「無題」 (四)―⑩

2012-06-02 15:48:55 | 小説「無題」 (一) ― (五)

                 「無題」


                  (四)―⑩



 家を出て行った娘が、突然自殺未遂をして戻って来たことで誰も

がその対応に戸惑った。私と妻は何よりもまだ小学生の下の子に好

ましからざる影響を与えるのでないかと心配していた。実は、私は、

美咲との関係に悩んで色々と本を読んだりもして、中には、ある学

者は「人は十才で人間になる」と語り、それまでは自己形成を妨げ

る不安やストレスをできるだけ避け、親からのスキンシップやこと

ば掛けによって愛されているという安心感の中で育てなければなら

ないと言っていた。つまり、子どもたちはただ寝てばかりいるだけ

でもただ遊んでばっかりいるだけではないのだ。大事なのは親が側

に居て見守られながら学習と応用を繰り返して自己を形づくってい

く。そして、十才を過ぎると今度は自立心が芽生えてきて親の過干

渉が鬱陶しくなってくる。だから私は、己然とは、たとえ疲れてい

てもできるだけコミニケーションを図って十才までは寂しい思いを

させないように妻にも言い聞かせて心掛けていたが、ただ、残念な

ことに美咲を我が子として受け入れた時にはすでに彼女は十才を過

ぎて自己形成が不安定なまま自立心だけが芽生えていたので突然現

れた私と親子の絆は築けなかった。彼女には本当に悪いことをした

と思っている。ところで、昨今は、共働き夫婦が当たり前で、更に

は男女共同参画社会の実現などと謳い、大人の視点からしか社会の

在り方が語られないが、たとえ施設に預けても子どもは親と引き離

されることで少なからずストレスに感じているに違いない。我々は

霊長類が一産一子であることの意味を改めて思い出す必要がある。

子どもの側から言えば、母親であれ父親であれ、わが子を背負って

職場へ連れて行って仕事をしたって構わないと思うんだが。ま、そ

こまではしなくても、かつては、お母さんは道端であれ電車の中で

あれ豊満な乳房を人目を憚らず惜し気もなく曝け出して我が子に母

乳を与えていた。それを見ている男たちも誰も邪(よこしま)な想像

などしないで至極自然なことだと思っていたではないか。私は女子

が電車の中で化粧をしたって邪魔にさえならなければ全く気になら

ない。あれってそんなに悪いことなのかな?例えば、電車の中で泣

き止まぬ子に母親が突然衣服をたくし上げて乳房を曝して母乳を授

けたとすれば一体誰が非常識だと非難できるだろうか。それとも、

乳飲み子を抱えて電車なぞに乗るなとでも言うのか。意識の変化に

伴って社会のモラルも変わっていくのは分るが、ただ、物言わぬ子

どもが不在のまま行き過ぎた大人社会のモラルが形作られているこ

とに危惧の念を覚える。生物進化から言えば、大人とはただ子ども

の成長のためだけに生きているのだ。

                                  (つづく)
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「無題」 (四)―⑪

2012-06-02 02:51:06 | 小説「無題」 (一) ― (五)

           「無題」


            (四)―⑪


 美咲は、京都の病院に入院中に担当医に勧められてメンタルヘル

スのカウンセリングを受けた。妻の説明によると、今は抑うつ状態

にあって経過を見ないと早計に診断を下すことは出来ないが、何ら

かの人格障害が隠れているのかもしれないので、自宅に帰って日常

を取り戻したら東京の精神科医を受診するように強く言われた。そ

こで妻は、自堕落な日々を送って愚図る娘を説得して、何ヶ所か診

療所を連れ回してついに美咲も納得できる医師の元へ通い始め、カ

ウンセリングを重ねたその結果、彼女は境界性人格障害だと診断さ

れた。私も、それから初めてその症例を確かめたが、その症状は様

々で一言では断定できないが、なるほど彼女の言動に当て嵌まった。

私は、何よりもまず二度と彼女にリストカットをさせないようにそ

の精神状態から抜け出させようと焦ったが、すると妻は、それが彼

女を追い込むことになるので良くないと言った。

「じゃあ、どうするの?」

「放っておくの」

彼女が再びリストカットをしても、それは彼女が納得してすること

だから周りの人間がとやかく言ってもどうにもならないことだ言っ

た。彼女にはもちろん死ぬ自由は与えられていたが、否、彼女にと

っては生きていることこそが束縛で、自由とは生きることから逃れ

ることだったのかもしれない。私は何時も彼女の自由の行使に怯え

ながら、ただ彼女が生きようとする本能に従うことを願いながら見守

るしかなかった。そのうちに、私にも美咲の苦しい思いが少しづつわ

かってきた。我々は何だってかくも生きることに縛られているのだろう

か?服従を強いられ自由を奪われても抗わないのは、ただ自分を生

きることに縛りつけているからではないのか?私は、もの心が付いた

時から教え込まれてきた社会の常識が徐々に崩れ始めた。

 夢幻はかくも冗長なる経緯さえも瞬時に再生させて、更に、私が

危惧していた予測までも演出した。つまり、娘が再びリストカット

したという妻からのデンワは、私が夢の中ででっち上げた幻想だっ

た。その夢幻から目覚めて車窓の景色を見渡せば、右には削られた

山肌が迫り新緑に彩られ、左には紺碧の大海原が広がり、その水平

線の上はどこまでも青空だった。そして、ハテ自分は何でこんなところ

に居るんだろうと、最前遭遇したばかりの人身事故さえもう既に忘れて

しまっていた。電車はもう乗客のために走っているというよりも、ただ時

刻表のために仕方なく走っていた。すでに乗客は疎らだった。


                                    (つづく)