「無題」
(三)
私は、一刻も早く死臭が漂うその場から立ち去りたかったので滑り
込んで来た電車に、満員だったが乗客の背中を押し込んでドアの中に
身を収めた。ただ、満員の車内に居てもあの眼が脳裏から消えなかっ
た。吐き気を覚えながらあの眼はどこかで見た記憶があると思ったが、
思い出すことが出来なかった。電車が県境の河を越えて快速電車が止
まる乗換駅に着くと下車してトイレに駆け込んで吐いた。ホームに戻
ると快速電車が入って来たのでそれに乗った。座席を確保して流れる
風景を眺めていると、思い出した。
「そうだっ!靉光(あいみつ)だ、靉光の眼だ!」
画家、靉光の描いた「眼のある風景」は、土塊なのかそれとも腐敗し
た肉塊なのか、シュールなその塊りの中に人間の眼だけが具象的に描
かれていた。その眼は、悦びや哀しみといったこの世で生きる者が抱
く感情を失って別の世界からその絵を観る者を凝視していた。つまり、
その絵を観る者は同時に絵の中の眼に見られていた。何も語らずただ
見詰めるだけの眼だ。私と目が合った頭部だけになった死者の眼はま
さに靉光が描いた眼だった。その鋭いまなざしは生きる者たちのいか
がわしさを訴えていた。私がその視線に耐えられなかったのは自分の
怯懦を見透かされた羞恥からだ。自分のさもしい私欲を暴かれたから
だった。

靉光「眼のある風景」(昭和13年) 国立近代美術館蔵
(つづく)