奈良の寺は平城京遷都時の建築ラッシュ、そして南都復興の鎌倉時代、桃山から江戸初期にかけてのブームがあったといえよう。このブームに乗り遅れた寺は消え、跡のみを残すことになるか、寺域を狭くするかであった。法華寺は創建後、昌泰元年(898年)には「扶桑略記」にあるように、宇多上皇をして「毎見破壊之堂舎。弾指嘆息」させ、建久2年(1191年)実叡の「建久御巡礼記」にあるように「棟毀テ甍アラワニ壇崩ツレテ扉傾二ケリ。春ノ朝雨不止。秋ノ暁キ風サワルナシ」との状態であった。淀殿の発願による再建のときには、叡尊再興の伽藍であろうか、それも堂一宇塔一基となっていた(和州旧跡幽考」)。今残るのはこの慶長6-7年(1601-2年)、片桐且元を奉行にして再建された本堂、南門、鐘楼である。天平の面影は全くない近世建築である。
南門
鐘楼
豊臣秀頼による、後ろには淀殿がいるであろうが、寺社の再建、修理は100件以上だろう。少なくとも明治初めまで維持できたのは、この寄与が大きい。一方この時期は建築ブームである。まずは木材の調達が難しい。そして100件を越える再建・修理である。資金にも限度がある。奉行としての片桐且元は簡素を旨とせざるを得なかったのであろう。本堂には古材を使い、装飾は最低限といったように。鐘楼は、格式と費用のトレードオフの結果か、袴腰のみをとり、縁、腰組を廃しバランスをとった類例のない形となった。如何にも豊臣、徳川の間に入って苦労した片桐且元らしい。
光明皇后の伝説は十一面観音とから風呂に残る。どの時代でも伝説を形として残そうとするものらしい。から風呂は明和3年(1766年)の建築とのことであるが、禅寺の浴室を模したかのようである。天平は何処に?
(注)2011年1月撮影