こんにちは/こんばんは。
清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Daiei_Lu@unsplash_com
2025年が明けて、早くも一ヶ月が経とうとしています。皆さんにおかれましては、どうでしょうか?今年は良い年になりそうな気配ですか?それとも... ?
日本の皆様の非常に多くの方が初詣でに行かれると思います。良年の祈願ですね。日本人というのは、周囲を見回してみても -アイスランド人、アメリカ人、イラン人等が主ですが- 新年というものを非常にまじめに、シリアスに受け取る国民だと感じ入ります。
これは私自身もそうで、別に宗教的な意味付けはないのですが、なんというかDNAの中に組みこまれた性癖の一部なのではないかと考えています。
そういうDNA的に日本の文化伝統に沿った部分と、洗礼を受けてまもなく45年になるキリスト教的思考の部分が、私の中に共存しています。別に争っているわけではなく、大概の局面ではそれなりの調和をし、何ら問題はありません。
それでもやはり、違う部分はありますし、その違いを考察する中で自分にとってより良い何かを得ることもできたりします。
元日に私自身も「良い年になりますよう」と願掛けをします。まあ私は教会の牧師ですので、「願掛け」というよりは祈りですけどね。そのように願うことはとても自然な行為あるいは気持ちだと思うのです。
ですが、それでそれっきり。あとは神様仏様任せ。ということになってしまうと、結局年末の一年を振り返る時期になって、その年に良いこと、めでたいことが多かったら「良い年」、嫌なことや残念なことが多かったら「悪い年」と結論付けるだけのことになってしまいます。運任せ、というか結果論ですよね、これって。
先週の土曜の夜 日曜の前になると降る...
Pic by Me
毎年、元日に必ず読む聖書の箇所があります。宗教に関心がない方も、ちょっとだけ我慢してください。
-「主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
(...)
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。- (ルカ福音書4章18b-19, 21 新共同訳)
「主の恵みの年」とあるのは、ユダヤ教の律法の中にある「ヨベルの年」と呼ばれる五十年おきに巡ってくる年のことです。この年には奴隷は解放され、また借金は帳消しにされるように、と定められています。人間生活と社会のありようの全リセットというか初期化ですね。
弱い立場にある者にはまさしく「ありがたや」の年なのですが、実際にはそのような恩赦的なことが行われたかどうかは、確かではないようです。なんでも決め手になる記述がどこにも残ってないのだとか。
それはともかく、ご自身の到来によって、そのような恩赦・解放・リセットは「実現した」とキリストは語ったのです。もちろん、私たちの生きている現実は相変わらずのわけですが、大切なことは私たちは神のそのような約束を得ているということなのです。この約束は、私たちひとりひとりの人生の「その先」で確かめることができます。
自宅の庭の木 雪化粧でちょっと綺麗
Oic by Me
で、ここで言いたいことなのですが、まず、いずれの年にも良いこと悪いことはあります。多少バランスの傾きはあるかもしれませんが、長い目で見れば半々くらいになるのが相場でしょう。
そういう中でグッドラックをただ期待し、バッドラックを心配するよりは、私は神が与えてくれる恵みを見つけていく方が大切だと考えています。キリストが言われたように「主の恵みの年」はすでに来ている。実際は毎年が「主の恵みの年」なのです。そして毎日が「主の恵みの日」
ただ、私たち人間は弱いもので、いっとき何か恵まれた出来事を神に感謝しても、ほどなくそんなことは当たり前になってしまい、「恵まれたこと」とは認識しなくなっていきます。これは宗教に関わらない一般的な傾向です。
そしてただ「恵まれている」ことの認識がなくなるだけではなく、逆に自分の生活の中の些細なトラブル、足りないこと、不満足といったことばかりが目につき始めるのです。
教会は聖人の集まりのように勘違いされている方もありますので、敢えて教会の中からの困った話しを例に取ります。
私が奉仕している教会には難民の人が多くやってきます。難民申請が審査されている間(数ヶ月から一年くらいかかります)熱心に教会の集まりに出席する人も多いです。
キリスト教の教会に行く自由がない国からきている人もありますが、彼らは「自由に、そして危険なく教会に行けるのは夢のようだ!」と喜んだりします。そして申請が許可されると、それはもう確かに「神の与えた恵み」であることを心底実感しています。
これは日曜日の教会裏玄関からの景色
Pic by Me
ところがしばらくして、通常の市民としての生活が始まると、例えば「教会の参加者の中にイヤな奴がいる。会いたくないから教会に来るのをやめる」とか言い始めたりしてしまうのです。
神が与えた大きな恵みが見えなくなってしまい、逆に「イヤな奴がいる」という実にありふれた不満足が心を占め、生活を支配してしまっているのです。本当に残念だけど、定期的にありますよ、こういうの。
自分の生活の中の恵みが見えなくなり、些細な不足と不満足が自分の生活を支配し始める。このパターンにはまっている人は、絶対に幸せな人生を送れないと思いますよ。かくゆう私自身も気付かぬうちにこの状態に陥っていることもありますし、定期的に自分を振り返ってみる必要があるでしょうね。
また少し教会的な言い回しになってしまいますが、神の恵みは絶対にここにあるのです。幸運とか不運のような運任せのものではなく、神の恵みとはもっと鉄板なのです。ですからそれが見つからないのであれば探すべきです。それでも見えないのであれば、自身のありよう、心の眼をチェックしてみるべきでしょう。
結果として、「この年は良い年だったなあ」「今年は悪い年だったよ」とかお酒の席で口にすることはありましょう。ですが良い年、悪い年を通じて私たちは恵まれたこと、感謝すべきことに囲まれているはずでしし、その反面で様々な不足、不愉快、不満足にも直面しているはずです。だって生活ってそういうものだから。
その中で、不平不満ばかりに目を奪われたり、心まで持って行かれてしまったら「良い年」も「悪い年」になってしまいかねません。私も気をつけますが、皆様もチラッとそんなことも考えてみてくださって損はないと思いますよ。
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Church home page: Breidholtskirkja/ International Congregation
Facebook: Toma Toshiki
清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Daiei_Lu@unsplash_com
2025年が明けて、早くも一ヶ月が経とうとしています。皆さんにおかれましては、どうでしょうか?今年は良い年になりそうな気配ですか?それとも... ?
日本の皆様の非常に多くの方が初詣でに行かれると思います。良年の祈願ですね。日本人というのは、周囲を見回してみても -アイスランド人、アメリカ人、イラン人等が主ですが- 新年というものを非常にまじめに、シリアスに受け取る国民だと感じ入ります。
これは私自身もそうで、別に宗教的な意味付けはないのですが、なんというかDNAの中に組みこまれた性癖の一部なのではないかと考えています。
そういうDNA的に日本の文化伝統に沿った部分と、洗礼を受けてまもなく45年になるキリスト教的思考の部分が、私の中に共存しています。別に争っているわけではなく、大概の局面ではそれなりの調和をし、何ら問題はありません。
それでもやはり、違う部分はありますし、その違いを考察する中で自分にとってより良い何かを得ることもできたりします。
元日に私自身も「良い年になりますよう」と願掛けをします。まあ私は教会の牧師ですので、「願掛け」というよりは祈りですけどね。そのように願うことはとても自然な行為あるいは気持ちだと思うのです。
ですが、それでそれっきり。あとは神様仏様任せ。ということになってしまうと、結局年末の一年を振り返る時期になって、その年に良いこと、めでたいことが多かったら「良い年」、嫌なことや残念なことが多かったら「悪い年」と結論付けるだけのことになってしまいます。運任せ、というか結果論ですよね、これって。
先週の土曜の夜 日曜の前になると降る...
Pic by Me
毎年、元日に必ず読む聖書の箇所があります。宗教に関心がない方も、ちょっとだけ我慢してください。
-「主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
(...)
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。- (ルカ福音書4章18b-19, 21 新共同訳)
「主の恵みの年」とあるのは、ユダヤ教の律法の中にある「ヨベルの年」と呼ばれる五十年おきに巡ってくる年のことです。この年には奴隷は解放され、また借金は帳消しにされるように、と定められています。人間生活と社会のありようの全リセットというか初期化ですね。
弱い立場にある者にはまさしく「ありがたや」の年なのですが、実際にはそのような恩赦的なことが行われたかどうかは、確かではないようです。なんでも決め手になる記述がどこにも残ってないのだとか。
それはともかく、ご自身の到来によって、そのような恩赦・解放・リセットは「実現した」とキリストは語ったのです。もちろん、私たちの生きている現実は相変わらずのわけですが、大切なことは私たちは神のそのような約束を得ているということなのです。この約束は、私たちひとりひとりの人生の「その先」で確かめることができます。
自宅の庭の木 雪化粧でちょっと綺麗
Oic by Me
で、ここで言いたいことなのですが、まず、いずれの年にも良いこと悪いことはあります。多少バランスの傾きはあるかもしれませんが、長い目で見れば半々くらいになるのが相場でしょう。
そういう中でグッドラックをただ期待し、バッドラックを心配するよりは、私は神が与えてくれる恵みを見つけていく方が大切だと考えています。キリストが言われたように「主の恵みの年」はすでに来ている。実際は毎年が「主の恵みの年」なのです。そして毎日が「主の恵みの日」
ただ、私たち人間は弱いもので、いっとき何か恵まれた出来事を神に感謝しても、ほどなくそんなことは当たり前になってしまい、「恵まれたこと」とは認識しなくなっていきます。これは宗教に関わらない一般的な傾向です。
そしてただ「恵まれている」ことの認識がなくなるだけではなく、逆に自分の生活の中の些細なトラブル、足りないこと、不満足といったことばかりが目につき始めるのです。
教会は聖人の集まりのように勘違いされている方もありますので、敢えて教会の中からの困った話しを例に取ります。
私が奉仕している教会には難民の人が多くやってきます。難民申請が審査されている間(数ヶ月から一年くらいかかります)熱心に教会の集まりに出席する人も多いです。
キリスト教の教会に行く自由がない国からきている人もありますが、彼らは「自由に、そして危険なく教会に行けるのは夢のようだ!」と喜んだりします。そして申請が許可されると、それはもう確かに「神の与えた恵み」であることを心底実感しています。
これは日曜日の教会裏玄関からの景色
Pic by Me
ところがしばらくして、通常の市民としての生活が始まると、例えば「教会の参加者の中にイヤな奴がいる。会いたくないから教会に来るのをやめる」とか言い始めたりしてしまうのです。
神が与えた大きな恵みが見えなくなってしまい、逆に「イヤな奴がいる」という実にありふれた不満足が心を占め、生活を支配してしまっているのです。本当に残念だけど、定期的にありますよ、こういうの。
自分の生活の中の恵みが見えなくなり、些細な不足と不満足が自分の生活を支配し始める。このパターンにはまっている人は、絶対に幸せな人生を送れないと思いますよ。かくゆう私自身も気付かぬうちにこの状態に陥っていることもありますし、定期的に自分を振り返ってみる必要があるでしょうね。
また少し教会的な言い回しになってしまいますが、神の恵みは絶対にここにあるのです。幸運とか不運のような運任せのものではなく、神の恵みとはもっと鉄板なのです。ですからそれが見つからないのであれば探すべきです。それでも見えないのであれば、自身のありよう、心の眼をチェックしてみるべきでしょう。
結果として、「この年は良い年だったなあ」「今年は悪い年だったよ」とかお酒の席で口にすることはありましょう。ですが良い年、悪い年を通じて私たちは恵まれたこと、感謝すべきことに囲まれているはずでしし、その反面で様々な不足、不愉快、不満足にも直面しているはずです。だって生活ってそういうものだから。
その中で、不平不満ばかりに目を奪われたり、心まで持って行かれてしまったら「良い年」も「悪い年」になってしまいかねません。私も気をつけますが、皆様もチラッとそんなことも考えてみてくださって損はないと思いますよ。
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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