一葉一楽

寺社百景

乙宝寺 ー 舎利伝説

2015-04-08 12:35:34 | 寺院
貞和三年(1346)の「越後国乙宝寺縁起」に「此寺草創より以降鳳暦ひさしくつもり手4四百二十八年。・・・。其間堂舎塔廟および千僧坊やうやく荒廃して。今わづかにのこるところは金堂ニ王堂ばかりなり。干時高倉院御宇安元二年丙申(1176)。」とある。寺伝ではそれより十二年早い天平八年となっているが、「縁起」によれば天平二十年(748)創建となる。「縁起」は安元二年砂地から塔の水煙、宝鐸と同時に、心礎・舎利が掘り出されたことを書いている。創建当時は塔があったのであろう。今の三重塔は願主村上忠勝、棟梁は京都の大工小島近江守藤原忠正で慶長十九年(1616)の起工である。完成は元和六年(1620)で、忠勝は完成を配流地丹波篠山で聞いたことになる。
この「舎利」、後白河院の手許に移ったあと、乙宝寺に飛びかえったという。この話は京で長く伝えられたのであろう。「縁起」の詞書は「正二位行権中納言兼春宮大夫源朝臣」(村上源氏の久我通嗣か?)である。




砂地の上に、境内は江戸時代と変わらない風景を見せている。村の鎮守(今の八所神社か?)やら、観音堂、地蔵堂、六角堂、弁天堂、金毘羅堂といった小堂が、神仏混淆の点在する。仁王門は延享二年(1745)、西条(現胎内市西条町)の丹呉平兵衛の寄進による再建、六角堂も延享年間と云われている。この頃乙宝寺伽藍が、地元による整備が行われたようである。城氏、黒川氏、村上氏と、この地の支配者の庇護が、財力の主体が、民間へと移ったことが小堂建立につながったのであろう(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財乙宝寺三重塔保存修理(屋根葺替)工事報告書」乙宝寺 2000)。

 弁天堂
 六角堂
 仁王門

(注)2014年6月撮影
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