森の中のティータイム

離婚を経験し子供達も独立 
暮らしの小さな発見をノートに。

「一億特攻への道」と「手作りネックリングカバー」

2024-08-19 | DIY・ハンドメイド・クラフト
この8月もまた、先の戦争にまつわるドキュメンタリー番組がたくさん放送されている。
その中の一つ、NHKスペシャル「一億特攻への道」では、まだ若く純真な少年たちを無残な
死に追いやった記録を観て、胸が締め付けられるようだった。

 

彼らはどのように志願したのか、命が惜しくはなかったのかという疑問の答えがそこにあ
った。1944年、戦況が不利になりつつあるとき、陸海軍から「地方事務所」を経由して学
校長あてに「何人あなたの学校から集めてください」という割り当てが送られてきたという。

 

↓の地図に示された光の柱は、集められた彼らの出身地を表しているという。今でいう
47都道府県全域に及ぶ。
 

当時の東条英機首相を初めとする首脳陣の思惑通り、純真な若者の心に戦意高揚感を植え付
けるのは容易だった。報道も国と一丸となってこの無謀な作戦に突き進んだ様子がわかる。

 

 

「民主主義国家では国のために命を捨てるような人は現れない」「アメリカには絶対できない
日本人にしかできない」「崇高な精神力の発揮である」と唱え、志願兵に対する圧力も高まっ
ていったという。「熱望」と志願した者は恐らくそういった圧力あってのことだろうが、出陣
命令がでたのは彼らばかりではなかった。成績優秀だった者は国のために残されたのだという。

 

 

 

22歳で出撃した西村さんは、米空母の目前で敵機に爆撃され、はかなくも海面に散った。
のちに、その様子が米軍の記録に残されていたことがわかった。

 

 

 

にも拘らず、見事轟沈したと、歌まで作られ称えらえた。西村さんの名誉のためではなく、
作戦を続けるために。

 

 

 

 

 
神に例えられたその命は、実は紙切れのように選別され、使い捨てられて。
 

 

伊藤忠商事の創業者も、こう述べてこれを奨励したという。
若者の命を、すでに無駄死にと判りつつもこのような愚かな作戦に向かわせた責任を、一体
だれがとったというのだろう。

奇しくも今、朝ドラ「虎に翼」では1955年の「原爆裁判」を扱うことになっている。
被爆者遺族が国に責任を問う裁判だ。この裁判で三淵さん(寅子のモデル)らが裁判官
としてどのような判決を言い渡したかは、ご存知の方も多いだろうと思う。

(以下、ネタバレの一部になるかもしれないけれど)
日本は戦争に於いて国民に等しく「受忍」を求める方針をとり、50万人とも言われる
民間の空襲被害者などの犠牲者に対して実態調査もなく、一切の補償をしなか
った。軍人・軍属などには60兆円超の補償をし、被爆者、引揚者、シベリア抑留者など
に対して救済措置をとることが決定したものの、民間人が対象外になった理由は、「政府
との雇用関係がないから」だと。

因みに、イタリアは1978年の「戦争年金統一法」により、国家が個人の被害を認め、
民間被害者に軍人と同等の年金を支給することが決まり、ドイツでも1950年「戦争犠牲
者の援護に関する法律」により、すべての戦争被害に対する責任があるとして軍人や民
間人といった立場に関係なく、被害に応じ補償する決定をしたという※(テレ朝NEWSド
リルより)
「始めた戦争の責任を取らない国」に、私たちは住んでいるのだということが悲しい。

(個人的には、今の寅ちゃんと花絵さんのヘアスタイルが気になって、ストーリーが
なかなかアタマに入ってこないw;)

 

沢山見てちょっと頭を冷やした方がイイかもしれないけど、またまた首を冷やすものをw
今回は以前裾上げした麻のサーキュラースカートの切り取った部分を使いました☆

 

これも長姉と私の二枚を。そして↓は、以前保冷剤を入れるタイプのネッククーラーとし
て作った物と同じ布を使って、やはり同じ手染めでドット柄を作り、仕上げました。
今回は、ポンポンと押すときに染料がにじんでしまった箇所があり、失敗かなと思ったけ
れど、自分用ならそれを内側にすればいいかもと(笑)


 


 ふふ~ん
社長みたいな福太郎さんw
  

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6 コメント

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Unknown (みなあん)
2024-08-20 21:29:58
毎年8月は戦争関連番組が数多く放送されるので、今年も録り溜めている状態ですが、この番組とサイパン関連のものなど数本は観ました。
さすがに既視感のあるものも多いなか、この番組は膨大な資料の分析と地道な取材が素晴らしく、とても分かり易かったですし、新しい視点からの衝撃的な内容もありましたね。
取り上げていただき感謝です。
軍事、政治、教育、宗教、報道などを総動員して、同調圧力で若者を死地へ追いやるという怖ろしさ。
自分がその時代に生きていても、公に反対の声はあげられなかったのでしょう。
大人しい国民は侮られ続け、今また沈黙と無関心のまま戦前に向かうのでしょうか?
今は投票、署名、資金援助などの小さな意思表示で抗うことができるのですから、その権利を行使していきましょう!
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Unknown (eowyn)
2024-08-20 22:50:42
10年以上前ですが、知覧の特攻平和会館に行きました。
展示されている特攻隊員ひとりひとりの写真と、出撃の前に家族に宛てて書かれた遺書を拝見し、いったいどこからこんなに涙が出るのかというぐらい、あふれて止まりませんでした。
辛い、哀しいといった気持ちではなく、わたしの心は真っ白だったように覚えています。
そしてあの涙は、わたしが泣いていたのではなく、特攻隊員の涙だったような気がします。
卓球の早田ひな選手の発言で、多くの人に特攻平和会館を知ってもらえたと思いますが、わたしは全国の学校が修学旅行で行って欲しいとまで思います。
この番組は見ていませんが(NHK+で見ておきますね)、国のこのような思惑で若い命が集められ、そして散って行ったと思うと、やり切れない気持ちでいっぱいになりますね。
先の戦争に限らず、日本の政府はちゃんと総括しないんだなと、腹立たしくもなります。

社長みたいな福ちゃんは、おかあさんの監督をしてるのかな?
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みなあんさん (wildrose)
2024-08-21 13:00:25
毎年、八月を中心に放送されたこれらの特集について
コメント下さり感謝します☆
私も「オッペンハイマー 私は死神になった」前編後編を初め、今年もいくつかの原爆や戦争関連の特集を観ました。

とりわけこちらと、“最後の1人を殺すまで”~サイパン戦 発掘・米軍録音記録~は衝撃でした。
昨年も観たサイパンの特集では、日本人の目から見た恐怖と狂気でしたが、
今回は米兵たちから観て、日本人は兵士に限らず子供含め一般人も殺さねば
「命を懸けて攻撃してくる」という脅威であったことが窺われました。

それは、国民一丸となって戦争に向かった日本の狂気を感じ取った故のことだったのかもしれませんね;
>軍事、政治、教育、宗教、報道などを総動員して、同調圧力で若者を死地へ追いやった
と、みなあんさんが仰ったとおりです。

どちらにしろ私たちが今できることの一つは、
知る限りの戦争の悲惨さを後の世代に伝えることかと思い
毎年、誰も読んでくれそうにないこんな日記を綴っています(笑)

「話したくない」「思い出したくない」と多くの経験者が心を閉ざす中、
あの悲惨な経験を振り絞るように話してくれた人たちへのお返しになるとも思いました。

酷暑の中、いつも本当に励みになります☆
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eowynさん (wildrose)
2024-08-21 13:41:18
eowynさんの「特攻平和会館」での体験は、心に響きました☆
そこに行きたいと言った早田ひな選手の言葉が
日本が占領したアジア諸国の人々の一部に、
ご本人の意図しない形に受け止められたことは残念でしたね。

早田選手同様、戦争体験のない世代のはずだと思いますが、
恐らくそれもその国の過度の「教育」のせいだったこともあるかもしれませんね。
逆に「平和教育」と銘打って「敵国であった国を恨む」のではなく
「戦争を選択しない」ことを強調し続けてきた日本の戦後教育。
こればかりは間違ってなかったと思いました。
私たちは逆に、この国の愚かさをしっかり心と頭に刻んでいきたいと思っていますよね!
(安倍政権時代に、その教育もアヤシクなりましたが)

二女が仕事がお休みだったこの「8月6日」に、一人娘を連れて広島に行き、
原爆ドームや広島平和記念資料館を観てきた感想を聞きました。
疲れていた体に加え、心重たく、二人でうなだれて帰ってきたそうです。
それでも、大事な教育だったと娘を褒めてやりたいです。
私もいつか戦没画学生慰霊美術館「無言館」に行ってみたいと思っています☆
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Unknown (あきらとマドンナ)
2024-08-21 16:40:49
 私も九州の旅で色々なところを見て回りました
大分の回天の基地なども見ましたが、脱出装置の無い回天に乗った乗務員はどんな気持ちだったのでしょう
戦争は人間を狂気にさせます
本当に怖いです。先の大戦の色々な記録などを見たり聞いたりしていると指導者の責任の重大さに改めて気がつきました
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あきらとマドンナ様 (wildrose)
2024-08-22 13:06:42
あきまどさんが九州へのご旅行の際にも
様々な戦争の痕跡を訪ねられていたことを思い出しました。
特に、回天という名の「人間魚雷」は、胸が痛むご経験であったと思います。

難しい操縦だったと記録にある通り、搭乗員が様々な訓練をしていても
艇の不安定さにより、多くの命が失われたと聴きました。
未完成の試作品に乗せられたようなものだったと思いますが、
彼らはどんな思いでそこに臨んだのでしょう…。
それを思うと、私も心が痛いです。

戦争末期の、軍の破れかぶれの作戦を思いついた人々は、
彼らの死に何を思ったのでしょうか。
人の命を重んじる気持ちは、消え失せたのでしょうか。
まさに戦争は人に「狂気」をもたらすものなのですね‥。
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