「叡知」②
私は、この「叡知」というものにどうしてもこだわってしまうの
ですが、と言うのも、時代が大きな転換を迫られている時には、こ
れまで通りの知性では、何故なら知性とは過去の記憶からもたらさ
れるのですから、新しい考え方が生まれて来ないと思うからです。
これまで近代社会は自由主義経済の下で競争原理に従って生存競争
を受け入れて発展して来ましたが、いよいよ経済がグローバル化し
て、世界は近代化し均一化され、何れアマゾンの奥地にもマクドナ
ルドのチェーン店がオープンし、やがて密林も資源として扱われ未
開の自然が失われ、そもそも自然循環の中で暮らしていた人々は近
代人とは別の価値観で暮らしていたのだが、遂には彼等も近代社会
のルールに従わされ、世界経済は緩衝地帯を失い、一方の豊かさは
他方の貧しさの犠牲の上に築かれるゼロサム世界をもたらすでしょ
う。当然、均一化した世界は人々の均一化した思考から生まれます。
すでに、歩くことよりも車に乗って行く方が楽だというのは世界中
の誰もが認めることですが、しかし「安楽」はその他の価値よりも
優先されると言えるでしょうか。もちろん、我々の知性が求める合
理性はそんなことで戸惑ったりしませんが、果たして、自動車があ
れば歩くことは価値を失うのでしょうか。仮に、歩くことが何より
も楽しいことだとすれば、半日かけて歩くところを自動車に乗って
わずか一時間足らずで着いてしまうことがどれほど馬鹿げたことに
思えくることでしょう。それにも拘らず、合理化して余った時間に
は運動不足を解消するために、ランニングマシンの上で仕事もせず
にひたすら駆けることに費やされるのがどうして合理的だと言える
でしょうか。つまり、経済合理主義は我々の身体的価値までも経済
的価値に置き換えてしまい、我々は主体として「生きる悦び」とい
う目的を見失い、労働者という経済的手段、それを家畜と呼ぶのは
誤りだろうか、に堕落してしまったのだ。そういう経済合理主義の
ロジックから抜け出し、もう少し人間性を回復させるには、合理性を
越えた感性から生まれる「叡知」こそが求められているのではない
だろうか。
ずいぶん話が逸れましたが、われわれの知性は、恐らく近代文明
の呪縛を解いて目の前にある経済合理主義を棄てて、車に乗って楽
(らく)して行くことよりも、歩くことを楽(たの)しむことを選ぶこ
とはまずないでしょう。国土を未来永劫に亘って放射能物質で汚染
する国家存亡の危機に陥れた原発事故を起こしてさえも、我々は再
び同じ誤りが起る可能性のある原発の廃止をたった一年で覆してし
まいました。そこには、コウノトリの親が自らの身を犠牲にしても
必死になって我が子を守ろうとする「叡知」の片羽も見受けられな
い。何としても繰り返さないという煩悶の後が見えない。ただ、賢しい
知性で経済を優先する為に過去の誤りを糊塗したというだけではな
いか。それすら実際は怪しいが。しかし、知性からは新しい創造を生
む「叡知」はもたらされないとすれば、我々に降り濯ぐ日射ならぬ放射
線はいったい誰が身を挺して遮ってくれるというのだろうか。