「無題」  ( 一 )

2012-06-30 00:09:47 | 小説「無題」 (一) ― (五)


                  「無題」

                 

                   ( 一 )


 世の中がツマラナイ。その原因が世の中にあるのか、それともいつ

の間にか齢五十を超えてしまった自分にあるのか、実際、若い頃は何

だって出来ると息巻いていたのに、実は何ひとつ為し得なかった不甲

斐なさの所為なのか、わからないが、

「ツマラナイ」

と、職場への通勤電車に揺られながら独りごちた。二十年近く同じ時

刻の同じ電車に乗って、もっとも電鉄会社の都合で多少の変化はあっ

たが、先頭車両から三両目の最後尾のドアが閉まる間際を見計らって

車両に移り、すでに座席は埋まっていたが立ったままで新聞くらいは

気兼ねせずに読める程度の混み具合で、そのドアに張り付いて見飽き

た車窓の景色に目を遣りながら、それでも強い日差しと木々の新緑に

春の訪れを知り、やがて快速電車は二三の駅で電車を待つ人々を置き

去りにして、都内へ入る手前の停車駅に近付いて仕方なく減速し始め

ると、それもここ一二年前からのことだが、傍らの座席の端に座って

いた顔馴染みの同世代の男性が、とは言っても一度も言葉など交わし

たことなどなかったが、どういう情け心なのか知らないが、車内を窺

う私と目を合わせてから立ち上がり、ドアが開けば乗客が大挙押し寄

せてくる前に温めた座席を譲ってくれた。私は軽く会釈をしてそこに

尻を下ろすと彼の温もりが伝わってきて、ドアが開いて満員になった

車内で、もうここには居ない彼の顔を思い出させた。恐らく人はこう

やって世の中から姿を消していくのだろうなどと思いながら辺りを見

廻すと、大勢の人々が居るにも関わらず、他人とは関わらずに誰もが

ひたすら携帯画面を見入っている光景が異様に思えた。都会の無関心

という呪縛はここから生まれるのだと思いながら、人混みの頭越しに

天井から吊るされた週刊誌の広告に目を遣ると、国民を無視した不毛

な権力争いや新しい気運を生み出せないマンネリ化した社会の停滞だ

けが見えてきてツマラナかった。目を転じると、もう一方の広告には

それはいったい何を宣伝しているのかまったく理解できなかった。た

ぶん映画かDVDの宣伝だろうがそれ以上自分から知りたいとは思わ

なかった。そうだ!このごろ自分が明らかに広告の対象から外れてし

まったことに気付かされる。そう言えば、映画や小説にも関心が薄れ

てしまった。かつては、世間で評判になった作品に期待をして映画館

に足を運んだり、或いは新刊本を買い求めたりしたが、北野たけしの

「ヤクザ」映画や村上春樹の「自分探し」小説は何を言いたいのかま

ったく解らず心を射抜かれることはなかった。それ以来映画も小説も

ほとんど見なくなった。そんな退屈な社会を象徴しているのが音楽だ。

もはや如何なる新曲も新しい曲とは思えないほど、つまり若い頃には

クラッシクがみんな同じに聴こえたように、今では流行歌がみんな同

じに聴こえてしまう。社会は経済至上主義という画一的な競争原理の

下で人々から多様性や寛かさを奪い、ずる賢く生きれない者は社会か

ら見捨てられ逃げ場所を失くしてさ迷っている。さらに、情報化社会

は遠方の見知らぬ者と繋がることが出来ても、反対に地域社会は繋が

りを失って人々は大都会の孤独を感じ、災害でも起きない限り隣人と

関わることはないが、然りとてそれも喉元までの話だ。そもそも身を

惜しんで「絆」など生まれるはずがない。経済の停滞は所得格差を拡

げ、賑やかな近代文明の下で新たに「非正規雇用」という奴隷制度ま

で復活し、資本家の搾取による封建社会が復古しようとしている。誰

もが明日のことさえ見えないその日暮らしとそれさえも失う不安に怯

えて生きている。豊かさをもたらした近代文明はいよいよ終焉を迎え

ようとしているが、しかし、全く失くしてしまったのなら自然に還る

よりほか道はないのだが、その還り道には到る所に文明の利器が投げ

捨てられてあり、豊かな生活に後ろ髪を引かれずに後戻りすることが

出来るだろうか。私は、何も寓意を語っているつもりはない。原発

事故による放射能汚染はまさしくそうではないか。恐らく、我々は、

生きて行けると信じていた近代文明によって滅びようとしているの

ではないだろうか。私は、世界は終わろうとしているに違いないと

思いながら、溜息を吐いた。

 その時、快速電車は突然大きな警笛を執拗に鳴り響かせた。都内に

入って二つ目の駅を通過しようとしていたが、それと同時に急ブレー

キを掛けた。その反動は思ってもいなかった全ての乗客に作用して誰

もが進行方向へ投げ出されたが、幸いなことに満員であったために人

の波に押し戻されて何処までも転がる人はいなかったが、それでも吊

り革を握る手を離さずには居られないほどの勢いで、車両の前方から

はその重圧に耐えられなくなって叫び声を上げる乗客さえ居た。しば

らくして車掌は人身事故が発生したことをアナウンスして、興奮が伝

わってくるほど何度も繰り返した。急停車した電車の先頭車両はすで

にホームを通り越していたが、しばらくしてからゆっくり後戻りして

一応ホームには収まり、車掌は少し冷静さを取り戻してドアを開ける

ことをアナウンスしてから私の座席の向かい側のドアを開けた。満員

の乗客は車両から投げ出され、二人の駅員がホームを先頭車両の方へ

走り去るのが見えた。すでに姿は見えなかったが、

「タンカッ、タンカ!」

と、後の者に言っているのか大きな声が聞こえた。しばらくして一人

の若い駅員が担架を抱えて駆けて来て彼らの後を追った。ざわめい

ていた乗客は何事もなかったように次々に車両を後にして、中には先

頭車両の方へ走って現場を確かめに行く野次馬や、ほとんどの者は先

ほどまで目にしていた携帯デンワを耳にしていた。ホームに降りると

朝の清々しい春風が生臭い血臭を運んできて堪らずホームを後にした。

改札口では詰め寄る客に中年の駅員がハンドマイクを使って事情を説

明していた。駅の外からは救急車のサイレンが、少し経ってから複数

のパトカーのサイレンがけたたましく近付いて来て止まった。凡そ一

時間くらい遅れる見込みだと中年の駅員は説明した。先頭車両に乗っ

て居てその様子を見たという高校生は、恐らく見ず知らずと思われる

会社員の男に興奮気味に説明していた。警官が改札口を通って人混み

を割って入り、駅員に話し掛けた。駅員はハンドマイクを降ろして耳

に手をかざして傾いた。警官は、

「ヒイタ?」

若い駅員は首を横に振って、

「ハネタ!」

と答えると、警官は敬礼をして昇り階段の方へ駆けて行った。先ほど

の高校生はさらに多くの人々に取り囲まれるともう一度最初から話し

始めた。彼によると、飛び込んだのは女性らしい。誰かが「若い人?」

と訊くと、「そこまでは見なかった」と前置きしてから、今度はみん

なにも聞こえるように大きな声で、服装からしてそんな年寄りではな

いと言った。駅員はハンドマイクで取り囲む利用客に向かって何度も

同じアナウンスを繰り返していた。私の傍らに居た男は「轢いてなけ

ればスグだよ」と誰に言うでもなく呟いた。私は何も応えずに、その

場を離れて携帯で会社に電話を入れた。会社は都内の中堅の食品ス

ーパーで、以前は仕入れを任されていたがライバル店との競争に寝

る間を惜しんで働いた結果、ストレスから胃がおかしくなって入院

する破目になり、初期の潰瘍でさほど大事にはならなかったが、元の

職場への復帰は医者より厳にたしなめられて、今では事務方に席を

移して伝票整理などの雑務を与えられていた。私のデンワはパート

の女性が受話器を取って、まだ誰も出勤していないと言うので事情

を説明して出勤時間が遅れることを課長に伝えてほしいと言うと、

「わかりました」

と答えてから事故の様子を聞きたがったので、私は、

「ちょうどあなたと同じ年頃の女性だったよ」

と、先ほどの高校生から又聞きした話をさも見たように言うと、

「身につまされる」

と言った。

 彼女はまだ三十前だったが、卒業してすぐに就職した会社の男性と

結婚し、子供を一人儲けて離職するとすぐに離婚までしてしまった。

ただ、最近にパートとして来たばかりで何があったのか知る由もない

が、パートの仕事だけでは生活できないことは自明で、週末の夜は男

に媚びを売る仕事もしているらしい。その彼女から「身につまされる」

という言葉を聞かされると、年頃の娘が居る自分にとっても身につま

される話だった。

                                    (つづく)

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