森の中のティータイム

離婚を経験し子供達も独立 
暮らしの小さな発見をノートに。

政治は人のため?

2010-06-04 | マイケル・ジャクソン
鳩山さんが辞意を表明する前の「天声人語」で、
「優しさと優柔不断は違う」という、厳しい批判を読んだ。
確かに基地問題では二転三転したし、辺野古に移転する、しないという鳩山さんの迷いが
その都度、ダイレクトに国民に伝わってきていた。

だが評価したいのは、辞任に際して小沢氏を道連れにしたことと、
「辺野古の海を埋め立てるのは自然に対する冒涜」と言って、これを破棄しようとした時の気持ち。
もちろん様々な駆け引きの末だったかもしれないが、現地の方たちの話に耳を傾けた結果だったとも思う。
「国民の声を聴くこと」
政治家に最も必要なことだし、新しい政権に私たちはそんな「政治」を期待したのではなかっただろうか。

結局は、代替案も代替地も見つけられずこれを最後まで貫けなかったことで、より批判が高まったけれど、
基地など誰も受け入れたくないのだから、みなが満足する結果などあり得ないのは分かりきったこと。
彼自身がもっとエゴイストで独断的であったなら、ここまで迷うこともなかったような気がするのだ。
迷いはあってもいい。けれど、権力者としてではなく、国民の未来をしっかり見据えた「公僕としての理念」と
「高潔な信念」に導かれる迷いであって欲しい。

            ******

人の上に立つ人たちの、揚げ足取りや醜い足の引っ張り合いを見るとき、
私は「マイケル」という人の素晴らしさを思う。

マイケルに関して、ファンが「偉大なる功績」とか「偉業を成し遂げた」
などと表現することに、時折、違和感を覚えるのは、多分、自分が彼を尊敬したり好きだと思う部分が
そういうことではないからだと思う。
だからファンじゃない人が、彼を評価する言葉として用いるのは「もっともっと言って!」と思うくらい嬉しいのに、
大好きだという人が使うと、「ん?」と引っ掛かる(笑)

あれだけの功績がある人なのに何故か身近な存在として、あの迸る生命の輝きや
愛すべき人間らしい人柄が好きだった私たちには、それらの言葉が空しい表現に思えてくる。
だから、マイケルについて書かれた様々な本が出版され、幾つかは手元に残してあるが、
功績本?とか、好意的に書かれたものでも「見てきた様に」書かれている本には、食指が動かない。
特に最近出版された、「そんなの誰が聞いたの?」という初耳な話が、
幾つかのエピソードに加えて「マイケルが思ったこと」として、随所に挿みこまれてあるらしい本には。

それらの幾つかには、リアルタイムで海外情報も含めつぶさに得てきたファンにとっては「眉唾」とさえ言えることが散りばめられ
念のため買ったという友人など、半分も読まないうちから「貴女、要らない?」と手放したがった(笑)
「そんなことを、マイケルが思うはずない」と、自信を持って私たちが否定できるのは、彼という人の「真実」を、
ずっと見て追ってきたからだと思う。

彼は、自分のために誰かに「泣いて」懇願したりしない。
彼が最も嫌うことだ。今までも彼はそんな姿を人に見せたことが無いし、親しい人やあらゆる機会に
自身もそう語っている。

彼が涙を見せるのは、大抵他の誰かのためだ。
特に、病気の子供たちや不幸な人たちについて語る時に、彼は時折、溢れる涙を我慢できない。
しかし、自分自身が辛い立場に置かれたときには、一層の努力と持ち前の負けん気で乗り越えてきた。
意地でも泣かなかったし、強気で自分を貫く頑固さを持っていた。
時には真正面から理不尽な仕打ちと対峙し、戦ってきた。
そういう人だからこそ、弱者や困っている人に優しくできたのだと思う。

彼のような人が、国のトップと言わず人類の頂点に立つべき人なんだろうな。
そんなことを言うと、人からバカにされるだろうけど(笑)
私は本気でそう思っている。
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