<志賀直哉の誤解>
シェイクスピアの戯曲、特に「ハムレット」を題材にした文学作品は多い。作家の想像力を刺激するのだろう。
日本人作家では志賀直哉の「クローディアスの日記」、大岡昇平の「ハムレット日記」、太宰治の「新ハムレット」、小林秀雄の「オフェリア遺文」などがある。
だが時代のせいもあると思うが、ピントがずれているとしか言えないような内容のものもある。
たとえば志賀直哉の「クローディアスの日記」では、驚いたことにクローディアスが兄を殺していないことになっている。
「おれが何時貴様の父を毒殺した?」だの「父が殺されたと云ふ不思議な考」だの「一人の心に不図湧いた或考」だのという信じられない言葉の連続。
この人は3幕3場のクローディアスのこのセリフを読み飛ばしたのだろうか?
おお、この罪の悪臭、天へも臭おうぞ。
人類最初の罪、兄殺しの大罪!
どうしていまさら祈れようか。
・・・この呪われた手の甲が、兄の血にまみれて厚くこわばっていたからといって、
天には、それを雪のように洗い浄めてくれる雨がないのか?
・・ああ、だが、どう祈ったらいいのだ、おれは?
「忌まわしい殺人の罪を許したまえ」と?
それは言えぬ、人を殺して、そうして手に入れたものを、今なお身につけていて。
王冠も、妃も、いや、野心そのものを、おれはまだ捨てきれずにいるのではないか。
罪の獲物を手放さずにいて、それで許されようなどと、そのようなことが? (福田恆存訳)
クローディアスがもし潔白なら、どうして一人っきりの時にこんなことをつぶやくだろうか。
この場面で彼が苦しみもがきつつも祈ろうとして膝を折るのは、大罪を犯した過去があり、
その罪の重荷に責め苛まれているからだ。
志賀直哉は「坪内さん」の訳を「ゆっくり随分丹念に読んだ」と書いているが、ここを読み落としたとしか思えない。
その迂闊さには唖然とさせられる。
志賀は、むしろクローディアスの兄である亡きハムレット王の方を、疑い深い、性格の悪い男として描いている。
何の火の気もないところに猜疑心を募らせる陰気な人物として。
彼は「クローディアスの日記」の後書きで、かつて或る日本人役者の演じるハムレットを見て「如何にも軽薄なのに反感を持ち、却ってクローディアスに好意を持った」
ことと、「幽霊の言葉以外クローディアスが兄王を殺したという証拠は客観的に一つもない事を発見したのが、書く動機となった」と書いている。
確かに劇中の人々にとってはそうだが、ここで引用した箇所から分かるように、この芝居を見ている観客には、クローディアスが犯人だとはっきり分かるように
書かれている。
原作の戯曲の内容と「辻褄を合すのに骨が折れた」と正直に書いているところは好感が持てるが、残念ながら肝心なところで辻褄が合っていない。
≪仇討ちとキリスト教≫
3幕3場でハムレットは、一人祈っているクローディアスを見つけ、殺そうとするが、思いとどまる。
やるなら今だ。やつは祈りの最中、造作なくかたづけられるーーよし今だ。
(剣を抜く)やつは昇天、みごと仇は打てる。
待て、そいつは。
父は悪党に殺された。忘れ形見のおれがその悪党を天国に送りこむ・・・
ふむ、雇われ仕事ではないか、復讐にはならぬ。
そうだ、あの時、父上は現世の欲にまみれたまま、生きてあるものの罪の汚れを洗い清めるいとまもあらず、
あの男の手にかかって非業の最期をとげられた。
天の裁きは知る由もないが、どう考えてみても、軽くすむわけがない。
が、これが復讐になるか。
やつが祈りのうちに、心の汚れを洗いおとし、永遠の旅路につく備えができている今、やつを殺して?
そんな、ばかな。(剣を鞘におさめる)
いいか、その中で、じっと身を屈して時を待つのだ、
飲んだくれて前後不覚に眠ってしまうときもあろう、
我を忘れて怒り狂うときもあろう、
邪淫の床に快を貪るときもあろう。
賭博に夢中になり、罵りわめくとき、いや、いつでもいい、
救いのない悪業に耽っているのを見たら、そのときこそ、すかさず斬って捨てるのだ。
たちまち、やつの踵は天を蹴って、まっしぐらに地獄落ち。・・・ (福田恆存訳)
これは、「考えてみれば、ずいぶん奇妙なこと」だと吉田健一は言う。
ハムレットはキリスト教の教義に従って、父は懺悔する暇もなく死んだために煉獄で苦しんでいる、と信じている。
祈っている叔父を殺せば、彼を直ちに天国に送ることになるかも知れない。
それでは復讐にならない、とハムレットは考える。
しかし、そもそも叔父を殺して父の仇を打つという考えは、キリスト教の教義とはまったく違う。
このような相克は当時は不問に付されていた。
一方にはキリスト教の教義があり、他方、俗世間の道徳問題においては、もっと原始的な、言わば旧約聖書的な倫理観が支配していた、と吉田は言う。
なるほど!考えてみれば、確かにその通りだ。
戯曲のあまりの迫力に、その点についてはまるで思ってもみなかったけれど、言われてみれば、まったくその通りだ。
当時の観客の生きる世界では、その両方の価値観、世界観が入り混じっていたようだ。
吉田健一のおかげで、また視界が広がった。
シェイクスピアの戯曲、特に「ハムレット」を題材にした文学作品は多い。作家の想像力を刺激するのだろう。
日本人作家では志賀直哉の「クローディアスの日記」、大岡昇平の「ハムレット日記」、太宰治の「新ハムレット」、小林秀雄の「オフェリア遺文」などがある。
だが時代のせいもあると思うが、ピントがずれているとしか言えないような内容のものもある。
たとえば志賀直哉の「クローディアスの日記」では、驚いたことにクローディアスが兄を殺していないことになっている。
「おれが何時貴様の父を毒殺した?」だの「父が殺されたと云ふ不思議な考」だの「一人の心に不図湧いた或考」だのという信じられない言葉の連続。
この人は3幕3場のクローディアスのこのセリフを読み飛ばしたのだろうか?
おお、この罪の悪臭、天へも臭おうぞ。
人類最初の罪、兄殺しの大罪!
どうしていまさら祈れようか。
・・・この呪われた手の甲が、兄の血にまみれて厚くこわばっていたからといって、
天には、それを雪のように洗い浄めてくれる雨がないのか?
・・ああ、だが、どう祈ったらいいのだ、おれは?
「忌まわしい殺人の罪を許したまえ」と?
それは言えぬ、人を殺して、そうして手に入れたものを、今なお身につけていて。
王冠も、妃も、いや、野心そのものを、おれはまだ捨てきれずにいるのではないか。
罪の獲物を手放さずにいて、それで許されようなどと、そのようなことが? (福田恆存訳)
クローディアスがもし潔白なら、どうして一人っきりの時にこんなことをつぶやくだろうか。
この場面で彼が苦しみもがきつつも祈ろうとして膝を折るのは、大罪を犯した過去があり、
その罪の重荷に責め苛まれているからだ。
志賀直哉は「坪内さん」の訳を「ゆっくり随分丹念に読んだ」と書いているが、ここを読み落としたとしか思えない。
その迂闊さには唖然とさせられる。
志賀は、むしろクローディアスの兄である亡きハムレット王の方を、疑い深い、性格の悪い男として描いている。
何の火の気もないところに猜疑心を募らせる陰気な人物として。
彼は「クローディアスの日記」の後書きで、かつて或る日本人役者の演じるハムレットを見て「如何にも軽薄なのに反感を持ち、却ってクローディアスに好意を持った」
ことと、「幽霊の言葉以外クローディアスが兄王を殺したという証拠は客観的に一つもない事を発見したのが、書く動機となった」と書いている。
確かに劇中の人々にとってはそうだが、ここで引用した箇所から分かるように、この芝居を見ている観客には、クローディアスが犯人だとはっきり分かるように
書かれている。
原作の戯曲の内容と「辻褄を合すのに骨が折れた」と正直に書いているところは好感が持てるが、残念ながら肝心なところで辻褄が合っていない。
≪仇討ちとキリスト教≫
3幕3場でハムレットは、一人祈っているクローディアスを見つけ、殺そうとするが、思いとどまる。
やるなら今だ。やつは祈りの最中、造作なくかたづけられるーーよし今だ。
(剣を抜く)やつは昇天、みごと仇は打てる。
待て、そいつは。
父は悪党に殺された。忘れ形見のおれがその悪党を天国に送りこむ・・・
ふむ、雇われ仕事ではないか、復讐にはならぬ。
そうだ、あの時、父上は現世の欲にまみれたまま、生きてあるものの罪の汚れを洗い清めるいとまもあらず、
あの男の手にかかって非業の最期をとげられた。
天の裁きは知る由もないが、どう考えてみても、軽くすむわけがない。
が、これが復讐になるか。
やつが祈りのうちに、心の汚れを洗いおとし、永遠の旅路につく備えができている今、やつを殺して?
そんな、ばかな。(剣を鞘におさめる)
いいか、その中で、じっと身を屈して時を待つのだ、
飲んだくれて前後不覚に眠ってしまうときもあろう、
我を忘れて怒り狂うときもあろう、
邪淫の床に快を貪るときもあろう。
賭博に夢中になり、罵りわめくとき、いや、いつでもいい、
救いのない悪業に耽っているのを見たら、そのときこそ、すかさず斬って捨てるのだ。
たちまち、やつの踵は天を蹴って、まっしぐらに地獄落ち。・・・ (福田恆存訳)
これは、「考えてみれば、ずいぶん奇妙なこと」だと吉田健一は言う。
ハムレットはキリスト教の教義に従って、父は懺悔する暇もなく死んだために煉獄で苦しんでいる、と信じている。
祈っている叔父を殺せば、彼を直ちに天国に送ることになるかも知れない。
それでは復讐にならない、とハムレットは考える。
しかし、そもそも叔父を殺して父の仇を打つという考えは、キリスト教の教義とはまったく違う。
このような相克は当時は不問に付されていた。
一方にはキリスト教の教義があり、他方、俗世間の道徳問題においては、もっと原始的な、言わば旧約聖書的な倫理観が支配していた、と吉田は言う。
なるほど!考えてみれば、確かにその通りだ。
戯曲のあまりの迫力に、その点についてはまるで思ってもみなかったけれど、言われてみれば、まったくその通りだ。
当時の観客の生きる世界では、その両方の価値観、世界観が入り混じっていたようだ。
吉田健一のおかげで、また視界が広がった。
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