「秋に到りて楓葉、紅に染む。誠に三秋の奇観にして、三春、東山の桜花と一雙と称す」と黒川道祐の「雍州府志」にある。神護寺は今も昔も紅葉の名所であったようである。周山街道と清滝川が造る谷を挟んだ高雄山の山腹に神護寺はある。鎌倉時代には15棟を越える建物があったとは思えない狭さである。
楼門
「類聚国史」に「淳和天皇天長元年(824年)九月・・・。以為定額。名曰神護国祚真言寺」。神護寺の成立である。もっとも定額寺となる前は、高雄山寺として和気氏の私寺で空海が止住していた。(同時期に室生寺にも空海が活動していたとの寺伝「宀一山記」にあるが、「大和志料」でも疑義ありとしているが、同じ山岳寺院として剽窃したものであろう)。
平安初期に建立された堂塔は、平安末期には廃寺同然、「神護寺舊記」に「人法共断絶。堂屋悉破滅」とある。文覚上人「後結一宇之草庵。即令居住云々」から再建が始まった。その鎌倉伽藍も天文116年(1533年)の細川晴元の焼打ちで焼失(「厳助往年記」)。豊臣氏滅亡後、江戸幕府により伽藍が再整備されたものの、明治、例に洩れず、またも衰微。今に残るのは桃山期の大師堂、江戸初期の明王堂、五大堂、毘沙門堂(昭和10年以前の金堂)、そして楼門である。屋根は明王堂を除き、�達葺か檜皮葺であったろう(残念なことに今五大堂、毘沙門堂は銅板葺に替わっている)。和様、漆喰(?)白壁と素木の柱と神社建築を思わせる簡素さである。中井正清あたりが絡んでいるのであろうか。如何にも紅葉の紅が引き立つ風情である。
明王堂 五大堂
大師堂 鐘楼
(注)2009年9月撮影