たまたま五平が留守をしていて、たまたま小夜子が出先からもどりひと息を吐いていたとき、そしてたまたま徳子が銀行にでかけていて、さらにはたまたま竹田が裏の倉庫にいたときのことだ。
この四つのたまたまというか偶然が重なりあういうことは、天文学的確率のぐうぜんの重なりなのか、はたまた天の意思、いたずらなのか、ある騒動を引き起こすことになった。
事柄としては小さなたわいもないことなのだが、五平にすれば簡単にすませられることなのだが、のちにこのことを知った人物がここぞとばかりに責めたてたがゆえに、おおごとになってしまった。
見るからに筋者という風体の男がやってきて、小夜子に「これ、はらってもらえませんかねえ」と、証文を突きつけた。
同意書となっていて、日付けは三年もまえのものだった。
富士商会御手洗武蔵という署名入りのもので、筆跡はたしかに武蔵のものだった。
右に左にとはねまわる独特の文字で、懐かしさをおぼえるそれに、小夜子はしばし見ほれてしまった。
内容としては、女を寝とった詫びとして金一万円を支払うというものだった。
途中で帰ってきた徳子がことの次第を聞き、あわてて「どうして通すのよ」と、応対した事務員をしかりつけながら社長室にはいった。
おどろいたことに、男とともに派手な化粧の一見して女給とわかる女が帯同していた。
ソファにふんぞり返る男をキッとにらみつけると、「お帰りください!」と詰めよった。
「徳子さん。それは失礼よ、ごめんなさいね」
おびえ顔なのか冷笑の顔をみせる女をかばうように、小夜子が徳子をかるくたしなめた。
「武蔵がね、お約束をたがえていたようなの。だから今すませたところなの」
書面を受けとった徳子が、「こんなもの、無効よ!」と、はねつけた。
しかしすでに一万円とさらには利息として三千円を渡してしまったあとだった。
男は「じゃ、あっしはこれで」と軽く頭を下げると、連れの女とともに立ち去った。
「お姫さま。こまります、それは。金銭の出し入れは、わたしの責任ですので」と言ったものの、今となってはあとの祭りだ。
危惧はしていた。女癖のわるい武蔵のこと、なんらかのトラブルが起きるだろうとは、五平に竹田そして徳子のあいだで話し合いはすんでいた。
とにかく頑として受け付けず、五平が相手との交渉に当たるということになっていた。
そして実際のところ、葬儀が済んでからというもの、複数人が同じような書面をみせつけてきた。
「ほんにんさん、じきひつのものだ」といきがる男たちにたいして、それらすべてを五平が怒鳴りつけて追い返している。
万がいちに五平の留守中にあらわれたときには、決して相手になるなと厳命されている。
居すわる男がいたなら「警察をよぶ」と脅かせとも指示されていた。
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