最近、再び悲しいニュースとして取り上げられた「Residential schools」の話。
世界中から移民を寛大に受け入れ、多様性を大事にしている今のカナダでは黒歴史の1つだと思います
これについての政府から正式なの謝罪があったのも2008年とわりと最近
今では小学校でも必ず毎年時間を作っているようで、長男はこの時間はとても悲しくて辛くなると言っていました。
我が家のダディ君が学生だった頃は、まだ闇に包まれており、ほとんどの人達がこういう学校があるという存在すら知らなかったとか。
先住民の人達との問題は、少しずつ改善されつつあるようですが、今も完全には解決していないはずです。
私が住んでいる地域は、水道水を安全に飲むことができますが、そういった設備が整っていなかったり、医療制度もカナダ国民や一般の移民の人達と同等ではないところもあるようです。
これについての政府から正式なの謝罪があったのも2008年とわりと最近
今では小学校でも必ず毎年時間を作っているようで、長男はこの時間はとても悲しくて辛くなると言っていました。
我が家のダディ君が学生だった頃は、まだ闇に包まれており、ほとんどの人達がこういう学校があるという存在すら知らなかったとか。
先住民の人達との問題は、少しずつ改善されつつあるようですが、今も完全には解決していないはずです。
私が住んでいる地域は、水道水を安全に飲むことができますが、そういった設備が整っていなかったり、医療制度もカナダ国民や一般の移民の人達と同等ではないところもあるようです。
地域のコンサートイベントでは年間プログラムのどこかに、ネイティブの人達による音楽が組み込まれたりと、認識を広げる動きは感じます
さて、この「Residential schools」とはですね。。少し昔。私はまだ生まれていない頃。
カトリック教会が主となり、先住民の子供達(まだ親御さんに甘えたい盛りの年齢も含む)が、親元から強制的にこのResidential schoolsに連れてこられ、ここで生活をしながら西洋の文化、教育を強引に受けさせてたのです。
さて、この「Residential schools」とはですね。。少し昔。私はまだ生まれていない頃。
カトリック教会が主となり、先住民の子供達(まだ親御さんに甘えたい盛りの年齢も含む)が、親元から強制的にこのResidential schoolsに連れてこられ、ここで生活をしながら西洋の文化、教育を強引に受けさせてたのです。
そして、先住民の人達が持つ言語、文化、習慣を使えないようにしていたのです。
しかもそれだけではなく、その扱いも、言葉は悪いですが「獣を人間にする」くらいの扱いで、身体的、精神的な虐待、生活そのものに不適切な対応が多々あったようで、今現在生き延びて生活している先住民の方達とその子孫に、大きな心のトラウマを残しています
そして、つい数日前のニュースは、息を呑むような悲しい状況が発見されたものでした
ちょっと、書くのも辛いのでリンクを貼り付けます
しかもそれだけではなく、その扱いも、言葉は悪いですが「獣を人間にする」くらいの扱いで、身体的、精神的な虐待、生活そのものに不適切な対応が多々あったようで、今現在生き延びて生活している先住民の方達とその子孫に、大きな心のトラウマを残しています
そして、つい数日前のニュースは、息を呑むような悲しい状況が発見されたものでした
ちょっと、書くのも辛いのでリンクを貼り付けます
日本語簡易版も見つけました
先住民の寄宿学校跡地から子ども215人の遺骨 カナダ
少し話がずれますが、才能とは何かという説を唱えた方の中に(名前が思い出せない。)、「読み書き計算がよくできる」「思考力や机上の問題解決力が高い」も1つの才能ではあるけれど、いわゆる人間の学力や才能の有無、レベルを、入試問題のようなもので測るというのは、本当の学力を知ることにならない。と言ってる説があります。
少し話がずれますが、才能とは何かという説を唱えた方の中に(名前が思い出せない。)、「読み書き計算がよくできる」「思考力や机上の問題解決力が高い」も1つの才能ではあるけれど、いわゆる人間の学力や才能の有無、レベルを、入試問題のようなもので測るというのは、本当の学力を知ることにならない。と言ってる説があります。
この視点からも、例えば、自然の中で生活している子供達は、そうでない子供達とくらべて五感が優れていたり、自然の中で生き抜いていける知識、技術、能力を備えている事は容易に想像ができ、それも立派な才能。よって机上学習をしてる子達が使う学力検査でその子供の能力の有無やレベルを測るのはあまり意味がないと唱えてる人達もいます
なので、「学習=試験問題」が自分が住んでいる環境での基準となっている地域では、学力の習得を測るのに使える1つの方法かもしれませんが、全く環境や習慣、言語の異なる国や地域から来た子が、その現地でのテストを受けても、良い点はとれないのは当然。でも、じゃあそれはその子が馬鹿なのか。と言えば、そうではない。そういうことに関しての知識や経験がなかっただけ。その代わりに、別の知識や経験が豊富。母語ではよく理解してる子だって珍しくない。
つまり、多様性を尊重するという事は、それぞれの得意不得意、習慣、文化や言語が違う事を知ろうとし、自分の意見や考えを伝えるにしても相手の持つ考えや意見も尊重した上で「私はこういう考えだよ」と伝える事が大事。また、自分とは異なる意見、習慣、文化にもそれを否定するのではなく、じゃあ歩み寄るにはどうしたらいいか。反省する出来事を再び繰り返さないためには、どうする事が良いのか。何が必要なのか。その前向きな解決に武器や虐待とは無関係に、対話がきる事が、理想ですよね。 そういう事がカナダの学校で勉強してる子達は身につくのかな。。と感じるところがあります。
なので、「学習=試験問題」が自分が住んでいる環境での基準となっている地域では、学力の習得を測るのに使える1つの方法かもしれませんが、全く環境や習慣、言語の異なる国や地域から来た子が、その現地でのテストを受けても、良い点はとれないのは当然。でも、じゃあそれはその子が馬鹿なのか。と言えば、そうではない。そういうことに関しての知識や経験がなかっただけ。その代わりに、別の知識や経験が豊富。母語ではよく理解してる子だって珍しくない。
つまり、多様性を尊重するという事は、それぞれの得意不得意、習慣、文化や言語が違う事を知ろうとし、自分の意見や考えを伝えるにしても相手の持つ考えや意見も尊重した上で「私はこういう考えだよ」と伝える事が大事。また、自分とは異なる意見、習慣、文化にもそれを否定するのではなく、じゃあ歩み寄るにはどうしたらいいか。反省する出来事を再び繰り返さないためには、どうする事が良いのか。何が必要なのか。その前向きな解決に武器や虐待とは無関係に、対話がきる事が、理想ですよね。 そういう事がカナダの学校で勉強してる子達は身につくのかな。。と感じるところがあります。
完全な解決は難しくとも、国として「これは間違った事でした」と、謝罪できるのもカナダのすごい所だなと思うし、今は、カナダの学校では、必ずこのResidential schoolsについても学び、もともとこのカナダの土地で歴史を刻んでいた先住民の方達についても社会の時間に低学年から学んでいるようですよ。
ディスカッションやディベートは、他人や過去の粗探しをつつきあっても、前向きな解決にはならないですよね〜。それが難しい大人達 世界中にたくさんいますよね〜。
こう言った対話には「アクティブリスニング」も鍵です。
今の子供達は、過去の悲しい出来事を繰り返さないように、明るい未来に前向きな多様性への歩み寄りができる大人達になってくれたらいいですね。
環境とそこで得られる経験は異なるけれど
どこで生まれ育っても、自分と同じ一人の人間。
Residential schoolsについて学びたい方はYou Tubeでも色々出ています。
これは、ダイジェストでその歴史を説明していました
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