レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

今年はヨベルの年 今年「も」だ...

2025-01-27 23:35:19 | 日記
こんにちは/こんばんは。




清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Daiei_Lu@unsplash_com


2025年が明けて、早くも一ヶ月が経とうとしています。皆さんにおかれましては、どうでしょうか?今年は良い年になりそうな気配ですか?それとも... ?

日本の皆様の非常に多くの方が初詣でに行かれると思います。良年の祈願ですね。日本人というのは、周囲を見回してみても -アイスランド人、アメリカ人、イラン人等が主ですが- 新年というものを非常にまじめに、シリアスに受け取る国民だと感じ入ります。

これは私自身もそうで、別に宗教的な意味付けはないのですが、なんというかDNAの中に組みこまれた性癖の一部なのではないかと考えています。

そういうDNA的に日本の文化伝統に沿った部分と、洗礼を受けてまもなく45年になるキリスト教的思考の部分が、私の中に共存しています。別に争っているわけではなく、大概の局面ではそれなりの調和をし、何ら問題はありません。

それでもやはり、違う部分はありますし、その違いを考察する中で自分にとってより良い何かを得ることもできたりします。

元日に私自身も「良い年になりますよう」と願掛けをします。まあ私は教会の牧師ですので、「願掛け」というよりは祈りですけどね。そのように願うことはとても自然な行為あるいは気持ちだと思うのです。

ですが、それでそれっきり。あとは神様仏様任せ。ということになってしまうと、結局年末の一年を振り返る時期になって、その年に良いこと、めでたいことが多かったら「良い年」、嫌なことや残念なことが多かったら「悪い年」と結論付けるだけのことになってしまいます。運任せ、というか結果論ですよね、これって。




先週の土曜の夜 日曜の前になると降る...
Pic by Me


毎年、元日に必ず読む聖書の箇所があります。宗教に関心がない方も、ちょっとだけ我慢してください。

-「主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
(...)
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。- (ルカ福音書4章18b-19, 21 新共同訳)

「主の恵みの年」とあるのは、ユダヤ教の律法の中にある「ヨベルの年」と呼ばれる五十年おきに巡ってくる年のことです。この年には奴隷は解放され、また借金は帳消しにされるように、と定められています。人間生活と社会のありようの全リセットというか初期化ですね。

弱い立場にある者にはまさしく「ありがたや」の年なのですが、実際にはそのような恩赦的なことが行われたかどうかは、確かではないようです。なんでも決め手になる記述がどこにも残ってないのだとか。

それはともかく、ご自身の到来によって、そのような恩赦・解放・リセットは「実現した」とキリストは語ったのです。もちろん、私たちの生きている現実は相変わらずのわけですが、大切なことは私たちは神のそのような約束を得ているということなのです。この約束は、私たちひとりひとりの人生の「その先」で確かめることができます。




自宅の庭の木 雪化粧でちょっと綺麗
Oic by Me


で、ここで言いたいことなのですが、まず、いずれの年にも良いこと悪いことはあります。多少バランスの傾きはあるかもしれませんが、長い目で見れば半々くらいになるのが相場でしょう。

そういう中でグッドラックをただ期待し、バッドラックを心配するよりは、私は神が与えてくれる恵みを見つけていく方が大切だと考えています。キリストが言われたように「主の恵みの年」はすでに来ている。実際は毎年が「主の恵みの年」なのです。そして毎日が「主の恵みの日」

ただ、私たち人間は弱いもので、いっとき何か恵まれた出来事を神に感謝しても、ほどなくそんなことは当たり前になってしまい、「恵まれたこと」とは認識しなくなっていきます。これは宗教に関わらない一般的な傾向です。

そしてただ「恵まれている」ことの認識がなくなるだけではなく、逆に自分の生活の中の些細なトラブル、足りないこと、不満足といったことばかりが目につき始めるのです。

教会は聖人の集まりのように勘違いされている方もありますので、敢えて教会の中からの困った話しを例に取ります。

私が奉仕している教会には難民の人が多くやってきます。難民申請が審査されている間(数ヶ月から一年くらいかかります)熱心に教会の集まりに出席する人も多いです。

キリスト教の教会に行く自由がない国からきている人もありますが、彼らは「自由に、そして危険なく教会に行けるのは夢のようだ!」と喜んだりします。そして申請が許可されると、それはもう確かに「神の与えた恵み」であることを心底実感しています。




これは日曜日の教会裏玄関からの景色
Pic by Me


ところがしばらくして、通常の市民としての生活が始まると、例えば「教会の参加者の中にイヤな奴がいる。会いたくないから教会に来るのをやめる」とか言い始めたりしてしまうのです。

神が与えた大きな恵みが見えなくなってしまい、逆に「イヤな奴がいる」という実にありふれた不満足が心を占め、生活を支配してしまっているのです。本当に残念だけど、定期的にありますよ、こういうの。

自分の生活の中の恵みが見えなくなり、些細な不足と不満足が自分の生活を支配し始める。このパターンにはまっている人は、絶対に幸せな人生を送れないと思いますよ。かくゆう私自身も気付かぬうちにこの状態に陥っていることもありますし、定期的に自分を振り返ってみる必要があるでしょうね。

また少し教会的な言い回しになってしまいますが、神の恵みは絶対にここにあるのです。幸運とか不運のような運任せのものではなく、神の恵みとはもっと鉄板なのです。ですからそれが見つからないのであれば探すべきです。それでも見えないのであれば、自身のありよう、心の眼をチェックしてみるべきでしょう。

結果として、「この年は良い年だったなあ」「今年は悪い年だったよ」とかお酒の席で口にすることはありましょう。ですが良い年、悪い年を通じて私たちは恵まれたこと、感謝すべきことに囲まれているはずでしし、その反面で様々な不足、不愉快、不満足にも直面しているはずです。だって生活ってそういうものだから。

その中で、不平不満ばかりに目を奪われたり、心まで持って行かれてしまったら「良い年」も「悪い年」になってしまいかねません。私も気をつけますが、皆様もチラッとそんなことも考えてみてくださって損はないと思いますよ。


*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

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だってまだ若いんだもん

2025-01-22 02:43:41 | 日記
こんにちは/こんばんは。




清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Bailey_Zindel@unsplash_com


このブログを始めたのは2012年の夏だったのですが、平均して言えば「週一」のペースで更新するリズムを保っていました。それがブログ開始十年を超えた2023年になって、三ヶ月ほどの急死、じゃない「休止」期間を作ってしまいました。

その後も一ヶ月間(ま)が空いたり、二週間空いたりということが頻繁となっていました。こうなってくると、ブログを訪ねてくださる奇特な皆さんからも「もうやる気がないんじゃないの〜?」と言われても仕方ないですよねぇ。

今年はできるだけ間が空いてしまわないように継続していきたいと考えています。サイバー攻撃がなければ... (^-^;

2023年の休止期間は、ちょっと自分の今の在り方を振り返りたいなあ、というような心持ちになったことが底辺にあったのですが、再開後のブログを読み返してみてひとつ気付くことがあります。

それは自分が高齢者になってきた、ということが割りと頻繁に言葉となって現れてきている、ということです。「自分の在り方を振り返る」なんていう心持ちになるということ自体が「老い」と関連したものなのでしょう。

それは決して「老け込む」ことと同義ではないですよ。「高齢者になってきている」という事実をどのように認識し、そのことと付き合っていくか?を考えることが、その時の自分の「在り方を考える」ことの中心にあったと思います。

そしてそれはまだ続きています。そこで今回は「老いを生きるー中間レポート」です。なんの科学的根拠にも依らない、ワタシの独断と偏見に満ち満ちた報告となります。




礼拝中に撮った写真 集中してない証拠(^-^;
Pic by me


報告その1: 年寄りは自分を年寄りとは思っていない

若い頃よりいつもこういう事例を周囲から、あるいはメディアを通して見聞きしてきました。「この間電車で座ってたら、僕の前にお爺さんが立つ状況になっちゃって、『どうぞ』って席を譲ったら『年寄り扱いするな』みたいな顔をされた」

正直言って、その頃はそういう時の「お爺さん」の気持ちは察しようがなかったです。「何だ、頑固ジジイが」という感じ。それが、今自分が六十六歳という時期を迎えて、ようやくわかり始めてきました。

これはかなりの数の同年代の皆さんに共通していることではないかと想像するのですが、私たちは「自分の頭の中では四十代の頃のマンマ」ということです。主観と客観という考え方は一般的ですが、私はここでは「主観と周囲観」という言い方をしたいと思います。

つまり、その個人が自分ではどう思っているかということと、その個人の周囲がどのようにその個人について考えているか、という視点の違いです。

今さっき書きましたように、私は(そして多くの同輩は)、自分が高齢者などとは自覚していないのです。これは強がりとかツッパリとかではなくて、単に頭の中にそういう概念がないだけなのです。だってまだ若いんだもん。




毎日教会へ詣で出てパンをねだる三匹のアヒル ドアを「カツカツ」します
Pic by me


報告その2: 高齢者は周囲が作る定義だ!

その一方で、私を取り巻く環境は別の視点を持っています。それは「だけど、オマエは事実66歳だろ!」という視点です。

昨年の11月に札幌へ帰省した際、JALのチケットにはToma,Toshikiという私の氏名の脇に「age 65(当時)」と年齢が記載されていました。ギョギョ! ですよ、まさに。私の内面的事実(まだ四十代)を冷たく否定した生物学的事実の記載です。

だからその記載を見るJALの天女様たちは、私をそういう前期高齢者の一味として(のみ)接してくれるわけです。JALのプラチナカードやらダイヤモンドカードやら他に見せる特典がないから。

これが「主観」に対しての「周囲観」です。で、世の中には「周囲観」を育てる要因が山のようにころがっています。例えば「老眼鏡」です。多くの人が歳を重ねる中で自覚する肉体的変化である「老眼」をお助けするメガネ。

アイスランドではLesglerauguレースグレールオイグと言います。直訳すると「読書メガネ」そうなんです。ここではこのメガネの必要は「老い」とは関連づけられていません。ただ単に「読書のための視力の調整」をするメガネなのです。だから誰も照れなく使えます。

最近、私がひしひしと感じさせらていることは、年齢は(特に高齢は)自分が認識することであるよりは、周囲から押し付けられる観念だ、ということです。いや「押し付けられる」は違うな。そんな悪意があるわけではないから。

「押し付けられる」と受け取ると、電車で席を譲られて怒るようなことになってしまうのでしょう。ここは単純に自分と周囲との「認識の違い」としておきましょう。悪意のないものとしても、その違いで自分の周りに心理的な柵を巡らされてしまうような気が...




教会前の駐車場からの景色
Pic by me


これに加えてさらに客観的な環境の変化というものもあります。自分の変化そのもの(歳を重ねる)ではなく、周囲の方の変化です。

例えばですねえ。私のいる教会には、地区のサービスセンターのようなものが併設されているために、結構な数の牧師さんが働いています。その中で、私もかつては「そんなに若い方ではないけど、別に上の方でもない」という状況でいました。それが、気が付けば私より年上の牧師さんはもはやひとりだけ。

当たり前のことですが、年月の中で、自分がかつて知っていた同僚の皆さんは順次お辞めになっていっているわけです。自然なことです。ところが後を埋めて入ってくる若い牧師さんたち。あんまり知らない人が多いのです。向こうもこっちを知らないし。

というわけで、ここで「知り合う」プロセスがうまくいかないと、だんだんと自分の知っている部分が少ない職場環境になっていってしまうのです。これもいいことではないですね。

人間、孤立化すると、ああでもないこうでもないと、不平不満や自己憐憫、はたまた被害妄想にまで襲われたりしますから。そうなると「だから年寄りは扱いにくい」みたいなドツボにハマることになりかねません。

ですから、ひとつには自分という存在に対しての、自分自身の認識と周囲の認識の違いがあり、その一方で確実にやってくる環境の変化というものがあります。このどちらにも賢明に対応しないと「上手に歳をとる」ということは難しくなるのでしょう。

いやあ、もう六十六年人間やってますけど、人間ってまだまだ奥が深いもんですねえ。もう一回高田純二さんの「三戒」 −歳取ったらやっちゃいけないこと− を噛み締めておきましょう。

一 自慢話しをするな
二 昔話しをするな
三 説教をするな

これらに引っかからない手段はただひとつ(かどうかは知りませんが、少なくともひとつの有効手段は)、チャレンジし続けることだと思います。仕事でも、趣味でも。まあ、それはまたの機会に。
最後にあがきの一言。だってまだ若いんだもん。(*^^*)


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そうだ!トヤマ行こう!

2025-01-18 06:00:44 | 日記
こんにちは/こんばんは。アケオメの回から久しぶりの更新となってしまいました。正確に言うならば、2025年になって初めての回となります。毎度の遅延ブログですが、今回だけはワタシの責任ではありません。




清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Jeremy_ Goldberg@unsplash_com


覚えている方もあるかもしれませんが、1月2日にドコモとこのブログを仕切っているGooサービスに対してDoS攻撃がありました。結果、サイトへのアクセスが遮断されてしまいました。

DoS攻撃とはDenial of Serviceのことだそうで、一時(いっとき)に大量のデータを投げ込んでサーバーの処理を麻痺させることだそうです。知らんかったけど。

ドコモとGooサービスは、サイバー攻撃にあっていることを公表した上で、その日のうちに仮復旧したこともアナウンスしていたようです。ところがどっこい、ワタシはなんと1月の14日までまったくアクセスできず、自分のブログを読むことさえできなかったのです。なんか、国内と国外で対応が違ったのかな?

その頃には、ワタシももう諦めの境地に達していて、別のサーバーから「新・西街ひとり日誌」を始めようか?でもこれまでの分がなくなっちゃうのは悲しいな... と嘆きながらも、「どのサーバーがいいだろうか?」と物色を始めていたのでした。

それが14日の朝、オフィスで試しにやって見ると、めでたし!サイトを開くことができたのでした。「新・西街」はしばらくお蔵入りです。良かった。

さて今回は、年明けに舞い込んできた意外な?ニュースから始まります。ニューヨークタイムズ紙が「2025年に行くべき世界の52ヶ所」という推薦記事?に富山と大阪を挙げた、というものです。富山が第30位、大阪が38位。富山推薦の理由は「人はそう多くないのに、高質な文化とグルメを味わえる」からだそうな。




美しい富山の景色
Myndin er ur Visit Toyama


これは普通の民放のニュースでも結構「驚きを持って」扱われていましたね。大阪ではなくて、富山の方が。ニュースの中で道行く人からの感想なども集めていましたが「富山は地味な印象だけど...」「あまりよく知らない」というような怪訝?なコメントが多かったように見受けられました。まあ、だからニュースになったのでしょうが。

私はこのニュースを聞いて嬉しい思いがしました。なぜなら「富山行きたい」と思うようになっていたからです。恥ずかしながら、富山ってまだ行ったことがないのです。列車で富山県のある部分を通過したことはあるかもしれません(たとえそうであったとしても、はや五十年近く前のことです)。ですが「富山、来た」という自覚はありません。

そもそも、それほど関心に引っかかってこない場所でした。スミマセン。それが...

そもそものきっかけは、昨年のお正月の能登震災です。被災地の様子が気になり、Youtubeであちこちのニュースとかを覗いていました。私のように外国住まいでも、というか外国住まいだから、日本で災害が起こるととても気になるものなのです。

すると、あるチャンネルで、若い男性と女性が車の中で地震発生時の自分達の様子を話しているものがありました。震災発生直後の録画でしたので、もちろん内容は不安と恐怖が入り混じったもので、おかしさとかはまったくなし。

その人たちが住んでいるのは富山で、能登ではなかったのですが、地震発生時の家族の皆さんの様子とか、あるいは近隣の地域の様子とかを知ることができました。やはり、その時その場にいた方々の証言ですので、緊迫感がありリアルでした。

で、その後毎日のように、このチャンネルで震災による町の被害とか、生活事情とかを伺うようになりました。でこのチャンネルが「富山の遊び場!TV」というものだったのです。




富山の遊び場TV
Myndin er ur Youtube


後から分かったのですが、このチャンネルは富山のローカルタレントの方とか男性ふたりと女性三人で制作しているチャンネルのようです。「遊び場!TV」なのですが、そういう入り方をしたので、私にとっては震災情報チャンネルみたいな感じで、「遊び」の部分はまったくピンときませんでした。

時期が経つにつれて、もともとそちらが本筋だったのだろう、と思われる穴場紹介やらドライブレポみたいなものが戻ってきました。私が一番初めに見た車の中でのお喋りは、さだありささんというローカルタレントの女性と、サクラさんという男性の方であることが後からわかりました。

で、その後そのチャンネルの昔の回を覗いたり、新しい回を見続けたりしたのですが、ワタシはこの「ありさーサクラ」さんコンビの回がかなり面白く、すみませんが他のお三方の回はあまり見れていません。m(_ _)mヒラに。

この一年くらいでの「ありさーサクラ」さんペアの回で多いのは、「琵琶湖一周」とか「国道XXX号で大阪まで何時間?」とかのドライブものです。だいたい30分くらいに編集されてるかな?

画面に登場するのはほぼほぼ運転するありささんオンリーで、サクラさんは隣りでナビゲーター兼色々なトラビアの紹介役。もちろん毎回下調べを相当しているのでしょう、かなり歴史や由来等々、深いトラビアが含まれています。

ちなみにビデオ上ではありささんがいつも運転しているように見えますが、実際はふたりで交代で運転しているのだそうです。




富山のローカルタレント さだありささん
Myndin er ur Youtube


サクラさんは、かつての人気TV「Xファイル」のフォックス・モルダーを饒舌にしたみたいな感じの人。対するありささんは美人です。かわゆい。というわけで、要するにワタシは富山のローカルタレントさんであるさだありささんのファンになったのでした。

とは言っても、一番の魅力はありささんのルックスというよりは、おふたりの掛け合い調のお喋りですね。面白いんですよ、おしゃべりが。とりわけありささんに関しては、こういう女性が隣りにいたら退屈しないだろうなあ...とか思ってしまいます。まあ、ありささんの面白さを引き出しているのがサクラさんということもありましょうが。

とにかくこのような事情で、私は昨年の年末以前から「ワタシモ トヤマ イキタイ デス」と思うようになっていたのでした。そういうところへニューヨークタイムズの富山推薦のニュースが飛び込んできたので、これは書かなくては!と思った次第なのでした。

年明け早々から、こんな中身のないブログを出しやがって!と思われる方のありましょうが、中身はあるのです。そうです、「みんな、富山行こう!」富山に行ったこともないワタシですが、かなり自信を持ってそうお勧めします。なんたって、あのニューヨークタイムズが後ろ盾ですから。

それに加えてYoutubeの「富山の遊び場!TV」もぜひぜひよろしくお願いいたします。m(_ _)m

「富山の遊び場!TV」はこちらから

さだありささん、あなたのファンは国境を超え、海を越え、山を超えたアイスランドにもいますよ。ありさ万歳!トヤマ万歳!


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謹賀新年 2025年アケオメ、です!

2025-01-01 00:00:00 | 日記
2025年明けましておめでとうございます。旧年中、このマイナーなブログを覗いててくださった皆さまには感謝申し上げます。さらに続けて覗いてくださっている奇特な皆様には特上の熨斗(のし)をつけて感謝いたします。





毎年恒例になってきましたが(マンネリとも言う)日本での新年到来を祝いつつも、こちらアイスランドではまだ往く年に別れを告げている、という九時間の時間差に漂うリンボー地帯に入りました。日本からのネットでのカウントダウンのライブ配信も増えているので、このリンボーの楽しみ方も多彩化してきます。

レイキャビクではクリスマス前からよく雪が降り、風が吹きました。クリスマスは文字通りのホワイト・クリスマスでした。これはクリスマスのイメージ的にはポジティブなことですが、雪掻きや交通の便等の実務的な面ではうんざりさせられます。

私ら教会人にとっては、クリスマスはやはり多くの人に集ってもらいたいものなのですが、あまりに風雪が強くなると、小さなお子様連れや、高齢の方々などは足が止まってしまったりします。

特に私が担当している英語礼拝では、難民の人が多いことからバスの利用者が多いので、雪を含めた悪天候はもろに出席者数に影響します。今回のクリスマス、私のところの英語礼拝は出席者21名で、これは過去九年間で最小の数でした。トホッ...

「数がすべてではないよ」「コロナの最中よりは集まれただけ良い」「天候はコントロールできない」「風雪にもかかわらず来る人がいるのだから少数精鋭だ」

あらん限りの言い訳を並べても、普段の半数以下というのは悲しい結末なのでした。いや、まだ結末じゃないから。




昨日の朝9時頃の近所の様子
Pic by Me


そのように人生に打ち負けた傷心のワタシの2024年最後のお仕事は昨日30日の結婚式でした。新郎新婦は日本からのお客様で、「ツーリスト結婚式あるある」なのですが、ごく少人数で(新郎新婦と、牧師、オルガニスト、カメラマンの五名)、かつ本国で入籍済みなので書類仕事なし(『書類仕事』と言っても、二年前の法改正により、牧師の仕事は書類一枚にサインするだけになりましたが)。

ただ、今回はおふたりが九州から来られた方だったのと、レンタカーを運転されるということだったので、やはり雪のことが気になりました。ここで起きるシリアスな交通事故の大半は外国からのツーリストがらみなのです。幸いリハーサルのあった29日は、快晴で気持ちの良い静かな日和りとなりました。

その時点での予報ではそのままの天気が翌日にも持ち越されるとのこと。めでたし、めでたし ... と思うのが心のワナ。「アイスランドあるある」なのは猫の目のように変わる天気予報。

猫の目のように変わる、というよりは私はアレを「後出しジャンケン予報」と呼びたい。つまりこれは予報なのか?はたまた単に現状の陳述なのか?非常にグレーなエリアです。

まあ、29日の晩にはその夜「雪が降り始める」となっていたので、一応予報かもしれませんが、とにかく朝起きたら「辺り一面の銀世界」という月並みな描写なのでした。




本文とは無関係 教会に毎日来てパンをねだるアヒル
Pic by Me


めちゃめちゃの豪雪ではなかったのですが、風がかなりあったため、私の住む西街界隈の古くて狭い通りのあちこちには、メートル級の吹き溜まりがそこかしこに。「私のヤリスちゃんでは走行不可」と速攻でギブアップし、バスで教会へ。

やはり新郎新婦の足が気になったのですが、式は幸いにも午後2時から。多少は公共の除雪車の作業がそれまでに進むかも、です。ですが公共の雪掻きは教会の玄関まではきてくれません。加えて、この時期、教会は特に用のある人以外は来ません。ということはスタッフもワタシだけ。

というわけで、雪掻きはワタシがするしかない。と、汗だくになることを見越してちゃんと着替えの下着まで準備してバスに乗ったのでした。

実は教会にも小型の除雪機があるのですけどね。使い方知らないし。ハウスキーパーのおじさんはこの日は来ないと思うし、呼び出すわけにもいかない。で、せっせと玄関前の雪掻きです。まあ、でも三十分くらいで、必要な部分の雪掻きは終了。

ヤッター!と自分に喝采していたら、ハウスキーパーのおじさんが「こんちは」とひょこり。除雪機を運転して教会周りの雪を一掃してくれました。今回も信心が足りないのはワタシなのでした...

その後、新郎新婦は無事に到着し、式は落ち着いた雰囲気の中で非常にコージーなものとなりました。とても感じの良いカップルの方でしたし、こういう式ができるとこちらも嬉しくなります。多分、雪に囲まれていたことも落ち着いた空気になった一因かも。

と言うことで、雪の故に心配させられたり、悩まされたりしつつも、最後には雪の「功」をもぎ取り1ポイント。2024年の仕事仕舞いはとても気分の良いものとなりました。おふたりのアイスランド滞在中はもちろんのこと、帰国されてからの日毎の「日常」生活に神の守りと祝福がありますように。




雪掻き機を操るハウスキーパーのおじさん
Pic by Me


一年前は能登の震災から、羽田の日航機と海保機の衝突炎上事故が矢継ぎ早に起こり、騒然とした年初めでしたね。被災者の方々、事故の遺族の皆さんや事故体験者の皆さん、まだ辛い思いをされている方もあると思います。

世界を見ても、ウクライナ、ロシア、パレスチナ、シリア等々、平和なお正月からは程遠い時間を過ごしている人も多くあるのは事実でしょう。

すべての問題を解決することは、すぐには叶わぬことでしょうが、少なくともそのような状況があり、その中に置かれている人々の現実があることを忘れず、考えることを自分の毎日の生活の中の一部にしていければと思います。

2025年の毎日が、皆様にとって「微笑む一日」であることを願い祈ります。毎日がそうなることは無理でしょうが、せめて三日に一日は。そして世界が少しでも良い方向へ転換していってくれますように。


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