ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
ホークス劇勝!こんな試合を見たかった
今日 福岡で行われたホークス対マリーンズ戦でホークスが 5回表まで
0-4とリードされた試合を2-4と追い上げ、9回裏に小久保を1塁に置いて
長谷川の2ランと田上のソロによる連続 HRで逆転サヨナラ勝ちを飾った。
先頭の小久保が2-1と追い込まれながらショートへの内野安打で出塁し、
長谷川が0-2からのストレートをライトへ同点 2ラン。
更に田上が初球のカーブを左中間へ打ち込んだのだ。
たった2球で同一カード3連敗という死の淵から生還した形だ。
今シーズンのホークス打線はチーム打率とホームランが共に5位でチーム
得点は4位だが下の2チームよりは試合消化数が多い。
防御率は3位なのに-3というのは打ててないからである。
九州のファンは打てないと不満だし、打てれば負けても それなりに喜ぶ
傾向が強い。
平和台最後の年にバファローズ戦をライトスタンドで観戦するべく並んで
いたら殆どのファンが
‘今日はブライアントに3発、石井に2発打たれて
7・8点取られて それを逆転して勝つ試合を
見たい’と言っていた。
当然のように私も一緒に行った友人とも そういう会話をしていた。
ダイエー末期の頃までの福岡ドームのライトスタンドは立すいの余地が
ないぐらい埋まっていて、そこから一種独特のムードを醸し出していた。
だからNHKが全国ネットで中継した94年のライオンズ戦で大逆転で勝った
試合など東京の友人から
‘あのムードは凄いし、面白い。東京ドームでもあんなムードには
ならんよ’と興奮して電話がかかってきたのを思い出す。
ところがソフトバンクになってライトスタンドが寂しくなったのは気のせいだ
ろうか?
ライトスタンドに空席があるなど03年ぐらいまでは考えられなかったのだが・・・・
やはり今日のように打って点が入り、最後まで勝敗の行方が分からない
試合を重ねないと03年までのようなムードにはならないのではないかと
思われる。
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諦めの悪い私は、中継ぎ投手が頑張っていましたので、最後に賭けてましたが正解でした!
途中で諦めて帰られた方々は後悔されたでしょうね?
摂津投手が頑張れば何かある。 前の西武戦もオーティズのサヨナラ本塁打がありました。
しかし、酷使はダメですね。
こーじさんが電話でもおっしゃってましたが、やはりチマチマと有りきたりのセオリー野球よりも、たとえ敗戦でも9‐10であれば満足するような展開が九州ファンの理想形なんでしょうね
原貢野球の原点。。。70年夏の全国制覇(取られたら倍取り返す)、74年夏の鹿実との死闘‥言うなれば神奈川対鹿児島でなく、根底にあるのは九州対決だったともいえたわけですね。75年春の高知との決勝、夏の上尾との打撃戦。東海大相模は全国区の人気チームでしたが、貢さんの地元九州のファンは特に魅了されたかも知れませんね
ある甲子園の雑誌で読んだのですが、鹿児島県民にとっての名シーンに96年春の鹿実優勝を挙げた人が誰一人としていなくて、前記の74年夏か樟南が準優勝の94年夏、あるいは鹿商の95年夏をイメージした人が大半だったのですよ。地味なセンバツ制覇よりも豪快なインパクトがあったか否かが重要なのでしょうね。福岡も西短の92年夏ではなく、香月がナイターで打ち込まれた00年夏・智弁和歌山戦だったように記憶しています☆
という事はホークス三昧だった訳ですね。
ファンは正直で、かつての終盤の猛反撃が最近とんと見られなくなっているというのを熟知してます。
とはいえ最後まで残って正解でしたね。
入場料分の価値はあったと思いますよ。
その分、北九州では‘カネ返せ’だったでしょうが
そうそう、確かに摂津の酷使が心配になってきましたよ。
>なにわのヒバゴン様
昨日のような試合を重ねていけば必ずやドームの熱気も戻ってきます。
70年代の東海大相模の人気は九州でも絶大でした。
意外でしたが原監督の野球が九州の野球だったというのが今では分かりますよ。
鹿児島商といえば86年の一気攻撃を思い起こしますよ。
特に初戦の松商学園に勝った試合や敗れたとはいえ
天理を1-7から1点差まで追い上げた試合は‘さすが’
でした。
福岡では76年の柳川や、88年の福岡第一が未だに語り継がれてますね。
確かに西短を語り継ぐ人は少ないです。
やはり守りの野球は受けがよくないようです。
86年夏の鹿児島商は中原の右腕と強力打線が上手く噛み合いましたね。春初戦大敗からの夏ブレイクは98年の京都成章などもそうでしたが、鹿商の4強入りは印象深いです。天理戦は6‐8で打ち負けましたが、終盤あわや‥と思わせましたからね。恐らく70年代の天理だったら脆さを露呈して逆転勝ちできたかも‥です。
その86年夏で印象深いのは、新湊の甲子園練習での取材陣の人だかり。センバツ練習では富山や北陸の記者が数えるほどだったらしいのですが、さすがに4強入りしたミラクルぶりで夏は段違いの超人気。。。。桧物監督、エース酒井らナインの回りには数十人のマスコミが囲んでいました
開幕2日前の抽選会で天理×新湊が決まったときテレビの解説者は、「春もそうでしたが、新湊は強豪とばかり当たりますね~」とのコメント。試合は天理の一方的ペースになりましたが、9回の新湊の猛反撃に春旋風児の意地を見た思いです。その試合や97年夏の徳島商戦、02年春の尽誠学園戦など負けても観客を惹き込む新湊フィーバーには北国独特の粘りを感じますね
ベスト8で鹿商に敗れた東洋大姫路は梅谷監督最後の甲子園でしたが、タダでは転ばない伝統は健在でしたね。振り返っても小山戦、池田戦、東北戦などがありましたし、最近でも00年春の東海大相模戦、06年夏の駒苫戦、昨春の沖縄尚学戦など惜敗が多いです。何でも東洋大姫路の練習量は全国でも屈指らしく、OBの弓岡は「阪急の練習量は12球団1、2らしいけど、高校や社会人時代(新日鉄広畑)に比べたら楽勝もええとこや。しんどい経験しとって助かったわ~」とのことです。粘り強い東洋のチームカラーは日頃の猛練習から生まれているのですね。
松山商の水口や浦学の鈴木健の猛打も印象深いですね。ニューフェイスで怖いもの知らずの浦学を準決で叩きのめした夏将軍・松山商の戦いも見事の一言。70年代以降、春は全く振るわない(勝っていない~!)同校も夏は84年8強、86年準優勝、96年優勝、01年4強ですから伝統は恐ろしいですね。今夏、名門松商はそろそろ戻ってくるでしょうか‥
大阪はKKが卒業してPLも一休み(センバツ初戦大敗は事件でした)、泉州が夏初出場しました。同校も現校名が飛翔館、来年あたりまた校名変更になるそうです。83年春、木内取手二にも勝った大阪では貴重な存在なんですけどね。その時は天理OBの新田監督(75年春から4季連続出場)がチームを率いていました‥☆
76年の東海大相模ー小山戦は‘ステーキハウスに行って寿司が出た’と評されてました。
共に打つチーム同士ですが、意外にも投手戦になりましたからね。
86年夏の鹿児島商の成績が鹿商の最高成績だと思います。
いくらか出来すぎの感じでしたが、一気攻撃は迫力満点でしたよ。
典型的な夏にピークを迎えたチームという感じですよね。
新湊は銚子商など同様、漁師の町ですので熱い応援が目立ちます。
東洋大姫路は書写山上りという裏山の山登りの練習があるようですね。
あれはキツそうでした。
松山商ー浦学は面白い因縁が・・・・
75年夏の準決勝第2試合で1塁側先攻の新居浜商が
上尾相手に1回裏に3点先行されていたものの、6回2アウトから6連打で5点を挙げて逆転し6-5で逃げ切りました。
86年夏も準決勝第2試合で1塁側先攻の松山商が浦和学院相手に6連打?で勝ち越して快勝しました。
1塁側で先攻の愛媛代表が埼玉代表に連打を浴びせて逆転勝ちというのは偶然でしょうか。
泉州時代の新田監督あまり背は伸びてなかったですね。
前にもコメントしましたが、本当に酷い打線になったもんです。
各チームに必ず一人は、ホークスキラー が存在してますからね。 大嶺投手も 、その仲間入りしたってことです。
ところで、雁ノ巣には楽しみな選手が二人いました。
一人はショートの福田。
スイッチでパンチ力もあるので、ロッテの西岡タイプと期待。もう一人は外野手の中村。
帝京高校で四番打ってた選手ですが、振りも鋭くミートも上手いです。
流石、帝京の四番打ってただけのことはあると思いました。
逆に江川には吉本と同じ匂いを感じてしまいました。
中村は足もありますし、左方向への長打も打ててましたので期待を持てると思います。
江川=吉本ですか、案外そんなものかもしれませんね。
まぁロングヒッターは3・4人のうち1人が育てばいいと思ってますので当然はずれもありますね。
それと小山の黒田は去年だったか?人生を踏み外してしまいましたね。ニュースで聞かされたときは大変ショックでしたよ。選抜準優勝の主将、選手宣誓までした私の少年期のヒーローの一人なんですから。。同様に前橋工→ロッテの○川、享栄→中日ほかの藤王も後年の行いは残念でなりません。甲子園のヒーローもやはり野球を離れれば普通の人間なのでしょうか
83年頃に発売になった雑誌(甲子園の100校だったかな?)の東洋大姫路のページの見出しに「練習で泣いて試合で笑おうよ‥」と書かれていたのを覚えています。ですから全盛期(梅谷監督時代)の練習量は相当な凄まじさだったのではないでしょうか?書写山のランニングはよく聞きますね。同校は野球部の寮が完備しているのにも関わらず、不思議と神戸や阪神間出身の選手が少ないのです。当時なら毎年甲子園への最短距離(報徳とともに)ともいえる実力を誇っていたであろうに‥と想像できるのですけどね。ですから“東洋の猛練習”を恐れる余りに、播州(姫路近辺)以外の有望中学生は他校を選択したのではないでしょうか。
あのダルビッシュ(大阪・羽曳野出身)が東北を希望した理由も「練習が楽そうで甲子園も狙えそうやから」らしいですね。現代っ子はよりその傾向が強いかも知れません。
75年夏と86年夏の準決勝第2試合の結果も興味深いですね。ともに勝った愛媛勢は決勝で一点差負けというのも共通項です。普通なら相模に勝った上尾が優勝と見るのですが、そうはならないところに甲子園の流れがありますね。上尾はその前年や79年夏、80年春と出場した4大会連続で接戦をモノにできなかったのが何とも惜しい‥。野本野球はピークを迎えてましたから、一度くらい全国制覇できたのでは‥と思えるんですよね
青年監督新田さんといえば、母校浜田を率いていた(79~82年頃)人も同姓(この人の呼び方は「にった」)でしたね。82年春、PLに惜敗して大社へ転任になったと思うのですが、その試合後涙でコメントしていたのを記憶しています。技巧派のサイドスローの川神投手など懐かしいですね。PL戦の惜敗に新田監督は自信を深めたのでしょう。赴任した大社でも、さらに戻ってきた母校をまた甲子園へと導きましたからね
今の青年監督で思い付くのが沖尚・比嘉さんですね。彼もここ2季連続予選敗退したことで、遠い甲子園への道を実感されているのではないでしょうか?若くして冷静沈着、ただの兄貴分でない雰囲気に早くも大監督の素養が備わっているように私は思います‥☆
こーじさん、ブログを毎日楽しく拝見しています。時間を見て、またコメントさせて頂きますね。お疲れ様です~☆
今時の高校生は納得すれば少々きつくても猛練習をしますが、頭ごなしに抑え付けられると反発するのが
オチです。
大越が早稲田に行って驚いたのが仙台育英では10年以上前に捨てた‘役に立つどころか害にしかならない’という練習を強要され理由を聞くと‘これがワセダの伝統だ’の一言で終わりだったようです。
当時の早稲田は精神野球の石井連造監督でしたから
特別だったのでしょう。
それにしても小山の黒田が不祥事を起こしたとは初耳ですね。
前橋工のO川とは違うと思ってましたけど、根っこは同じのようです。
福岡第一の巨漢打者は最初から、そういう男だったようですね。
大越はプロでは大成できなかったものの、彼の甲子園での雄姿は忘れませんし、辛い経験をした早稲田時代の教訓を何らかの形で変えるべく、野球界に生かしてもらいたいですね。
和歌山生まれとは聞いてましたが、和歌山工のOB
とは知りませんでした。
大越に言わせると‘やりたいポジションを申告した後に体力測定があり、ウィークポイントを矯正するためのメニューを選ばせるからサボれない’との事。
上からの押し付けが主流だった当時としては画期的ですよね。
大越も高校野球の監督を目指しているでしょうから
竹田監督方式を目指すでしょうね。
間違っても連蔵方式はやらないと思いますよ。