寺院には創建した、或いは再興した僧侶の個性が出てくるようである。空海ゆかりの建物をガムシャラに造営していった神護寺の文覚上人など、良い例であろう。直情径行の文覚に愛弟子のように思われ、だが一歩距離を措いた明恵上人の高山寺もその例に挙げられよう。今に残る「絹本明恵上人像」からのイメージであるが。
明恵上人止住のころの伽藍は「高山寺絵図」でほぼ概要は分かる。本堂東側に、阿弥陀堂、羅漢堂そして今の石水院であろう経蔵が並び、西側には三重塔、鐘楼、そして鎮守社が並ぶ。文明2年(1470年)の火災(「大乗院寺社雑事記」)、天文16年の細川晴元による焼打ち(神護寺・高山寺の裏、高雄山に城があったためである。「厳助往年記」)により明恵上人以来の伽藍は悉く壊滅したものの、「上人像」や「鳥獣戯画」等々の絵画、そして典籍などが残る。そして石水院である。
(注)2009年9月撮影
「雍州府志」に「宝蔵の内、西の方、社有り。春日・住吉、両神の画像、有す」とある。この宝蔵が今の石水院か否か判らないが、今善財童子像が有る所に神像が掲げられ、その裏住宅様となっている所が経蔵であったと云われている。春日・住吉両神を安置したのは嘉禎元年(1235年)、明恵上人没後(貞永元年(1232年))のことである。とは云え「春日明神、時々影向、親り明恵に見えたもう」という。しかし明恵上人は東大寺で受戒した華厳宗の僧であった。また春日明神ということで、興福寺の僧が「一代一度、此の処に来たり、神像を開き之れを拝して法事を修す」。この石水院、神仏習合の典型から、明治22年(1889年)住宅に形を変え、場所を変え、今に残る。