ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
プロ野球に欲しい高校野球のチャレンジ精神
今年の夏の甲子園で大いに興味を持ったのが作新学院。
62年に史上初の春夏連覇をしたり江川卓の母校だったりというのが作新を
語る上のキーワードだが、もともと江川時代から見始めた私にとっては打てない
チームという印象が強かった。
ところが小針監督が率いて09年に出場した時から‘よく打つチーム’になった
のだ。
特に印象的だったのがベスト8の智弁学園戦。
1点ビハインドの9回に1番からの3連打で追いつき結果的に逆転勝ちしたの
には驚いたのだが、9回の3連打については‘投手も限界だったし先攻なの
だから同点では厳しいので最低でも逆転したかった’と監督がコメントしたの
には‘我が意を得たり’で、これこそが高校野球にあってプロ野球にないもの
だと思ったのだ。
思えば昨年のセ・リーグCSのG4。
1点リードされたジャイアンツが9回表に先頭の高橋由伸の2ベースでチャン
スを作ると代走に鈴木を起用し‘当然のように’バントで送り次打者の内野
ゴロで前進守備だったにも拘らずスタートよくホームインして同点に追いついた。
するとジャイアンツベンチはサヨナラ勝ちしたかのように大喜びし実況していた
放送席も興奮状態なのに対し、ドラゴンズサイドは気落ちしたように見えた。
しかし冷静に考えれば王手をかけたドラゴンズは引き分けでも日本シリーズ
に一歩前進だし残り時間を考えると延長でも1・2イニングしか攻撃はできない
ので、ジャイアンツにしてみれば投手力のいいドラゴンズ相手にノーアウト2塁
のチャンスを作れば一気に逆転といくべきだと考えていたので‘?’だった。
ところが日本プロ野球の‘常識’では‘まず同点に追いつく事が大事で、勝ち
越しは それから考えればいい’というのが未だに主流。
それに引き換え高校野球では今年の作新学院だけでなく05年に宇部商が
優勝候補の日大三相手に2-3で迎えた9回表に同じくノーアウト1塁からバント
など眼中にない強攻策で3連打目が逆転3ベースになり更に1アウト後に4番が
前進守備の間を抜くタイムリーで5-3として鮮やかな逆転勝ちした。
今大会の優勝監督である小倉監督をして
‘私が同じ状況ならノーアウト1・2塁の場面では2番で100%送りバントをする’
と考えたそうだが、宇部商の玉国監督は
‘ウチは1枚エースだし、そのエースが8回に掴まって集中打で
逆転されているので追いついてもサヨナラ負けが目に見えて
いるから最低2点リードで9回裏を迎えたいと思ったからバント
などする気は全くなかった’
とコメント。
つまり先攻のチームは追いついただけではダメで最低でも逆転しないと意味が
ないという発想からの作新や宇部商のバントなし攻撃だったのだ。
作新から9回に逆転された智弁の青山は
‘バントしてくれれば1アウト取れるから’
と考えながらの投球だっただけにバントなしで来られたので厳しかったようだ。
ご存知のように夏の甲子園は一発勝負なので負けたら終わり。
にも拘らず‘負けたら終わり’の高校野球は9回表に1点負けているチームが
9回にバントをせずにギャンブル的に一気に攻撃をかけるシーンが度々ある
のに、負けが許されるプロ野球の方が‘宗教’としか思えないような‘まず同点’
という感覚で送りバントをするのは おかしいのではないかと思える。
« ウルトラは再... | トム・ソーヤ... » |
今季プロ野球は低反発球の使用なので各監督の采配もイケイケの攻めよりも手堅くまず同点という流れになっているのでしょうね。1点の重みは理解できる気がするのですが、野球人気が叫ばれる昨今やはり「一気に試合を決める~!!」というアグレッシブさも(プロ=魅せる)時にはファンに示す義務もあるように思います。
宇部商の玉国采配は豪快さと緻密さが程良くミックスされてました。試合中盤から後半に何度も同点・逆転劇を演じ甲子園を沸かせ続けたのも概して強打がキーワードでしたよね‥☆
それがプロ野球のD-G戦は昨年の事ですからボールは
飛んでいたのですよ。
近鉄が人気があったのは、こういう場面で強打一辺倒だったのが魅力の1つだと思ってます。
玉国さんの野球も然りで、やはりチーム力で劣る場合はギャンブルをしかけないと勝ち目はないですね。
特に宇部商最後の甲子園勝利が05年の日大三戦だというのも因縁めいてますね。
江川世代で打った試合は2回戦の小倉南戦ぐらいですよ。
まぁ小倉南は格下でしたからね。
強打が売りの宇部商は県立校でコンスタントに勝ち上がるイメージもあるので(優勝がないのも応援したくなる一因?)高校野球ファンの好感度も高いですね。もし85年夏決勝でPLを下してても大阪人は意外と宇部商を称えたのでは‥と思えます
作新は今夏の八幡商戦は八木沢で春制覇以来の対決でしたが、やはりあの試合もセンバツ史に残る投手戦。江川時代と同様「投高打低」だったんですね。77年春の天理戦は点の取り合いでしたが、作新の打棒が福家・山村に襲いかかったのでしょうか?鈴木康友のバックスクリーン弾はあまりにも有名ですけどね(ミスターが惚れ込んだ)
日大三は10年前も猛打の優勝でしたが、今夏は豪快な打撃のみならずエース吉永も会心のピッチング。それはまるで76年春のノンプロ軍団・崇徳をも回想させるような大人びた印象を持つチームでした。苦労人で熱血漢。。。選手に慕われる小倉監督ですが、関東一の87年春準優勝時はまだ若く試行錯誤の時期。母校に転任後、かつては春の三高でしたが、夏に2度全国を制した手腕で名将の二文字は不動のものとなりましたね‥☆
やはり何事もチャレンジ精神が観客の琴線に触れると思ってます。
だから宇部商などのチャレンジ精神が絶対王者のPLすら脅かしたのですから素晴らしい事ですし、それを
可能にしたのが攻撃野球でしょう。
基本的に金属バット出現前の高校野球は守り勝つというのが唯一無二のセオリーでしたから、広島商のような伝統校ほど その伝統に拘る事が多かったのでしょう。
それを打破したのが若手監督ですから、化石頭が監督をしてもダメという事でしょうね。
作新の小針監督といい日大三の小倉監督といい選手達から慕われるようにならないとダメでしょう。
他にも若手監督で名門再建した例では広陵中井、中京大中京・大藤、平安原田監督などでしょうか。大藤さんは昨年で退かれましたが、伝統ある詰め襟のユニフォームを廃止、胸文字も筆記体にするなどイメージを大きく変えましたよね(校名変更もあったでしょうけど)。97年春の準優勝を経て、日本文理とのヒヤヒヤの逃げ切り制覇も、早実戦の思わぬ大敗もニュー中京らしさが溢れていて大藤さんとナインが一体となって戦った清々しさがありました。
それにしても如水館・迫田さん(上記の江川時代に広商で制覇)とか横浜・渡辺、智弁和歌山・高嶋監督など還暦をとうに過ぎても采配を振るい続けている名将も多いです。若手監督だと息子ではなく孫のような世代ですからね。親父のような厳格さか、兄貴のような親しみやすさか。。。それぞれに良さがあるのでしょうけど、あくまでも選手を尊重した、高校野球ファンに愛されるようなチーム作りに励んでもらいたいですね。
それができるチームとできないチームがあるのでしょうね。
中京大中京や広陵は成功したチームですし、広島商などは今でも昔のスタイルに拘ってますから。
だから迫田さんのような人材が流出するのだと思いますし、作新など よくぞ抜擢したと思いますよ。
やはり学校やOB達の意識の差が出ると思います。
まだ健在のチームとしては福井商は北野監督が去ってすぐの今夏も出場しましたがこれからが現監督の手腕が問われますね。作新との初戦で敗れましたが、板倉で春準優勝した年の夏以来の再戦で大変感慨深かったです。県岐阜商は一昨年の快進撃に先祖帰りのような強さを感じました。甲子園も既にリニューアル完了していますし、数年後には100回大会を迎えます。時代背景もいろいろとあって厳しいのでしょうが、高校(中等)野球の歴史の礎となってきた名門商業高校の復活を心より願っています。
今は少子化で子供の数が少ないので公立の商業高校に野球のために行かせるという発想がなくなってきているのもありますね。
昔は私立の野球学校自体が少数でしたから、商業に
素材のいい選手達が集まっていたようですけど今は甲子園を狙うなら私立の野球学校に行かせるのが当たり前になってきているようですから。
福井商は北野前監督が健在のうちは大丈夫でしょうけど津久見の小嶋氏や池田の蔦氏のように亡くなると
OB達の内輪もめが始まって弱体化するようですよ。
津久見と池田は名監督一代で築き上げた名門校で勇退後に名残で2、3度出場したのも酷似しています。ともにベスト8が最後の甲子園になっているのも面白いものですね(さすがというべきか…)
福井商は戦前に一度出ているものの、実質は北野前監督が全国区に育てあげたと言っていいですからね。近年は敦賀気比が復活していますし、福井工大福井も強いイメージです。その他92年に近大付を下した北陸なども思い出されますが、それでも北野時代に箕島、横浜、明徳、PLを下した福井商の存在感はやはり大きいですね。弱体化も懸念されますが炎のユニフォームはいつまでも甲子園で燃え盛って欲しいと願っています。
福井商は北陸地方のリーダーですからね。
福井工大福井や敦賀気比と張り合いながらも、しっかりと出場しているのは素晴らしいと思います。
とりあえず来年までは北野監督を慕って入部したメンバーが残ってますから、ここ1・2年が勝負ですね。
九州勢としては福岡第一が88年に最も手こずった相手ですし、06年には選抜準優勝の清峰も不覚を取りましたよね。
ちなみに田舎に行くと野球学校というのはステイタスが低く、江の川など石見○○館に校名を変えて進学校にしたという話を聞いてます。
だから必ずしも野球学校ばかりの大会にはならないようですね。
書かれている88年の福井商。ナイターでの福岡第一との敗戦後、マウンドの土を拾い集める吉沢投手の姿が印象深いですね。敗れはしましたが、福井商の甲子園ベストゲームの一つに数えられるでしょう。チーム力という点では翌年の近岡を擁した春夏はまずまずの評価で私も密かに期待したものでした。同校は大物食いを度々起こすものの、05年夏の岩国戦の大敗など意外と一方的に敗れるケースもありますね。78年のチームは決してメンバーに恵まれての準優勝ではなかったようです。江守が言うには‘76年の1年時、予選で敗れたため夏の練習は勿論のこと、冬場のサーキットトレの厳しさは意識が遠のくほどで人間の限界はこうして訪れるのだな‘と感じていたそうです。おおむね堅実で粘り強いイメージの福井商ですが、75~79年頃は北陸のチームと思えぬしたたかさ、力強さがありましたよね
江の川は天理を破ったり、完全試合を食らったり、03年にベスト4に進出したりと印象度も割とあるのですが、75年夏のチームって全く覚えてないのですよ。それ以後谷繁時代まで遠ざかった理由ってあるのでしょうか?ちょうど島根は浜田が中心になりましたよね。石見○○館に変更になったのは存じてますが、音沙汰なしなのはそんな事情があったのですね。明桜や文星芸大付、東海大翔洋などもまだ前校名のイメージの方が強いです。時代とともに変わりゆく高校野球。。。長く見続けているゆえ、5年後、10年後さらに違和感を覚えるのかも知れませんね。
とはいえ78年のチームは77年に出場したメンバーが残ってましたし、特に3番の岩堀などは大会屈指の好打者と言われてましたからね。
だから初戦の鹿児島商戦は福井商断然有利というのがコチラでの予想でした。
江の川は75年の出場の時は県外組ばかりベンチ入り14人ギリギリしかメンバーがいなかったというチームで福井商に勝って出場した三国に1安打完封されてましたよ。
三国は その勝利が甲子園での最後の勝利になってます。
浜田は79年ベスト16の時に若手の新田監督がいたのですが、彼が大社に移動になってから低迷。
ところが97年に和田毅で出場した時は新田監督が戻ってましたので、強化されたと思いますよ。
やはり監督でここまで違うか?と思いました。
あっそうなんですか江の川は75年当時から県外オンリーだったとは時代の走りですね。倉吉北よりもルーツなのかも知れません。三国高校ありましたね。エース田行うっすらと覚えてます(前年も出ているようですが)。福井商は前側を擁して夏も出場間違いなしと思いましたが不覚を喫しましたね。。。北野監督も若く田行にお手上げだったのかも知れません。前側はのちの板倉より力強いアンダーハンドで当時阪急の山田(板倉が足立)のような印象を受けました。センバツを制した高知の杉村らもほぼ完璧に封じられたんですよね
浜田の新田監督は82年春、PL榎田に惜敗して大社へ転任。そこでも甲子園へ導きましたよね。そして浜田へ戻って和田らで2年連続夏出場。青年監督当時は広陵の中井氏同様に選手の兄貴分(むしろ選手?)でしたが、復帰後は髭もたくわえ「山陰の名将」といった風貌が漂っていました。98年帝京を下して8強入りした当時は番狂わせ?的な見方をされましたが、ホークスで長くエース格に君臨する和田を思うと今となっては何らその結果も不思議ではありません。森本のバックスクリーン弾は度肝を抜かれる凄まじさで敗れたりとはいえ「帝京らしさ」の片鱗は見せた試合でしたね‥☆
北野監督の失敗といえば78年の選抜決勝で0-2でリードされた9回裏に先頭打者がヒットで出塁し、当たっている鰐淵を迎えたのですがプルヒッターの鰐淵に右打ちを指示して併殺という最悪の結果になったのがあります。
ノビノビ打たせていたから結果を残せていたのでは?と思ってしまいましたよ。
初戦の鹿児島商戦も内容的には完勝ですよ。
三国は前年夏に出て上尾から金属バット初HRを記録した1点のみに抑えられて1-5で完敗してますから、
そのメンバーが田行を含めて残っていたという事ですね。
とはいえ前側の福井商が出ていればベスト8は固かったと思ってますよ。
浜田の新田監督は79年の牛尾がエースで4番のチームが印象深いですね。
天理に4-3で競り勝ってますし、城西戦も押しまくってましたから。
あれが最強チームだと思いますよ。
板倉は浜商打線を何とか2失点に押さえましたが、モーションを盗まれていたのか盗塁を5つも許しています。大観衆の決勝のマウンドで彼もやや冷静さを欠いていたのかも知れません。9回最後の攻撃、北野監督もまず一塁走者を進めて‥という意図だったのでしょうが、浜商からすれば1試合平均7点強を誇る福井商の強打はやはり驚異だったはずです。なので鰐淵にはフリーで打たせて欲しかったですね。試合前は福井商有利か?とされたので却って浜商ナインは特に気負うことなく平常心で戦い抜けたのかも知れませんね。
75年夏、上尾×福井商の対決みたかったですね。ベテラン野本さんと若き北野監督の采配も興味が持たれたことでしょう。福井商が8強に進出していれば原らの東海大相模とでしたからね。前側のスライダー?にタツノリは腰が引けて打ちあぐねたのでは‥と想像します。津末ら左打者との対戦がカギになったでしょうね
浜田の牛尾は体格のいい左腕でしたね。城西は以後全く出なくなったのも意外でした。天理はこの年は春も鶴商学園に苦杯を喫していたので、翌夏の4強チームが逞しく感じましたね。70年代の天理は中村山沖に敗れたのをはじめ格下によく足元を掬われた感が強いです
浜田は新田監督の一級上の梨田らで71年春夏に出場していますが、その夏の初戦が蔦池田の甲子園デビュー戦。池田がサヨナラ勝ちで記念すべき初勝利。蔦さんはインタビューどんな話をしたのでしょうね。♪しののめの上野が丘に~の名校歌が懐かしい‥☆
‘朝食時、北野監督はコーヒーカップを持つ手は震えが止まらず、甲子園へ向かうバス車中はお通夜のような静けさ’というのは初耳でした。
やはり それでは勝ち目はないですね。
前日箕島から得点を重ねていた時には‘ハツラツ福井商’とアナウンサーから言われてたのですが。
75年に相模と対戦する可能性はベスト4ですよ。
上尾と三国の対戦は74年でしたので。
74年の上尾は2回戦で平安に延長13回の末に敗れてますね。
福井商が新居浜商・天理に勝っていけばベスト4だったのですけど、新居浜商はまだしも天理に勝てたかどうか?
70年代の天理は72津久見、75新居浜商、76星稜に79浜田と73静岡や78中京以外は有利と思われた相手に負けてますよね。
城西は79年が最後の甲子園でしたけど、エースは2年生だったのですが・・・・やはり伊東の帝京と荒木大輔の早実の壁が厚かったのでしょうね。
池田は71年に出場した後に蔦さんの猛練習に選手達がついて行けずに11人に部員が減って、その状態で74年選抜で準優勝となりますね。
11人というのが話題になってから ある意味いい選手が入り始めたのではないかと思います。
そうでした74年に上尾×三国があったのですね(まだ見ていなかったので)。上尾は甲子園通算7勝にしかすぎないものの好勝負が多くインパクトも強いです。79年の浪商戦まで勝っても負けてもドラマ性に飛んでましたね。
福井商は75年の天理なら立ち上がりがポイントでしょうね。何せ天理は強打が光りましたから、序盤に大量点を与えるとジ・エンド。なので中盤まで福商の僅差リード、あるいは接戦なら天理打線は「いつもの」大振りを繰り返して前側の術中にハマったのではないでしょうか。新居浜商は夏初陣らしからぬ試合巧者でしたので、福井商にはやや難敵だったように思います。
70年代の天理は春も鳴門工、掛川西、福井、中村、鶴商学園に敗れていますね。いずれも格下ではないでしょうか?初優勝の86年夏まで苦悩の時代が続いたのですね。92年春に星稜を(松井のエラー)、97年春決勝で中京を、04年夏に福井、浜田をそれぞれリベンジ。当時の先輩達も胸をなで下ろしたのかも知れませんね。
80年、城西にはそりゃきつかったと思いますよ。あの北陽もお手上げだった伊東の帝京、荒木の早実がいたのでは。。。甲子園を視野に入れつつも、その年の県のレベルってありますね。投手起用のやりくりなど横綱クラスが1校と2校では疲労度も全然違うでしょうから。
池田は初陣時まだ蔦さんも若かったでしょうし、念願の甲子園の雰囲気を味わったことで「今度は優勝しに行くんじゃ~!」と気合もさらに高まったのかも知れませんね。のちの畠山や水野といったエリートもいない「普通の」高校生ばかりだったでしょうから(しかも田舎の)、スパルタの時代にはキツかったのでは‥と想像します。74年春は“11人しかいなくなった“のでさわやかイレブンの呼称もやや違和感がありますよね‥☆
確かに福井商は‘完全試合’の松本と津田を攻略して勢いに乗っていたのに対し、2年生が多かった箕島は
ベスト8で強敵のPLに勝ち1つ前の試合では関東王者の
桐生が敗れたのでガチガチになっていたようですね。
だから箕島としては考えられないようなミス連発で
失点してます。
とはいえ福井商も箕島に勝って優勝を異常に意識してしまったのかもしれません。
それを考えると まさしく浜松商は漁夫の利的な感じでしょうか。
上尾って負けっぷりがインパクト強いです。
例えば74年は平安相手に延長13回戦い、故意落球を
されたりしてチャンスを潰しての負け。
75年は新居浜商相手に3-0でリードしたものの6回2アウトランナーなしから6連打で5点を失って5-6で敗れる。
79年は2-0で9回2アウト1塁まで浪商を追い詰めながら牛島の2ランで追い付かれ延長で負け。
という感じですね。
福井商は例の朝食時を含めて北野監督の若さが出てしまいましたね。監督の表情とか精神状態など選手は敏感ですからね。それが以心伝心で伝わり「浜松商って監督にしたらやりづらいんや。北陸の人たちの期待もあるし負けたらどうしよう…」と福商ナインは感付いたのでしょうね。今更ながら北野さんには笑顔でこう言って欲しかった。「今日の相手は今までほどでもない。お前たちなら勝てる~!」と。
浜松商はその夏は静岡の2戦目でノーマークであったと思われる沼津東に敗れています。なのでセンバツを制したとはいえ、さほど強くなかったと思いますね。樽井は以後3度とも甲子園のチャンスを逃しましたし。ちなみに沼津東は韮山がセンバツを制した年も同校から金星を挙げています。歴史は繰り返されたのですね。
上尾は75年の小倉南戦、相模戦の勝ち方も私にはインパクトがありました。相模戦は追いつ追われつの展開で中盤に上尾が逆転に成功。原はそれまで大当たりだったのに最後は満塁の場面で捕飛に倒れましたよね(ホントに昔から勝負弱い‥)。79年の浪商戦、起死回生で牛島のツーランが出た瞬間、向かいのアパートの部屋から「う~しじまク~ン」という悲鳴にも似た黄色い女性の声が聞こえてきたのを思い出します。地元のうえ、センバツ準優勝の浪商への期待も高かった(府決勝でPLを圧倒)ですし私もテレビの前で家族と大喜びしていましたよ。あと上尾では、80年春の帝京伊東との接戦負けもコアながらも好試合でした。仁村弟もよく投げたんですけどね。最後に出場の84年夏は野本監督でなかったこともあってか殆んど記憶に残っていません。渋い好チーム、上尾の復活を期待したいですね。
上尾野球のピークは74・75年でしょうね。
特に75年は初戦の小倉南に0-4で迎えた8回に3ランで
1点差にすると、9回裏2アウトから追いつき10回にサヨナラHRで勝つという絵に描いたような逆転勝ちでした。
ベスト16でも土佐を4-3で振り切り、ベスト8の東海大相模戦は2-4から8回に村中の乱調につけ込み逆転して勝ったのですから勝ち運の波に乗っていたようです。
原の最終打席は2アウト2塁でしたよ。
というの‘歩かされるかもしれないと思ったので
打ち急いだ’とインタビューで応えてましたので。
上尾が優勝候補に挙げられたのが82年春。
日野という左腕投手を擁して参加30校中唯一の95点評価だったにも拘らず初戦で簑島から敗れてますし、
夏は予選敗退でしたから。
80年春も帝京戦は勝てるものと思ってたので、まさか負けるとは考えてませんでしたよ。
82年春の上尾については以前にも書いた記憶がありますが、箕島との激突がいきなり1回戦というのは勿体なかったですね。上尾ナインは前日に散髪に出かけ何と五厘刈に丸める気合いの入れようしたが、それが凶と出てしまい完敗。。。’好投手は立ち上がりを攻めろ‘の鉄則通り箕島はプレーボール初球をいきなり江川(でしたっけ)が二塁打?でNHK中継開始で二塁に到達していましたね。すぐさま先制点を挙げて日野のリズムを崩し、終始上尾を守勢に回して快勝という横綱対決になりました。終盤イケメンの岩田のダメ押しアーチも効果絶大でしたね。次の2回戦、箕島×明徳は個人的にセンバツ最高試合だと思っています。星稜戦のようなカクテル光線、2度の2死からホームランという派手さ(ドラマ性)はなかったものの、上野山と弘田の9回までの0行進。延長に入ってからの得点の奪い合いはまさに手に汗握る展開であり、多くの(高校)野球ファンを唸らせたのではないでしょうか。夏も初戦が熊谷×南部の埼玉と和歌山になりましたが、やはり春の黄金カードをもう一度みたかったですよね
その上尾、箕島、明徳、春の覇者(連覇)PL、三浦の横浜商など春を沸かせたチームが夏は予選で次々と敗退。大阪は府立の春日丘がそのPLと府大会史上にも残る名勝負を演じるなどしてまさかの初出場。丸子実との試合、犠飛で決勝点を挙げて勝ったシーンも懐かしい思い出です。
少し前に浜田高校の話になりましたが、今日のNHKのど自慢は岩手県久慈市からの中継でした。私はピンと79年夏の浜田×久慈を思い出しました。超スローボールの北田投手は浜田打線に15安打を浴びつつも健気に最後まで投げ続けた姿が今でも印象的です。宮城以外では公立の出場も当たり前にあったあの時代の東北勢。他にも弘前や能代、いわきなど地名を見聞きするだけで昭和の高校野球がオーバーラップしてくる私です。久慈高校、甲子園へ戻ってきてください‥☆
実は原は王監督になってから勝負弱くなったものの、第1期藤田時代は むしろ勝負強かった方ですよ。
その典型が小倉でのサヨナラHRですし、わりと
‘ここ一番’で打っていたのですけどね・・・・
82年の上尾-箕島は普段は後攻の箕島が先攻でスタートして立ち上がりを攻めたのが印象的でした。
明徳戦は星稜戦に匹敵する好勝負だと思いますし、
箕島野球ここにありを示すものでした。
この頃の明徳は監督が高齢の松田さんで今のようなヒールではなかったのですけどね。
夏の熊谷-南部を見たときに同じ県代表でもここまでレベルが違うのかと愕然としましたよ。
久慈からといえば93年の久慈商も忘れられません。 93年に川上憲伸の徳島商相手に大逆転負けしたとはいえ、7回まで7-0と大量リードした試合は驚きでしたよ。
そうですね。お家芸の延長サヨナラをはじめ、すべて勝利した4度の決勝などイメージするのは「後攻の箕島」ですからね。先攻では上尾戦と同じく初回先制パンチ(スミ1でしたが‥)で 左腕高松を攻略した能代戦がありましたね。82年のPLとの準々ですが、やはり上尾、明徳(しかも14回)と強豪相手が続いただけに箕島はまだ疲労が残っていたように思います。その点PLは東北、浜田でしたからだいぶ相手に恵まれてたのではないでしょうか?PLリードの9回1死から箕島は同点にするべくスクイズを敢行しましたが榎田が渾身の投球で討ち取りましたよね。血行障害を克服して優勝投手になった努力も当時素晴らしいと思いました。
初出場当時の明徳はまだ高知出身者が大半だったと聞いたことがありますし、強豪私学の割にクリーンな印象でした。俳優の高知東生が応援団長(正式には野球部員)で甲子園のアルプスに陣取ってたそうですね。松田昇氏は全盛期は高知商を率いて2度のセンバツ準優勝など実績キャリアとも申し分のない高知の名物監督でした。そのセンバツ前の練習風景をテレビで見た記憶があるのですが、投手コーチの竹内さん(翌年は監督で出場)に松田監督は「意図のないボールばっかり放ってからに。お前がちゃんと指示せんからや~!」などと叱られているシーンに見ている私が凍りついたのを覚えています。コーチまでもが直立不動してしまうほど大監督だった松田さん。83年春も指揮をとっていれば準決勝で蔦さんとの四国名将対決だっただけにもう少し長生きして頂きたかったです。果たして池田の8回裏の逆転はあったのか否か。。。水野の剛球、やまびこ打線の爆発であの春の池田は非の打ちどころのない強さでしたからね。
熊谷×南部。。。その昔熊谷は甲子園準優勝もありますし、南部も何度か出場経験があったはずです。なのに注目度は低かったですね。むしろ南部は01年春、常総戦の7点差逆転負けのイメージが強いです。常総が優勝しただけに、南部に対してなぜそんな試合展開になったのか…です。木内監督は今夏で勇退しましたが、評価がそこそこ位の時が最も木内マジックを炸裂させてましたよね
同じく7点差逆転負け。。。書いておられる久慈商も同じ久慈市ですね。こーじさんのレビューが思い出される76年春の大社と同様に終盤での悪夢でした。相手が強豪とか伝統校というネームバリューがプレッシャーとなってセーフティーリードも僅差くらいにしか感じなくさせるものなのでしょうか?一つの綻びがガタガタと音を立てて崩れていくシーンは胸が締め付けられる様であり、改めて甲子園は魔物が棲むところだと思い知らされました。初陣で懸命に戦い抜いた久慈商も久慈高校も私からすると美しき敗者です。ぜひ甲子園へ帰ってきて悲願の勝ち星を挙げて欲しいですね。他に岩手の公立校では今回の震災でも高校名が出ていた大船渡、高田、ともに古豪の盛岡一、福岡などもまさに’昭和は遠くなりにけり‘ で校名を書くだけで当時の大会が蘇ってきます。私学全盛で復活には苦労も多いと思いますが懐かしいユニフォームをまた甲子園ファンに見せて欲しいものですね。
箕島=後攻のイメージが強いのですが尾藤監督にしてみると先攻・後攻の選択は選手任せだったようです。
だから80年夏は勝った試合全てが先攻ですし、特に
2回戦では選抜優勝の高知商に先制攻撃をかけて中西を
攻略しましたからね。
ただし82年春のPL戦と83年夏の高知商戦は相性がよかったはずの相手に先攻でやられまして、ここいらから下降線を辿ったようですね。
南部-常総学院は選抜の初戦という実践不足からの
常総の苦戦でしょうか。
それを跳ね返せるだけの底力があったのでしょう。
明徳の竹内さんは確か‘24の瞳’の中村の監督だった気がします。
高知商のほか東尾や島本時代には三原監督率いる広陵に連勝するなど、当初から箕島から名門相手に名前負けすることなかったようですね。70年春初戦の相手だった東海大相模の原貢監督から「尾藤君、箕島というのはどの辺にある島なのかね?」と半分嫌味を言われ選手共々に闘志が沸いてきた。。。など逸話が残っています。81年夏は2年生エース上野山の乱調によりあっさりと県初戦で敗退。そんな中、尾藤さんは上野山に考え込む暇さえ与えず練試で目一杯投げさせたことで自信を回復。堂々たる近畿制覇で翌年のセンバツに繋げたわけです。
そうですね。榎田のPL戦もそうでしたし、津野の満塁弾に沈んだシーンなんかは珍しく箕島が大敗しましたからね。翌年の嶋田、吉井の二枚看板は期待大でしたが、全盛期の箕島の戦い方とは趣きを異にしたような感じを受けました。なので取手二に勝ったとしてもPLや金足農には通じたかどうか。。。次こそ箕島には夏に出てほしいものです。
01年、夏も開幕戦だけを見ると常総はやはり強いと思いましたけどね。上宮太子を率いたのは本校上宮の元監督の山上氏。前年春は初戦負けだったとはいえ、甲子園ではその時と初陣だった80年春以外はほとんど8強以上に進んでましたから私は期待していたのですが。。。木内マジックは正攻法の山上監督タイプにはより効能を発揮するのかも知れません。
77年春の中村高校は市川幸輝監督で竹内さんは投手コーチのようですね。山沖はもちろん、南宇和時代も藤田学(元南海)なども育てた有能な方です。明徳監督のあとは松山聖陵でも采配を振るわれたそうですが甲子園出場は叶わなかったようですね。ちなみに77年夏には中村高校の部員は24人だったらしく出場していればまた大いに話題になったことでしょう。
実は83年に池田の3期連続優勝を阻むとしたら箕島と
考えてましたし初戦で吉田に逆転サヨナラで勝ち勢いに乗ると思ってましたから、3回戦で高知商に大敗したのは衝撃でした。
もっとも1回裏に2失点し2回表に2・3塁でタイムリーが出たものの、2塁ランナーがホームでアウトになった
裏に津野の満塁HRが出たわけで完全に負けパターンでしたね。
84年なら金足農には勝ててもPLには勝てなかったかもですね。
だからPLに勝てるのは規格に嵌らない取手二の方がチャンスがあり、事実勝ったのではないかと思われます。
01年の常総は初戦の上宮太子に勝った後の秀岳館戦では選手の自主性に任せた試合をやって負けたとNumberに書いてましたよ。
77の中村の監督は市川さんですか、思い違いをしてました。
KKの3年間で最も強いと感じたのは84年です。好きだったのは松本、旗手の二遊間。強打の鈴木、トップの黒木とか脇役陣にも味がありました。しかし常勝を義務付けれているチームが春夏ともに準決勝で大苦戦。決勝では関東のノビノビ軍団に敗れたという結果はとても衝撃的でしたね。岩倉の金足農戦でのバタバタぶりなどとてもPLの敵ではないと思えましたから。箕島×取手二では最後の嶋田のライトフライですね。かつての箕島なら間違いなく同点アーチだったでしょうが、木内マジックが打球を呼び戻し?球運を一気に味方につけ全国制覇まで突っ走りましたよね。
木内監督は春は実験的に、夏は勝ちにいく~!というタイプでしたが01年だけは逆パターンになりましたね。ただ選手のモチベーションが夏は低かったようで同監督も「今回は勝てねえと思ったぺ」などと語っていたように思います。秀岳館はまだ大きな実績はないものの今春も横浜を下すなどなかなかの役者ぶり。次回の甲子園では上位進出を期待したいですね。
中村高校はその77年に新旧の24の瞳が合わさって24名部員になっていたのです。なのでそのキャッチコピーは偶然ではなく必然だったのでしょうね‥☆
ぼちぼちこのスレ重くなりましたから、他のスレに
移動しましょう。