松平周防守邸では、一年のうちの三月・五月とたてつづけに二度おし入った。
それまでの禁を破ったのだ。
どうにもそれまでの次郎吉とはおもえない、まるで自暴自棄な所業がどこからきたのか、次郎吉もまるでわかっていない。
ちまちました小商いに飽きたともいえるし、己をいつわっていることへのうっくつ感もあるだろうし。
これまでの己とはちがうということを示したかった――だれに? 世間? おなじ長屋に住むおせいちゃん?――のだが、けっきょくのところ、次郎吉にもわからないでいた。
松平周防守邸では、長局の障子紙に、わざとのぞき見の穴を開けてまわった。
ご乱行ぶりを知っているぞとばかりに、だ。
また、他の大名屋敷ではそれぞれの名器らしき陶器を、片っぱしから壊してまわった。
盗み出しても、その売買によって足がつくことを知っているからだった。
しかし食事どきにつかう箸・金箔の盃やらを、箱の中から取り出して、部屋の中にズラリと並べたりした。
贅沢三昧な毎日をおくる殿さまへの、庶民の意趣がえしだとばかりに。
天保三年(1832年)五月九日に、浜町の松平宮内屋敷にしのびこみの罪で捕らわれた。
そのおり、八丁堀無宿・異名=次郎太夫事、次郎吉となのった。
実際のところ次郎吉が忍び込んだのは四月の晦日であったが、松平宮内家では厄介な手つづきをきらった。
実害のなかったこともあり、北町奉行には内緒でこんいの町方同心に相談した。
そして「当屋敷に侵入した形跡はない」と、内々に決した。
松平宮内家門前で追い払い、そののちに挙動不審者ということで、町方同心が捕縛した。
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