ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
八浪・熊本工の因縁
先日購入した高校野球の資料‘熱球譜’に50年選抜の熊本工についての
記述が載っていた。
この大会の熊本工は準優勝した高知商に3-5で敗れるのだが、 9番
打者がホームランを打ちながら1塁ベースを踏み忘れてホームランを取り
消されたり、4番の八浪が2アウトランナー無しから空振り三振したものの
投球がワンバウンドかもしれないという事で高知商ナインが引き上げた
ダイヤモンドを一周しホームイン。
その後、お互いにノーバウンドとワンバウンドを譲らず八浪が高知商の
キャッチャーの体に触れて退場寸前までエキサイトしたというもの。
この2点が認められていたら5-5の同点だったのだ。
67年春以来8年ぶりに出場した75年春、監督として熊本工を率いたのが
50年春に4番を打っていた八浪氏。
この時は初戦で優勝した高知相手に0-4から8回に追いつきながら、延長
12回にホームランを打たれて4-5で力尽きた。
翌76年夏にも出場。
初戦の相手は今治西で、熊本代表にしてみると75年夏は九州学院が準
優勝した新居浜商に1-3で初戦で敗れており2年連続での愛媛勢との対戦
だけでなく、3期連続で四国勢との対戦となったのだ。
試合は前年の春にリリーフで登板した瀬高がキャプテンで3番セカンド。
1回表に瀬高のスクイズで幸先よく先制した熊工だったが2回裏にスクイ
ズで追いつかれて迎えた3回表。
1アウトからヒットで出塁した瀬高が4番のヒットで3塁に進むが送球が
逸れたので一気にホームへ走る。
ところが上手く処理した今治の3塁手からの送球でタッチアウトと思い
きや、瀬高は相手キャッチャーの林も飛び蹴りし落球させたがラフプレー
でアウトを宣告されただけでなく、林から胸ぐらを摑まれ乱闘寸前まで
行った。
試合は膠着状態のまま11回裏まで進み先頭打者の林が左中間に
落とした打球が2ベースとなり1アウト満塁とチャンスを広げる。
ここで今治は初球をサヨナラスクイズ。
打球は瀬高の前に転がり、ホームインしたのが瀬高から蹴られた林だった
のは何かの因縁か?
その打球を拾った瀬高は悔しそうに放り投げていたのが印象深い。
翌77年春に熊工は九州大会で優勝して甲子園に乗り込んだ。
初戦の相手は東北大会で優勝した東北で参加校中最高防御率を誇る
佐々木を擁する。
熊工の左腕エースの林田も前年夏を経験しているので好ゲームが期待
された。
実は昨夏の東北は熊工に勝った今治西に3回戦で6-0で勝っている、
熊工が今治に勝っていたら昨夏に対戦していたカードだったのだ。
1回表に東北から1点を先取されるが、2回裏にタイムリーで追い付き1-1
の膠着状態になる。
9回裏に熊工は4番のヒットからチャンスを作り1アウト満塁とサヨナラの
チャンス。
昨夏は1回表に先制したが2回裏に追いつかれてサヨナラ負けしていた
ので‘今度は逆パターンだから スクイズでサヨナラ?’と思っていた。
しかし前年夏に5番を打っていた8番・林田は2塁ゴロに倒れサヨナラ
ならず、延長に入ってからは東北ペースになり12回に勝ち越され1-2で
またもや敗れる。
雪辱を果たすべく3期連続で夏にも乗り込んできた熊工は、初戦で三重
海星に6-4で逃げ切り遂に初戦を突破すると3回戦で対戦したのが福島商。
エースの三浦は予選全試合を無失点、初戦でも福岡の九州産業に1-0で
勝ち無失点記録を続けていた。
1回表に3点を先行されるが3回に1点を返して三浦の無失点記録を止めると、6回に3連打で3-3に追いつく。
そして11回裏に1アウト満塁と春に続いてサヨナラのチャンスを迎え、
打者は春に続いて8番・林田。
‘今度こそスクイズか?’と思っていたら何と頭にデッドボールを受けて押し
出しサヨナラとなった。
劇的な勝利に熊工ナインは狂喜乱舞、まさかの頭部への死球による押し
出しサヨナラに福島商ナインはガックリと明暗が分かれたのだが・・・
整列して挨拶をする前に主審がホームインした山森にホームベースを
踏むよう指示、つまり山森は喜びのあまりホームベースを踏み忘れて
いたのだ。
もし福島商ナインに1人でも冷静な者がいたらサヨナラ勝ちは取り消され
ていたかもしれない。
八浪監督率いる熊工にとってベース踏み忘れや乱闘寸前、11回裏の
サヨナラなど‘歴史は繰り返す’できごとだらけだったのだ。
こういうチームも珍しい。
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早速拝見しました。なるほど熊工は血の気が多い球児の系譜なんですね。川上氏や吉原氏も在校時は熱かったのでしょうか。。
76年に熊工は長いブランクを経て夏の甲子園に復活したのですよね。済々黌が全盛の頃、熊工は夏に出られなかった。。そんな積年の鬱憤を76年と77年にぶつけたのでしょう。しかし私の記憶の中に76年の今治西戦がない‥。翌年の福島商戦や東邦戦はうっすらと覚えているのですが。
最近は高校球児は勿論、プロ野球選手もスマートでクリーンなのが大半ですからね。子どもの頃に見た甲子園球児はみんな怖~いおっちゃんでした。崇徳ナイン、鈴木康友、山口哲治、PLの西田、木戸、小早川、東洋大姫路の松本、安井。愛甲、金村、桐生の阿久沢etc‥。走塁一つにしても殺気立っていた過ぎ去りし日の熱闘の数々が懐かしいですね☆
とはいえ八浪監督以降は、そこまでないのですけどね。
やはり監督のキャラでチームが変わるのかもしれません。
熊本勢の壁は中九州大会で対戦する大分県勢で、津久見や大分商の全盛でしたので昭和40年代は一県一校だった43年と48年以外は全て大分から負けてました。
だから熊本が大分県勢に勝っての出場は75年の吸収学院までないのです。
コワモテの代表は新居浜商の竹場ですね。
ヒゲ面でヤバそうな感じでした。
先日の彦根東戦、習志野がライト前ヒットでサヨナラ勝ちしましたが、75年夏の優勝シーンも同様の結末でしたね。あの時の新居浜商のライトが竹場でした。
今もプロ野球ではヒゲをたくわえた選手は結構いますが、それはあくまでファッションの延長のような感じがします。70年代のシピンや森本潔、江本の口髭などは迫力満点でしたからね
昭和40年代の熊本勢は確かに印象がほとんどありません。津久見の主砲だった大田卓司(元西武)は「大分商は意識しても、熊本勢は全く問題にしなかった」らしいですからね
75年夏の九州学院は確かナイター試合でしたね。最近までNHKで解説していたのは当時の監督だった緒方徹さんでした。熊工は「IT監督」と言われた山口俊介さんや近年の林監督のイメージが強いです。82年夏の平畠の大会400号アーチや、92年夏の剛腕坂田なども懐かしいですね
81年と84年に夏ベスト4入りした鎮西は以後失速してしまったのが不思議でした。出ると強い典型的な例ですよね(久留米商も然り‥)☆
あの頃は確かに中九州といっても殆ど大分代表でしたからね。
やはり甲子園にコンスタントに出てないとレベルが上がらないという事でしょうね。
九州学院の試合は本来なら途中打ち切りでしたが、
前年の鹿実-東海大相模で途中で打ち切って抗議の電話が殺到したため75年から最後までOAという事になりました。
春は初日のみナイターでしたが、7時までに終わったので この新居浜商ー九州学院戦が完全中継第一号ですね。
八浪監督の試合前のキャッチャへの真上ノックは、ボールがなかなか落ちてこないくらい高さがあって、球場が騒然としていたのを覚えています。
それは初耳でした。
やはりそういったフォローがないと公立普通校が甲子園で優勝というのは厳しいでしょうね。
高校野球のベテラン監督のノックは芸術的だという話はよく聞きます。