レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

50–50の日

2025-04-05 20:30:22 | 日記
こんにちは/こんばんは。

四月となりました。日本ほどではないでしょうが、今年の場合はアイスランドでも春の気配が濃厚に漂っています。




清涼感アップ用ピック1
Myndin er eftir Anton_B@unsplash_com


前回、私のいる教会に日参する雁(がん)のトリオについて書きましたが、書いた途端に大きな変化があり、このトリオ消えてしまいました。教会の隣りの草地、というか湿地には三、四十羽の雁が常駐していたのですが、ここも「もぬけの空」と化しました。

ネットで調べた限りでは、あのトリオはアイスランドで雛をかえす種類のものなので、国外へ旅立ったわけではないと思いますが、おそらく春となり産卵にふさわしい近隣の他の場所へ移動したものと思われます。

まあ、これこそ「春の事象」なんでしょうが、かなり残念。心にぽっかり穴が空いた感があります。寂しい。秋くらいに子連れで帰ってきてくれることを願います。元気でやれよ〜!

それでふと思い出したのですが、母の知り合いの女性の方が、一番末のお嬢さんが四月から大学生活のために札幌から福岡へ引っ越してしまい「さすがに寂しい」と漏らしていたとのこと。

この時期、大学生活や社会人生活が始まり、親元を離れて行くという人は大勢ありますよね。「心の空洞」を噛みしめていらっしゃる親御さんも多いことでしょう。いや、別に大切なお子さんたちと雁を同化させているわけではありませんが、少しは通じるものがあるような。




「トリオ」はこの種の雁
Myndin er ur Vindavefur.is


さて、今回は(今回も)個人的な話しであまりよそ様に役に立つトピックではありません。

私は1992年4月2日に成田を発ち同日の夜九時半くらいに、ケフラビクの空港に着きました。その時はヒースロー経由。九時間の時差を戻って行く方向でしたので、着いたのは日本では3日の朝となります。

ですから、つい先日で満三十三年の滞在となりました。その一方で私は今年の十一月で満六十七歳となります、それまで生きていれば。

で、この年のどこかの時点で、私が日本で暮らした年月と、アイスランドに来てからの年月が「均等」になる、ということは以前より気がついていました。一生懸命計算するほどの意義もないですから、漠然と「十一月の誕生日で50–50か」くらいの気持ちでした。

ですが、先日閃いて「あ、ChatGPT とGeminiという優れものがいるではないか。あいつらなら簡単に計算できるだろう」と思い立ち、正確にこの日本-アイスランドが50–50になる日を計算してもらったのです。

両者とも、計算の過程も説明してくれるので面白いのですが、言われてみればそんなに複雑なものではなかったです。

第一ステージ。私が日本で過ごした「日数」を計算。

1958年(私の生年)の誕生日を第一日として含めて、その年に何日間残っているかを計算。54日間。

ついで1959年から1991年の32年間の日数を計算。364x32プラスその間の閏年の数です。ちなみにこの間の閏年は八回なのでトータル12053日間。

次に1992年の4月2日(を含む)までの日数を計算。この年は閏年だったので93日間。

これらを足すと、私の日本生活日数は12200日間だったことが分かります。




清涼感アップ用ピック2
Myndin er eftir Ludovic_Charlet@unsplash_com


第二ステージ。1992年4月2日(を含む)から数えて、いつが12200日目になるかを計算。

12200日間を365,25(閏年を含めての一年間の平均日数)で割ると、およそ33年となり、12200日目が2025年のいずれかの日と確定。まあ、それは分かってたけど。

次に1992年の4月2日から2025年4月2日までの日数を計算。第一ステージと同じようなことを繰り返して、これは12054日間となります。そうすると足りないのはあと146日間。

4月の残りは28日間、5月31日間、のように数えていくと1992年4月2日から数えた12200日目は今年の8月26日であることが分かりました。

今、ご紹介したのはGeminiの計算式で、ChatGPTは多少異なる道でしたが結果はもちろん同じ8月26日。

ちょっと脱線しますが、アップル系の私はこれまでChatGPTを贔屓(ひいき)にしてきましたが、最近になってGeminiの方がいいかな?と思い始めています。まあ、その理由はまたそのうち。

そういうわけで、来たる8月26日で私の日本での生活期間と、アイスランドでの生活期間が均等になります。ということは8月27日からは一日一日とアイスランドでの生活期間の方が長くなっていくわけです。

ざっくりとした意味ではすでにほぼほぼ均等になっているわけですが、不思議なもので、心情的には日本での生活期間のほうが圧倒的に長く感じられます。これもあの「ジャネの法則」の故なのかなあ?

ジャネの法則




頼りになるGeminiの計算式の解説
Pic by Me


最近よくテレビやCMで「二拠点生活」とかいうのを目や耳にしますが、単細胞な私にはそういうのは難しいでしょうね。まあ「二拠点」にもいろいろあるから、港区と八王子の「二拠点」とかいうのなら面白いかもしれませんが。

アイスランドと日本の「二拠点」。若い人たちの中には、それに近いことをしているか、あるいはそっちに向かっているような方もあるようですが、それはそれで良いことでしょう。

私の場合はまず経済的に無理です。しかもたとえ経済が許したとしても、精神的に「二拠点」に必要とされる「切り替えの早さ」というものがありません。帰省の後こちらに帰国する度に「日本ノスタルジー症候群」を発症するくらいですから。

私には8月26日を「50–50の日」として個人的に祝うくらいがふさわしいものでしょう。オータニさーん!みたいだし。彼の場合は54–59か?

というわけで、最初にお断りした通り今回はまったくの個人的トピックで、なんの社会性も公共性もない内容でした。悪しからず。

強いていうならば、ChatGPTとかGeminiって、使い用によってはこういう個人的な記念日を算出するのにも役立つことを発見しました。これは共有性があるかも。

皆さんも何か「個人だけの」記念日を算出してみたらいかがでしょうか?


*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。


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It’s complicated - 雁(がん)の場合

2025-03-29 06:43:20 | 日記
こんにちは/こんばんは。

三月も末。来週はもう四月かと思うとちょっとビックリです。私がアイスランドに移住するため成田から出発したのが、1992年の4月2日でしたので、まもなく満三十三年になります。

それに関連した小ネタがあるのですが、それはまたの機会に。




清涼感もあるつがい鳥のいる風景
Myndin er eftir Einar_Jonson@unsplash_com


今日は鴨についてです。鴨といってもいろいろな種類があると思うのですが、ここでいう鴨はアイスランド語ではGragaesaaetkvislと呼ばれるグループのもので、英語ではGleylag goose familyというのだそうです。Anserとも呼ばれています。

日本語ではなんじゃい?と思って、Gemini2.5Proに聞いたところ、「ハイイロガンの家系」。ありゃ?ワタシが「鴨」と思っていたのは「雁(がん)」だったみたいです。(恥)

そうなると雁と鴨はどう違うのかを知る必要が出てきます。典型的な「ブログあるある」で、数珠状に知識不足が露呈してしまい準備事項が増えてしまいました。

学術的には雁は「カモ目カモ科」に属するものだそうで、なんだ、やっぱ「鴨」じゃん。ちなみに白鳥もおんなじ「カモ目カモ科」ということです。

雁と鴨の違いはいくつかあるようですが、まずは見た目のサイズが雁の方が一回り鴨より大きく、また雁はオスメスがほぼ同じ容姿ですが、鴨はオスが繁殖期(発情期)になると派手な姿に変身しちゃうことが多いのだそうです。よく見る頭が輝く緑色の鴨はこの変身中の姿。

それから雁の草食性に対して鴨は雑食性。雁は日中活動しますが鴨は夜行性。もうひとつ面白いのは、雁は一生つがいが変わらない真面目な一夫一婦制を貫くのに対して、鴨は発情すると手当たり次第、かどうかは知りませんが、つがいの枠が壊れることもあるそうです。

すいません。以上は単なる予備知識です。精査したわけではないので、間違いがあるかもしれませんが、まあ、ざっくりとは当たっていると思います。




メスの気を引くためのファッションだそうで...
Myndin er ur natureー engineer.com


さて、去年のクリスマスの前くらいから、三羽の雁が私のいる教会の玄関や窓際に出没するようになりました。教会の隣にはかなり広い野原があり、そこには全部で三十羽くらいの雁が常駐しています。

この野原、そんなに入って行ったことなかったのですが、よく見ると湿原地帯で、あちこちに池のような水たまりがあります。そういうのがいいんでしょうね、雁とか鴨さんたちには。

この雁さんたちは、教会周辺だけではなく、かなり広範囲な地域をぐるぐると巡回して生活しているようです。こちらの人はもう慣れているので、行く先々でパンとかをもらっているのでしょう。

その中の三羽が、私のいる教会に日参するようになったのでした。私もそういうのは好きな方なので、来れば必ずパンをあげるようになりました。しばらくすると、慣れたというか、図々しくなったというか、クチバシでガラス戸をコツコツ。「来たぞ。飯くれー!」

最初から不思議だったのは、なんで三羽なんだろう?ということでした。雁とか鴨はわりとそこらじゅうにいるのですが、普通はつがいの二羽で歩いています。私がひとりぼっちで歩いていると、見上げてバカにするんですよ、あいつら。「ひとりとは、かわいそうな奴だ」余計なお世話だ。

この三羽。身体のサイズから判断して、オス一羽とメス二羽と思います。正妻とお妾さんかなあ。お妾さんなんて言葉、今時(いまどき)使っていいのだろうか?いけなかったらごめんなさい。

でもおかしいでしょう?冒頭の説明でもあったように、雁は一生つがいを解かない真面目な生き方をしているのです。




教会の裏玄関をコツコツする一羽
Pic by Me


Facebookでちょっと書いてみたら、「おそらくそれはまだ生まれたばかりの三羽で、まだつがいとかが出来上がっていないのではないか?」という意見がありました。そうかなあ?結構でかいけど...

まあそれは謎でしたが、それこそ余計なお世話で、彼らには彼らの事情があるのでしょう。It’s complicated.

時折、どこかへ遠征していて顔を出さない日もあります。それが二日続くと心配になってきて、鳥インフルにかかったのではないか?どこかで車に轢かれたのではないか?ガキ大将に石をぶつけられたのではないか?とまったくの親バカです。

ところがです。ここ二週間ほど、ある変化が生じています。オスが、二羽いるメスのうちの一羽に意地悪をするようになってきたのです。その子がパンを食べようとすると、身体を低くして首を伸ばし、突っ込むような仕草をして脅かして、パンを食べさせないのです。

たまにならいいのですが、ここ二、三日は「必ず」になってきました。このいじめられてる一羽は、当初より他の二羽から距離を取っている感があり、私は「お妾さん」と思っていました。それに身体も小さい。食が足りてないのかも。

こういうのを見るのは、残念で仕方がありません。「お父さんはお前らが仲良くご飯を食べるようにと思って、パンをあげているんだ。そんなに意地悪するならもうあげないぞ」と言ってやりたいんですけど...

でも「正妻」が「お妾さん」に意地悪するなら、わかりますが、なぜオスがそうするかなあ?もう、要らねえってか?ワタシ的にはお妾さんに言ってあげたい。「さっさと見切りをつけて、新しい相手を探しに行きなさい。こんな家庭内暴力男と一緒にいて、いいことないから」




仲良く食べてもらいたいものです
Pic by Me


まったく、もらったパンであることを忘れて、あたかも「すべてはオレのもの」と言わんばかりのこのオスには多少腹が立ちます。「このパンはお父さんが自分のポケットマネーで買ってきてるんだよ、お前らが食べられるように」

ですが、その時ふと気が付いてしまったのです。「神の目からしたら、我々はこの雁たちとまったく同じではないか。我々も同じようなことばかりしてるよね」と。

陽の光、水、空気、草花、山の幸、海の幸等々。自分で作ったわけでもないものに囲まれて生活しているのに、いつの間にか「すべてはオレのもの」「いやワタシのもの」とかいさかいを繰り返す。

加えて三角関係のもつれの醜い争い。それは雁より人間様の方がより凄まじいかも。雁は殺しまではやらないだろうし。

やれやれ、そういうのを何世紀も見続けていたら、さぞかし神様もお疲れのことでしょう。まことに申し訳ないです。

それにしても、このトリオ。行く末がどうなるのか興味津々です。もちろん雁に説教はできないですから、ただただ自然の法則に従わせるしかありませんが、それでも、あわよくばハッピーエンドになって欲しいと願ってしまうのは、これも親バカでしょうか?


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お茶目になってきたポケちゃん

2025-03-22 21:28:27 | 日記
こんにちは/こんばんは。

三月半ばですが、まずは嬉しいお知らせ。前回、油圧式のケーブルマシンを使ったベンチプレスで、現在95キロ。100キロ上げたい!というようなことを書きましたが、先週の月曜日に100キロ上がりました!万歳!

その後一日休んで、水曜日、木曜日にも上がりましたので、もう100キロは完璧にクリアです。次は110... とかではなくて、今度は懸垂ですかね。恥ずかしながら、順手での懸垂は三回くらいがマックス。しかも、二年くらい前の調子の良かった時の話しで、今はゼロ回に落ち込んでます。

夏が終わるまでに五回くらいはできればいいな、と思います。達成できればまた自慢します。できない場合はそれきりです、へへ。




清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Nicolas_J_Leclercq@unsplash_com


さて、今回はAIについて少々。ご存知でいてくださる方もあると思いますが、私はキリスト教会の牧師で、毎日曜日にレイキャビクにある教会で英語をメインにした集会(礼拝)を持っています。

ああ、そうそう大切なことをひとつ。四年間ほど一緒に仕事をしていたアニー牧師が出産を機会に他の教会のポジションへ移動し、今年の一月からアーニーさんという新しい男性牧師が相棒となりました。

アーニー牧師はまだ二十九歳で、現段階では国民教会の最年少牧師です。なんせ私のふたりの子供より若い。という「親子ペア」になりました。相撲取り並みに大きな若者で、のんびりした雰囲気を醸し出しています。

そのイメージの延長で「細かいことにいいかげんなんだろう」と偏見を持っていたのですが、意外や細かいことに几帳面。しかも学業「超」優秀。性格も良い。ということで、私はアーニー牧師は将来一角の牧師になるだろうと考えています。




世代的には完璧に親子的 
Pic by Me


それはともかくとして、私たちの礼拝では英語を使いますが、集会には英語が得意でないイラン人の人が相当数います。これまでいろいろと通訳で苦労をしてきたのですが、昨年の夏から日本誕生のPocketalkポケトークなるAI仕様の同時翻訳プログラムを使い始めました。このことは以前書いたことがあります。

This is revolutional カクメイだ!


まだ発展途上にあるプログラムとはいえ、非常に役に立っています。先日ポケトークから送られてきた宣伝によると、現在は日本の学校でもこのプログラムを使い始めているところがあるそうです。なんでも日本に在籍する外国人児童・生徒のうち、日本語指導が必要な学童が7万人近くいるのだそうです。しかも、そのうち15%ほどは日本語指導を受けられない状況にあるとか。

そういう状況で、このポケトーク・プログラムが導入され始めているようです。宣伝から直引用すると「導入後のアンケートでは、教職員からは87%が『今後も利用したい』と回答し、児童生徒からは86%が『利用に満足している』と回答するなど、高い評価を得ています。翻訳精度や速度に関する課題も一部見受けられましたが、今後も改善を続け、より質の高いサービスを提供してまいります。」

別にポケトークの宣伝をして、見返りをもらっているわけではありませんので、念のため。ただ私も含めて「同時通訳が必要」という状況に遭遇する者にとっては、ポケトークが頼りになる助っ人であることは実感していますし、もっと発展してもらいたいので進んで紹介したいです。

さてここからが本題。

AIの発展というのは周囲の研究者たちが発展させるのはもちろんでしょうが、AI自体が自分で発展する部分もあるのだそうです。知識がないので詳しいことは分かりませんが、AIについて学んでいたときに何かの記事で「実はAIがどのように自己進化しているかについて、そのプロセスは解明されていない」とか読んだのを覚えています。




チョイ、ポケトークの宣伝
Myndin er ur Pocketalk.co.jp


まあ、そういう部分があるから「AIはいつか人間を超える」「AIが人類を支配するようになる」というような警告、不安、妄想、夢、御託が生まれてくるのと思います。私自身は専門家でもないので「そんなことは... 」くらいのノー天気で構えていました。それがですねえ...

ポケトークを使っていていくつか気がついたことがあります。ここからがコワい話です... よ。

ポケトークの同時通訳プログラム。私は礼拝が始まる五分前くらいからスタートさせます。礼拝前というのは、まあ何事もそうでしょうが「これから始まります」というタイミングなので、おしゃべりが収まり静かになります。

そうすると、何も翻訳する言葉がなくて退屈するのか、ポケトークの勝手な言葉がスクリーン上に出てくるのです。大体の場合は単純な言葉でHello, Bye, Thank youとかです。

それが使っているうちに、もう少し語彙が増えてきて、はっきり覚えてはいないのですが、他の文言をつぶやくようになってきました。覚えているのは“I have to say about this”とかなんとか、変な文章まで混ざることがあります。もっともその時はイラン人の人たちが私語をしている時だったので、ペルシャ語を聞いたポケトークが勝手に英語での類推をして翻訳してしまったのかもしれません。

ああ、ちなみにポケトークは入力言語は英語、日本語、フランス語等のメジャーな言語に限られていて、英語をペルシャ語に翻訳はしてくれますが、その逆は今の時点では不可です。




ポケちゃんを使うワタシ
Pic by Me


先日、アーニー牧師が礼拝で説教をしている時、私は会衆席の一列目に座って、ポケトークの翻訳するスクリーンのテキストを見ながら話を聞いていました。スクリーン上にはアーニー牧師の話す英語と、そのペルシャ語訳の双方が出てきます。

そしてアーニー牧師の話しの中で“... and God gave up ...”という一節があったのですが、その部分をポケトークは“and God’s Gay Pride...”と宣いました。“God’s Gay Pride”? なんじゃ、そりゃ?(^-^;

その時思ったのです。これはポケトークの聞き取り間違いなのか?それとも承知の上でのジョークなのか?うーん、怪しい。

その時、続けてこう思いました。ポケトークもAIだし進化してるんだろうが、一体どういう進化をしてるのかなあ?と。教会のお説教中に“God’s Gay Pride”をジョークとして入れてくるとしたら、なんというか、それなりに面白いキャラクターだなあ、と。

もしかして、飼い主に似る?それは犬か?だいたいワタシは生真面目でそんなにお茶目キャラではないし。

皆さんはどう思われますか?ご自身で使われているAIに、そのようなお茶目な成長をしている子はいるでしょうか?

まあポケちゃんも、あまりお茶目になりすぎないで成長して欲しいものですが、ポケトークの会社さん、よろしくお願いしますよ。役に立つのは間違いなし。ペルシャ語から英語への翻訳、早く可能になることを願っています。


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いつの間にかの春の夢... 霞か?

2025-03-15 22:39:53 | 日記
こんにちは/こんばんは。




清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Ludovic_Charlet@unsplash_com


三月になりましたね。アイスランドでは三月というのは、真冬が終わったかなあ?ということを感じさせてくれる時期です。まず、日が長くなってきたことに最初に気が付かされます。

仕事が少し長引いて七時近くに帰路についても「まだ明るいじゃん」毎日少しずつ日が伸びているのですが、それ故気がつきにくいものですね。何かの機会でいつもと違うパターンの行動をした時にやっと気がつくようなとこがあります。

さらに今年の場合嬉しいのは、気温がすでにかなり上がってきていて、「真冬は過ぎた」どころか「春」になっちゃってます。まだ「寒の戻り」はあるでしょうが、私の心の暦では「春」に移りました。

三月というのは、その他には特になんということはない月です。もちろん復活祭が三月中に入り込んでくる年もあり、その際には復活祭に先立つ「受難週」という教会にとっては大切な一週間がありますので、多少事情は変わってきますが。

ここに毎年日本とのギャップを感じてしまうものがあります。日本では四月の新年度を控えて、三月は結構いろいろありますよね。卒業式とか、あるいはその後での休みの期間に海外旅行へ出るとか。テレビ番組の一新の予告とか。

その辺の感覚が私の中からはすでにごそっと消えてしまっていることに、毎年気がつかされます。なぜ気がつくかというと、大抵の場合日本のニュースですね。卒業式関連のニュースを見て「ああ、そうか」と知らされるわけです。




夢溢れる春キャンプの一コマ
Myndin er ur DodgerBlue.com


これも「今年の場合は」という限定付きのことかもしれませんが、日本が羨ましい。だって今日やってるじゃないですか、ドジャースと巨人のエキシビションゲーム。これは残念ながらMLBのネットでは視聴できません。ネットでダイジェストのシーンを後追いで観るだけです。

ああ、そうそう。三月は野球のオープン戦の時期でもありますね。これもアイスランドでは外国で起こっていることにすぎないんで、うっかりすると「えっ?もうやってんだ」みたいなことになりかねません。

またまた「今年の場合は」ですが、昨年ドジャースが優勝したこともあり、かなりMLBのニュースにはひっついてきましたので、ちゃんと頭の中に入っていました。

以前書いたのを覚えていますが、野球のスプリングキャンプとかオープン戦の時期は好きです。みんな期待感と希望だけを持っていて、すべてがポジティブ?みたいな。

開幕して一ヶ月もすると、だいたい「いける」「ダメだ」って明らかになってしまいますが、開幕前はまだまだ夢いっぱいです。ありがたい時期かも。

ここまで読んでくださった方はもうお気づきでしょうが、今日は特に「これ」というトピックがないのです。まだかなりの繁忙期が続いており、あまり頭脳の融通が効きません。ゴメンナサイ。m(_ _)m

くだらないけど夢続きでいいますと、今現在私にも夢があります。夢というよりは具体的な目標かな?




お気に入りのケーブルマシン
Pic by Me


ワタシ、それなりの筋トレ好きで、もう五年間くらいは筋トレを続けたり、怠けたりを繰り返しています。ジムに行くのは嫌なので、自宅にまあまあエクササイズができる程度の器具を集めました。

ダンベルとベンチがあれば。かなりのエクササイズはできるものなのですが、私のお気に入りは三年前の夏に買った油圧式のケーブルマシンです。これの組み立ての様子はブログでご紹介したことがあります。

Summer is back! の月曜日の過ごし方


このマシンでベンチプレスもできます。ベンチプレスというのは仰向けに横たわった姿勢で、胸の上にバーベルを持ってそのまま胸の上に持ち上げる運動で、まあ、一番単純でみんながやる種目です。

Youtubeとか観ていると「ベンチプレスで100キロ上げるのが、フツーの男子の目標」みたいなことをよく耳にします。100キロというのは、初心者には相当な重さですが、中上級者仲間では別にそんなに大した重さではありません。

で、私今、95,0キロまできました。あと5キロ。去年の八月にもここまで来たのですが、そこで気管支炎を患ってしまい、五ヶ月ほど筋トレリタイア。今年になって再開したら、なんと70キロすらギブアップのていたらく。

コツコツとリハビリを続け、やっと昨夏の水準まで戻ってきました。なんとか四月中には100キロ、達成したいですね。

正直に申告しておきますが、この「100キロ」油圧式マシンの目盛りの100キロなので、本当にジムのバーベルの100キロほどはないかもしれません。これは実際にジムに行って、自分がどのくらい上げられるかをテストするしか確かめようがないです。

六十六歳で筋トレなんて「無駄ムダ」とお思いなる方もあるかもしれませんが、そんなことはないですよ。やれば必ず結果はついてきます。若い人よりは時間がかかりますが。

ちょうど、昨年の今頃かなあ、かなり難しい「立ちコロ」という種目ができるようになりました。これはアブローラーという車輪状の器具を使って腹筋を鍛える運動です。両手で持った車輪を床につけ、身体を伸ばしてからまた元へ戻るのですが、かなり難しい運動で「みんなができる」というものでもありません。

私も一年以上かかりましたが、ともかく今はできます、そんなに苦労しないで。さすがにこれができた時は、嬉しくてFacebookで自慢しました。(^-^; まあ、あれも「夢」のひとつでしたね。




立ちコロ 身体を伸ばし切ってから元へ戻る
Pic by Me


以前、よく考えました。「なんで、もっと若い時に筋トレしなかったのだろうか?」と。ある時答えがわかりました。

もっと若かった時にはですねえ、子供のための時間とかは除いた自由になる時間というものは、すべてこの社会で生き残り、社会から認められることに費やしていたと思います。

アジア系の移民で、言葉も完璧ではないバツイチ男ですからね、それなりに浮いた存在ではありましたが、それなりにオレオレのギラギラもあったと思います。だから、その期間は筋トレとか、趣味のことは考えられなかったなあ、と。別の夢があったわけです。

だから、逆に今筋トレができているということはありがたいことです。夢としてまだここにあってくれるから。でも今を逃したら、もうする機会はないでしょうね。

まとまりのない回で申し訳ありませんが、夢にもピンからキリまであります。野球観戦も夢となりましょうし、筋トレとかでの目標達成も夢。仕事での満足できる成果も夢でしょう。

夢は大切。春の夢を追っかけましょうね。たとえ霞を喰うことになっても... 


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ジャネの法則

2025-03-08 21:49:54 | 日記
こんにちは/こんばんは。

どうもここのところ、落ち着いてブログを書く時間が取れず相変わらずの二週間ぶりくらいの更新になってしまいました。空き時間というものは、そこここで生じるのですが、昭和なワタシはオフィスではブログを書く気分にはなれません。やはり自宅でないと。

その間に早くもアイスランドは受難節に入ってしまいました。受難節というのは、キリスト教の宗教的な暦の一部でキリストが十字架にかかるまでの途往きを偲ぶ期間です。




清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Jonatan_Pie@unsplash_com


今「早くも」と書きました。何度も何度も書き過ぎているのは承知していますが、時が経つのが「早い」のです。私の同年代の皆さんなら同じように感じられている方は多いことでしょう。

この間、日本のバラエティを観ていて知ったのですが(何か雑学を披露しあう番組)、この「時が経つ早さ」についてきちんとした心理学的説明があるのだそうです。「ジャネの法則」というのだそうな。知らんかった。

19世紀のフランスの哲学者ポール・ジャネさんが考えつき、その甥の心理学者のピエール・ジャネさんが「記憶の進化と時間観念」という本で紹介したものだそうです。1929年のこと。そんなに前からあるんか?無知無学でした...(恥)

この辺Wikipediaの受け売りになりますが、この法則は「簡単に言えば、生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例すると主張したもの」だそうです。

どういうことかというと「例えば、60歳の人間にとって1年の長さは人生の60分の1であるが、6歳の人間にとっては6分の1であり、主観的に感じる年月の長さは歳をとるほど短くなる(時間が早く過ぎると感じる)」

ジャネの法則 Wikipedia




自宅近所 遥かにスナイフェトゥルネスの氷河を臨む
Pic by Me


つまり、六歳児にとっては一年間という月日は自分のそれまでの人生の六分の一を占めやます。時間的な比率にして約17%に達します。かたや今現在六十六歳の私にとっては一年間は六十六分の一に過ぎず、比率も2%に過ぎません。

そういうことから、年齢がかさむほど例えば「一年間」という単位の時間の経過が「早く」感じられるのだそうです。あくまでも「感じられる」という心理的な現象です。

専門的には、いろいろと補足・訂正や異論もあるらしいのですが、でもなんとなく納得してしまいますよね。おいら、単純だからかな?

小学校の3、4年生くらいの時って、本当に一年が果てしない長さに思えましたよね。だいたい「一日」が長かったよな。だから「二十歳になる」ことなんて、遥か未来のことと考えていたことは覚えています。

でも二十歳から四十歳までの二十年間は、そこまで果てしない長さではなかったですし、そこから先の二十年、いや現在までの二十六年なんて小学生時代の「一学期」くらいのものでしかない気がします。

ようやくそのように感じてしまう原因というか理由がわかった気がします。ジャネさん、ありがとうございます。

ですが、この法則によればひとつ歳を取る度に「早さ」は増していくわけですから、来年のワタシの「一年」は今年の「一年」よりも早くなり、さらに翌々年はますます「早く」なるわけですね。ちょっとヤバい気がするんですけど。(^-^;

脱線しますが、「朝早く起きた」は当然「早く」と書きますよね。「時が経つのがハヤい」は「早い」なのか「速い」なのか迷い調べました。

時間の経過そのものが「ハヤい」か遅いかは、基本的に心理的な事象にすぎず、実際に時間の流れが「速く」なったり遅くなったりするわけではないので、「早い」とすべきだそうです。なるほど。日本語、奥が深いです。




教会の天窓越しの十字架
Pic ny Me


ところで「時の流れの早さ」について、ちょっと思いついたことがあります。ジャネさんの法則によって、例えば年末に「今年は早く過ぎたなあ」と思えることの理由は説明できる気はします。

ですが、私がこの二、三週間で感じているような「時の経過の早さ」というものは、ちょっと別種のものであるような気もします。それは「ある一定の期間が早く過ぎるかそうでもないか」というよりは、「その期間が経過していることを意識していない」というものではないかと。

私、毎朝毎夕、結構な数のカプセル・錠剤を飲みます。飲まねばならぬお薬は痛風予防の一粒だけで、あとは筋トレ関係のサプリばっか。一週間分の仕分け用の「薬箱」?がふたつ、朝用と夕・晩用にキッチンに置いてあります。当然、週に一回はその薬箱にサプリを補充してやるわけですが、時折「えっ?もう空?」っていうことがあります。補充したばかりのはずだけど...? 

これは人生の長さというよりは、何かに集中、没頭しているから起きることですよね。コンピューターゲームに夢中な時は時間を忘れるし(ワタシはそれはないです)、仕事が忙しい時はやはり一週間も知らぬうちに経っています。

だから仕事でも趣味でも、何か「集中・没頭」してしまうと時間は結果として「早く」過ぎてしまうことになりますよね。これは経験則として納得。

一方で、歳を重ねることにより大局的に「一年」というようなまとまった「時間」は早く流れていく。その一方で物事の集中したり没頭したりすると、その間の時間も早く流れていく。




精神鎮静用ピック
Myndin er eftir Kamil_Kalbarczyk@unsplash_com

これは「ヤバい」の二乗です。ヤバいよ、ヤバいよ。昨年の日本人男性の平均寿命は81歳。ワタシが平均寿命まで生きられるとして、あと十五年。...! たった十五年?

誕生から中学三年までの十五年だったらいいけど、六十六からの十五年とは「一年=人生の2%」よりもさらに低くなっていく比率x15ですよ。しかも、仕事を楽しんで没頭していたら、時の経過はさらに加速。

十五年なんて、おそらく四年分くらいの実感でしかないんじゃないかな?これは焦ります。歳の進行は止められません。だとしたら何かに集中したり、没頭したりすることを避けて、加速を防ぐか?

う〜ん、集中も没頭もしなければ人生そのものがつまらなくなる。いやいや、四面楚歌というか、前門の虎後門の狼というか... あ、それはチョと違うか?とにかく「明日、何をして時間を潰そうか?」と考えあぐねていた小三の頃に戻りたくなる。

ご同輩の皆さんはどのように感じられていますか?

そして若い皆さん、時の経過は加速していきます。一年は、そして一日一日も年毎日毎に短くなっていっていることをお忘れなく。

明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは 
これもチョと違うか?(^-^;


*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。


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