今から30年前の今日87年5月24日はニュージーランドとオー
ストラリアで開催された第1回ラグビーW杯の記念すべき初戦で、
日本代表は同格と思われたアメリカ代表に18-21で敗れた日で
ある。
開催国のニュージーランドがイタリアとの開幕戦でジョン・カー
ワンの90m独走トライなどの猛攻を見せ70-6で快勝してスタート
した2日後の24日に、ブリスベンのバリモアスタジアムで日本は
力量的に互角といわれたアメリカと初戦を戦う。
日本の所属するプールAは優勝候補のオーストラリアやイングラ
ンドと同組で、日本にしてみるとアメリカに勝った勢いで相性がい
いとされたイングランドに挑むというのが当時の理想だった。
ところが結果的にトライ数は3-3と互角だったのだがコンバー
ジョンを全て失敗しただけでなく、7本あったPGを2本成功した
だけというプレースキックの不調が最後まで響いてのショッキング
な敗戦で実は代表メンバー発表の時点からプレースキッカー不在を
指摘されていた結果だったのだ。
当初 代表チームのメンバーが発表された時の監督が同志社大の
監督だった岡仁詩はW杯の直前に代表監督を辞任したにも拘らず
アメリカ戦のTV解説で‘こういう事では困る、キッカーの養成を
ちゃんとしなければ’とキッカーが簡単なPGを外し続けるのを見
てコメントするというのは理解に苦しむもの。
真剣勝負の国際試合というのは現場の実力だけでなく協会の力も
試されるというが、当時の日本協会が大学ラグビーのみを盛り上げ
代表チームの強化には全く無関心だったからこそ起こった不祥事と
も言えるだった。
結局アメリカ戦を落とした事からテンションの下がった状態でイ
ングランドと対戦して7-60で大敗すると勝ち抜けの決まっていた
オーストラリアには善戦したものの23-42で敗れて3戦全敗とい
う結果に終わり、第2回こそ予選を突破しジンバブエ相手に1勝を
挙げたものの代表チームを率いた宿沢広朗体制が交代すると第3回
大会でニュージーランド相手に145失点という空前絶後の記録を作
られる惨敗を喫し無責任体制の協会率いる日本は急坂を転げ落ちる
かの如く転落していくわけである。
ちなみにこの日は同じ時間帯にWBAバンタム級タイトルマッチ
が行なわれ王者の六車卓也が1位の朴賛栄相手に防衛戦を行ったの
だが、不運なバッティングをアゴに貰ってダメージを溜めた末11R
・TKO負けするなど国際試合で連敗という苦い1日になった。