだけれども、実体としての結婚ということではなく、家族――自分だけの家族を持ちたかったということのようだった。
熱っぽくかたる友人に異論をはさむ余地はなく、しだいにぼくもまたその行為に酔いはじめた。
「とにかく、時間がない。祭りは今日までで、明日にはつぎの土地に行ってしまう。助けだすには、今晩しかないんだ」
「そうだよ、急がなくちゃ。でも、どうしよう…」
帰りの道々、計画をねった。といっても、友人の発することばにたいし同調するだけのぼくだったけれども。
「見つかるわけにはいかないんだ。大通りは極力さけなくちゃ。街灯のある道も、だめだ。裏道をいくしかないぞ」
「でも、暗くないかい?」
「だから良いんじゃないか」
「そうか、そうだよね…」
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