「無題」
(四)―⑤
美咲は降りて来るなり私の横に来て、私はイスごと躰を彼女の方に
向けた。彼女はすぐに「お父さん、ごめんなさい」と言って頭を垂れ
ると、同時に両眼に溜まっていた涙が滴になって彼女の足下の床を濡
らした。私は、その落下の軌跡を辿っているうちに、もちろん一瞬の
ことだが、もう彼女を叱る気を失った。乱れた髪の間から俯いた彼女
の顔を覗くと頬が赤く腫れ指の跡だと判るほどそこだけ鬱血して白く
斑になっていた。彼女が嗚咽を繰り返していると、妻が「もうやりま
せんでしょ」と忘れたセリフを教えた。彼女はその言葉を繰り返すと
止めどなく新しい滴で床を濡らした。私は「よしっ、わかった」と言
って初めて彼女の頭を撫でた。すると彼女はもう一度「ごめんなさい」
と言ってその頭を私の胸にうずめた。「もういい、わかったから」、
そう言って私は自分の隣りのイスを引いて席に着くように促した。席
の決まりはなかったが、それは自分がほとんどテーブルを一緒に囲む
ことがなかったからだが、下の子が産まれてからは専ら妻が傍らに着
くので四つの席の占め方は自然とそうなった。「さあ、メシにしよう
!」と私が言うと鬱陶しい儀式は終わって、妻が娘に泣き腫らした顔
を洗ってくるように言い、彼女は洗面所に駆け込んだ。私は妻にごは
んの間はもうそれ以上彼女を咎めないように言って、やっと目の前の
特上すしにも食指が動いた。久々のトロを頬張りながら、例えば、子
どもたちに好きな親を選ばせて、我々は見ず知らずの異性と子ども
の前で仲睦まじい夫婦を演じることが出来るだろうか?恐らく、美咲
がそんな辛い思いをしなくてはならないのは彼女だけの所為じゃない
と思いながら、むしろ、謝らなければならないのは、子どもたちの気
持ちも考えもせずに「パパ」が突然居なくなったり、また、知らない「
おじさん」がある日から「お父さん」になったりと、私たちの感情絡み
の思惑で子どもたちが育っていく根拠を奪ってしまう身勝手な大人た
ちの方ではないかと思うと、彼女が気の毒に思えて仕方なかった。
すると、口に入れたトロのワサビが効き過ぎていたのか、急に涙が
溢れてきてきた。
(つづく)