「無題」 ( 二 )

2012-06-26 07:19:46 | 小説「無題」 (一) ― (五)


              「無題」


               ( 二 )


 私は、私鉄の駅までは大分離れているが移動して乗り換えるか、そ

れとも再び動き出すのを待つか迷っていたが、ただ、あの血塗られた

電車には乗りたくなかった。私と同じように佇んで思案を巡らす人々

の雑踏を割いて二人の警官が話しをしながら私の傍を通り過ぎた。

「もうちょっと後にしてくれたら帰られたのに」

「ついてないよな」

彼らは多分夜勤明けだったのだろう。毎日身近に人の生き死と関わっ

ているといちいち殊勝がっていては日常が保てないのは分るが、本分

を見失っていないか些か気に掛かった。日常という現実は我々の理

想を内部から気付かれないように浸蝕するのだ。その時、携帯が鳴り、

課長からだった。

「あっ、竹内さん、おはようございます」

彼は私より五つ年下だった。

「おはようございます」

「あのー竹内さん、もし予定がなければアレだし、今日休んでも構わ

ないけど」

彼は話の中によく「アレ」という言葉を挟む。謂わば癖のようなもの

だ。私は始め「アレだから」と言われても何のことか解らずに「アレ

て何ですか?」と訊き返すと、嫌な顔をして無視された。私はその課

長に、

「あっ、そうですか」

と答えたが、それは思ってもなかった選択肢だったので戸惑った。

「ほら、仕事もアレだし、ゆっくりすれば」

「解りました、じゃあそうします。わざわざ有難うございます」

彼は、こういう休ませ方が本人の意気に冷水を浴びせるものであるこ

とが解っていない。否、むしろ解っていてそうしているのかもしれな

い。もう読者の方は気付かれたかもしれないが、私は会社から戦力外

通告を言い渡されて引退勧告まで受けていた。

 会社は、最初小さな八百屋から始まり、バブル崩壊後のデフレ経済

の下で品質よりも安値で客を集め、主に都内周辺から関東圏に全盛時

には200店舗を越えるまでに成長したが、今では大手との競争に曝

されて苦戦を強いられ100店舗を割るまでに落ち込んでいた。私は、

初めて就職した会社がバブル崩壊の影響で倒産して失職し、当初、た

だ生活のためだけにまだ創業店のみだった頃にアルバイトとして雇わ

れた。そして、社長の隠しごとのない性格や分け隔てしない人柄が気

に入って正社員になり、やがて、新規開業店の店長を任されるまでに

なると、運良く地域が都市再開発によるマンション建設ブームになり、

人々の都心回帰の流れに乗って売り上げが伸び、身体を悪くするまで

は統括本部で主に生鮮野菜の仕入れを指揮するまでに部下が増えたが、

やがて、ライバル店との鎬(しのぎ)を削る競争に、深夜にまで及ぶ営

業時間の延長や無休営業などで寝る間を削り、また、儲け度外視の「

凌ぎ」を削る闘いの果てに、愈々身体がおかしくなってしまった。そ

して、創業者と共に築き上げた業績も、創業者亡き後を引き継いだ苦

労知らずの二代目が、その時の思い付きで新しいことに手を出しても

思い通りにならないとすぐに投げ出してしまい、つまり、彼は新しい

ことをするのが好きなだけで、とは言ってもそれさえも人真似で自ら

考たものなど一切なかったが、それも何一つものにならなかった。彼

は、ものの見方が一面的で、箸の置き方一つで人を不愉快にすること

もあるなどとは知らなかった。つまり、バカ息子だった。そして、何

よりも苦労が徒労に終わる辛酸を舐めたことがないことが彼に自分自

身の過ちを省みる習慣を与えなかった。自分の言動を俯瞰して見る「

自省心」を持たない経営者を、否、経営者だけでなく如何なる人物に

も私は可能性を感じない。恐らく、長く勤めたこの会社は彼の手によ

って最後を迎えるに違いないだろう。実は、私はもうこの会社という

乗り物からもいつ降りようかと思案しているところだった。

 私は、再び改札口を通って今度は引き返すためにホームに向かった。

下り電車は時刻表通りとはいかなまでも既にゆっくりと動いていた。

いつもならこの時間にはそれほど混まない下り方面も事故の影響で混

んでいた。時間から解放されて自由を得た身は、出来るだけ混雑の少

ない車両を求めてホームを歩いていると知らぬ間に最後尾まで来てし

まった。そして、何気なくホームを挟んで反対側へ目を遣ると女性を

撥ねた上り電車の血に染まった先頭部分が目に入った。そこには夥し

い鮮血と脳漿のようなものがフロントガラスまで一面に飛び散ってい

た。私は、見たいという好奇心と見たくないという感傷の間の無意識

に陥って凍りついたようにしばらく動くことができなかった。電車の

向こうでは多くの警官や駅員が遺体の一部やら遺品を回収し終えて線

路脇に白布を掛けて置いていたが、作業を終始見ていた人によると頭

部だけがまだ見つからないらしい。私は、忘れていた血臭が蘇えって

きて居た堪れなくなってその場を離れようとその電車伝いに向きを変

えて歩き出して、しばらくすると前方のホームと電車の隙間に見慣れ

ないものがあることに気付いた。近付いてホームの上から側溝に挟ま

った毛だらけの塊りを覗き込んだ。すぐには何だか解らなかったが、

絡まった毛の奥からカッと見開いた生き物の血眼と視線が合った。眼

だと判ると少し斜め上を向いている女性の顔だと分って、私は、

「アアー 、あたまダ―ッ!」

と情けない声で叫んだ。


                                    (つづく)